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第十九章 隔離病棟の夜。


 視線恐怖症というものが、神経症にはある。
 正確には、対人恐怖症というのだが、それはともかくとして。
 武神 牙竜(たけがみ・がりゅう)は、最近、妙に女性陣の視線が気になっていた。
 気が付くと向けられている、異性の視線。気になってしまう。それが自意識過剰によるものか、恐怖によるものか、不安によるものか、なんなのかはわからないまま。
「なんか、病気にでもなったのかなと思って」
 診察してもらいに来たわけだが。
 診断結果は、思いもよらない衝撃的なものだった。
「……はぁ? 俺が病気? 入院が必要!?」
 病名。
 それは、突発性フラグ乱立症候群。
 なんの病気だ、と思い、言葉さえ無くしていると。
「突発性フラグ乱立症候群――。ギャルゲーやラブコメの主人公のような立ち位置となり、一挙手一投足がフラグと化す。
 この病気に罹ったものは、最悪――『Nice boat.』というバッドエンドへ辿り着く……っ!!」
「ナ、ナイスボート……?」
「ともかく、きみ。流し目をしてみたまえ」
 言われるがままに、流し目。
 シャラン――。
 視線に、光が舞った。
「……はぅっ」
 医師の横に控えていた若い女性看護師が、額に手を当て眩しそうに牙竜を見た。それから崩れ落ちる。
 次に向けられた看護師の視線は、どことなく熱っぽく色を含んでいて。
「こりゃ、深刻な病気だわ……」
 自分でも、自分の危うさを自覚して。
 入院の手続きを取ることにした。


*...***...*


 そして入院先は、隔離病棟。窓には鉄格子が嵌り、ドアには外から掛ける鍵と、内から掛ける鍵とふたつあり、患者も安心、看護師も安心の病棟だ。
 隔離病棟というと聞こえは悪いが、言ってしまえば安全地帯なわけで。
 最近、身の危険というよりは貞操の危機を感じていた牙竜としては安心できた。
「鍵は看護師か医者しか持ってないから、悠。今日は安心して寝られるぞ」
「うーん……」
 牙竜と同室に入院していた篠宮 悠(しのみや・ゆう)へと気楽な声を投げると、悠は未だに不安そうな顔をしていて。
「……あいつが相手だからなぁ」
「そういや、悠はなんで隔離病棟に入院してるんだ?」
 悠の入院理由は、足の骨折だ。
 ヒーローになったことだし、飛び蹴り技が欲しいと思って練習した結果、らしい。
「居るんだよ……」
「?」
「俺を気に掛ける、クソ危ない魔女がよ!」
 頭を抱えて悶える悠。
 これほどまでに、悠を怯えさせる魔女とは……。
 お目にかかりたいような、絶対に嫌なような。
「来るなよ危ない見舞い来るなよ絶対来るなよ来るなよ……」
 悠はブツブツと「来るなよ」と呪文のように繰り返す。
 その声が不気味に響く病棟。
 入院生活はまだ、始まったばかりである――。


*...***...*


 さて、一方一般病棟では。
 過労で倒れ、点滴を受けていた橘 恭司(たちばな・きょうじ)が、もうすっかり良くなった顔色で病棟の廊下を歩いていた。
「あの……」
 唐突に、話しかけられて立ち止まる。
 振り返ると、見知らぬ若い女性看護師。
「はい?」
「あの、宅配業者の方ですよね?」
「ええ、確かにゆるネコパラミタの者ですが」
「なんでも届けてくれると聞いたんですけど……」
 もじもじと、赤い顔で彼女は言う。
「配送ですか? モノはどこに?」
 依頼とあらば、どんな物でもどんな場所でも、お届けするのがポリシーである。
 そう、それがたとえ、
「頭部が黒字に赤のバイザーのヒーローさんで……」
「ああ、武神牙竜ですね」
 者であろうとも。
 恐らく、牙竜のラブコメ主人公補正的能力にやられた看護師さんなのだろうが、相手の素性など関係無いし興味もない。
「承りました。後日お届けに参ります」
 ただ、依頼を遂行するだけだ。
「入院している病棟は、隔離病棟で……」
「では、何号室に居るかと、それからちょっとした工作をお願いできますか」
「工作……?」
「はい、薬を……」
 もにょもにょ、廊下の隅っこで作戦会議をして。
 契約を完了させたところへ、
「お〜っす社長、生きてるか〜?」
 恭司の見舞いで病院を訪れた淡島 優(あわしま・ゆう)がやって来た。
「優、仕事だ」
「配送? 仕事道具なら持ってきてますぜ?」
 さすが、有能な部下だ。
「よろしい、ならば梱包だ」
 狙うは武神牙竜。
 きゅ、っと皮手袋を手に嵌めて。
 いざ梱包せんと、隔離病棟へ向かう。


