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【2021年】パラミタカレンダー

リアクション公開中!

【2021年】パラミタカレンダー
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リアクション



【6月】



 霧に包まれたタシガンの空が、鼠色へと変わっていく。
 ぽつり、ぽつりと。昼前に降り出した雨は次第に強くなり、あっという間に本降りとなる。
「……止まぬな」
 強くなる一方の雨音に、藍澤 黎(あいざわ・れい)は呟いた。
 パチン、パチンと。剪定鋏が薔薇の茎を切る音が、遠くに聞こえるようだった。
 緩やかな曲線を描く硝子張りの天井は、普段なら青空を映し太陽の光を薔薇たちに届け、草木を花を白い枠で切り取って見せてくれる筈だった。
 それが今では、打ち付けられた雨と跳ねた雨が断続的に白い輪で硝子を覆い、流れ落ちる過程で、景色を不格好なストライプに裁断してしまっている。
 雨の降り始めに閉めた換気口に目をやって、まさか入っては来ないと思うが、と懸念しつつ黎が手元に視線を戻すと、雨音が急に近くなった。
 冷たい風が入り込み、薔薇の葉を揺らす。その方向には温室の入口がある。
 振り向けば、知人がいた。
 買い物袋から制服の上着をのけて中身の無事を確認した早川 呼雪(はやかわ・こゆき)は、ずぶ濡れで肌に張り付いたシャツに、ほんの僅か、困ったように眉をひそめる。髪先からはとめどなく水滴が滴ってシャツを濡らしていた。
「早川殿でしたか。……そこでは冷える、こちらへ。突然大降りになりましたな」
 黎が作業の手を止めて奥のベンチを示す。
「ああ。丁度この植物園の前を通りかかって……、温室があることを思い出した。藍澤は……薔薇の世話か?」
「雨季の薔薇は、普段より手間がかかる。病に虫など、懸念材料は多いのだ」
 水滴によって伝染する薔薇の病気に、雨は大敵だ。よく見て、場合によっては薬をまかなければならない。
 かといって植物なのだから、根にはたっぷりの水をやる必要がある。咲き終えた薔薇には、水によって土から流れ出る養分があれば肥料を足す。
 それらは、今咲いている薔薇、これから咲く薔薇、咲き終えた薔薇──多種多様の薔薇の、そしてそれぞれの今日ではなく明日や次の季節、来年を見据えた、ひとつひとつへの細やかな気配りが要求される。
 優雅に見えてかなり根気のいる作業で、黎にとっても正直猫の手も借りたいくらいだった。
 呼雪はといえば、ベンチに荷物を置き、上着を乾かすべく広げた。
 上着は畳んでかけていたせいか、それ程濡れていなかった。暫く干していれば乾くだろう。袋の中の品も無事のようで、明日の朝食に困ることはなさそうだ。
「俺は<蒼い月の市場>に行ってきたんだが、突然降られてしまった」
 蒼い月の市場は、薔薇の学舎ほど近くオペラ座の向かいにあり、タシガン市民の台所とも言われている。
「傘があれば貸したいところだが、我も今朝からここにいるので生憎──」
 黎がそう言ったところで、再び風が吹いた。
 同時に、黒く長い髪の少年が入ってきた。端正な口から無愛想な言葉が漏れる。
「先客がいたのかよ」
 彼北条 御影(ほうじょう・みかげ)の手には傘がある。……といっても、それは折り畳みの傘で、土砂降りの雨には余り役に立たないことは、彼がここにやって来たことからも明白だった。髪も服の表面も雨に湿っており、真っ直ぐ帰宅したなら、呼雪とさほど変わらない姿になっていただろう。
(降りそうだとは思ったが、ここまで酷いとはな……。 折角うざったい奴ら(パートナー)が居ねーってのに散々だぜ)
「……あ、悪い。気にしないでくれ」
 彼は制服の水滴を払うと、黎と呼雪から少し距離を置いたところに立ち位置を定めると、鞄から分厚い参考書を取り出して眺め始めた。
 が、すぐに眉間にしわがよる。参考書が風でひとりでにめくれたのだ。
 ──今度避難してきたのは、白黒スカジャンにダメージジーンズと言ったラフな格好の少年だった。
「あー、ついてねぇな。折角の服が台無しじゃねぇか……お、早川に藍澤じゃねぇか。ついてる……のか?」
「瀬島」「瀬島殿」
 呼雪と黎に呼ばれて、瀬島 壮太(せじま・そうた)は苦笑いを浮かべた。
「よっ、お前らも降られたのか?」
「お互い酷い濡れ鼠だな」
 呼雪がハンカチで、壮太の髪を拭う。
「いや、ダチに会いにタシガンに来たんだけどよ、こんなんじゃ格好つかねぇよなー」
 おまけに水を吸ったジーンズは重くて冷たい。
「暫く雨宿りしてくか。でさ、おまえここで何やってたんだ……? へえ、薔薇の手入れ? 薔薇、切っていいのか?」
「風通しをよくするためや、次の新芽の為にも剪定は必要なのだ。」
 黎の専攻──というより、個人的な研究の対象は、薔薇の品種改良である。
 薔薇の学舎に入学を許可されるにあたっての絶対条件であると考えられる“美”。その美の中には、たとえば一芸に秀でている者も入るだろう。芸術を重んじる校風、ということもあり、個人の美的な活動は学舎によって支援されており、黎もそんな有形無形の支援を受けている者の一人だった。
「貴殿も一輪どうか? 開ききったというより、ちょうど満開という具合で、胸や髪に刺すのにいい」

 その頃、水を跳ね上げながら帰路を一直線に走る、一人の青年の姿があった。
「くそぅ、イエニチェリに怒られた」
 そうぼやきながら規則正しく美しいフォームで走る変熊 仮面(へんくま・かめん)は、既にびっしょりと濡れていた。雨水を吸ったイエニチェリ風マントを何とか首に固定することには成功していたが、それもいつまでもつことやら。
 もしこれが外れてしまえば、服までがびしょ濡れ──ではない。猥褻物陳列罪か迷惑防止条例の類でしょっぴかれること請け合いだ。
 というのも、彼はマントのほかに何も身に着けていなかったからである。
 流石に東シャンバラのロイヤルガードたる身、それは避けなければいけない。それに寒いし。
 というわけで、彼は温室の存在を思い出して、進路を変える。
 しかし、すぐに辿り着いたのはいいが、空けようとした扉は硬く閉ざされ、押しても引いてもびくともしない。
「がっ! 入り口鍵かかってる!」
 叫んだ彼はがちゃがちゃ鍵を回そうとしたが、結果は同じだった。こちらは温室の裏口で、大抵の場合鍵が掛けられているのである。しかも雨と、背の高い薔薇が生い茂っているせいで、中に誰がいるのかも判らない。逆も真なり。
「ぐぐぐ……こうなれば。とうっ」
 変熊は近くの木をするすると昇ると、温室の屋根へとジャンプ。カエルのようにへばり付く。
 ずりずりずり、とカーブする硝子の屋根を、白い骨組を足掛かりに登っていく。
 そして丁度中央近く、傾斜が緩やかになったところで、眼下に人の姿をぼんやりと確認した。
 ドンドンドン!
「おーい! お前らこっち見ろー!」
 変熊は大声をあげながら、硝子を叩く。

「…………」
 暇つぶしの参考書から目を上げて、空模様を気にして天井を眺めていた御影が、一瞬だけ、妙な顔をする。それから元の仏頂面に戻って、視線をすいっと横に、なるべく自然に見えるように、ずらした。
 その視界に再び、“それ”が入ってきそうだったので、彼は再び視線をずらし、それから、参考書に目を落とす。
(鍵が掛かっている訳でも無いんだからさ、普通に入ってくればいいじゃないか。入ってきたとしても……関わり合いになるのは止しとこう)
 ──が。
 その祈りは天に届かなかった。
 まず、“それ”は見つけられた。友人と会話を交わしていた呼雪は、天井を、雨の白の向こう、分厚い雲の灰色を見上げていた。無論雨はまだしばらく止む様子がない。しかし灰色の途切れ光が差す場所を待つような気持ちで見上げていれば──その姿があった。
 次に、壮太がそんな御影の心のうちを読んだかのように声を上げる。
「ところで温室の外にいる変熊は……あれは無視しててもいいのか?」
「良くないだろうな」
 雨のせいでよく聞こえないが、変熊は絶え間なく硝子を叩きながら、早く入れろと叫んでいるようだった。
 呼雪が答え、全裸の友人に、ジェスチャーを送って入口を示す。
 ──やがて、了解したのか変熊はずりずりと再び降りると、バンっと勢い良く温室の壁を開け放った。
「……遅かったじゃないか! 風邪でも引いたらどうするんだ!」
「その格好で言われましても……。それより早く扉を閉めてください、変熊殿。薔薇が痛みます」
 黎が言えば、変熊は大人しく従いつつ、
「人の心配より薔薇の心配か。まったく、イエニチェリめ、ゲコゲコ。今度は見てろよ、ゲコゲコ」
 それから、頭の上でいつのまにか鳴いているアマガエルに気付いて、
「あ〜、そこのカエル君。頭からどけてくれないかね……へーっくしょん」
 ずずっと鼻水をすする変熊。どうやら既に風邪を引いてしまったようだ。
「くそう……ん? それは何だね?」
 黎が壮太や呼雪に渡していた大輪の薔薇を見つけた変熊、早速彼に悪態をついていたことも忘れて紳士らしくつかつか近寄り、
「ああ、それはいいものだね。一輪いただけるかな」
「ええ、どうぞ」
 黎もしれっと手渡す。変熊は得意げに笑うと、
「済まんね。この寒さでは、薔薇でもないよりは──いてっ!」
「これは失礼した。棘の処理がまだだったようだ」
 変熊がどこにさそうとするかなど、黎にはお見通しだった。しれっと棘付きの薔薇を渡した彼は、しれっと知らんぷりを決め込む。
「貴様、絶対わざとだろ!!」
「そもそもそのようなところに挿すなど想定しておらぬ」
「おいおいお前ら、ケンカしてんじゃねーぞ?」
「絶対絶対わざとだ!!」
「それより変熊、風邪をこじらせないうちにそのマントを脱いだ方がいい」
 講義する変熊、言い返す黎、止めようとする壮太、変熊を心配する呼雪。
 どうやらそんな口論をするうちに、寒さなど彼らのうちからは吹っ飛んでしまったようだ。
 ──そしてやがて、参考書を照らす光に、御影は空を見上げた。いつの間にか雨は小降りになっており、分厚い雲間から、一条の光が差し込んでいるのだった……。