*...***...*


 リース・アルフィン(りーす・あるふぃん)は、牙竜と悠のお見舞いに行きたいと思っていた。
 が、しかし。
「武神さん、入院先が隔離病棟なんだって……それに、面会謝絶……」
 そんな噂を聞いてしまって意気消沈。
 それじゃ、お見舞いできないし。
 お見舞いに行って、二人の距離を縮めたり……なども、できない。
「うーん。こまったなぁ……」
「それなら、僕が医師に、リース君がナースに変装すればばっちりなんじゃないか?」
 天の助けか、はたまた悪魔の囁きか。
 クロード・レジェッタ(くろーど・れじぇった)の提案に、。
「そっか! ナースに扮して行けば、合法的に入れるね!」
 リースは顔を輝かせて喜んだ。
「クロード君、あったまいい! あ、でも……バレないかな? バレたら、叱られて、嫌われちゃったり……しないかな? 大丈夫かな?」
「ふふっ。忘れてないか? 僕は研究者だよ。医師免許の一つや二つ……」
「持ってるの!? クロード君、すご――」
「偽造はお手の物さ」
「くなかった! けど、ある意味すごいよっ!」
 褒めつつ、用意されたナースの服を持って着替えに行くと。
「リース、あの……、」
 ノワール クロニカ(のわーる・くろにか)が、おずおずと声を掛けてきた。
「? どうしたの、クロニカ?」
「あの、あの……、私もお見舞いに、行きたいです。
 男の人、ちょっと気になってて……。リースの男友達が、入院してるんですよね?」
 そうか、それはつまりクロニカにとってチャンスなのだ。
 男の子が気になってしまうのは、思春期の少女にはよくあること。
 そういうときにどうすればいいか?
 答えは簡単、思う存分、見て、触って、色々すればいい!
「うん、一緒に行こう! ねえクロード君! ナース服もう一着あるー?」
「僕は研究者だよ。ナース服の一着や二着……」
 なぜ持っている、とはツッコまないのが優しさだ。

 こうして医師とナースに扮した三人組は、隔離病棟に向かう。
 見知った人をちらほら見かける病院を通り過ぎて。
 この先隔離病棟。
 悲鳴や物音が聞こえて、少し急いで駆け付けると。
 そこは、思った以上ににぎやかで、カオスで、酷い状況だった。


*...***...*


 ゴリ、ゴリ。
 斧の刃が床を削る音が響く。
 ゴリ、ゴリッ。
 小さく、華奢な身体に似合わぬ大きな斧をぶら下げて。
 クロエ・ル・リデック(くろえ・るりでっく)は、「ふふふっ」小さく笑みを零した。
 昏く、純粋な、笑顔。
 ただその笑みは、今この場で浮かべるようなものではない。
 あるいは、隔離病棟らしく、『本来本当に隔離されるような対象』が浮かべる笑みとしては、至極正しかったような気もしないではない。
「悠さん悠さん悠さん」
 最愛の人の名前を、歌うように弾むように口ずさみ。
 足音と、斧を引きずる音を響かせる。
 カツ、ゴリッ、カツン、ゴツッ。
 クロエ、悠さんに会いたくて、会いたくて、思い切ってお見舞いに来ちゃいました……!
 その気持ちだけで心臓は高鳴り、脈は早くなる。
 だけど。
 病室に辿り着いて、鉄格子の嵌った窓を見て。
「……邪魔……」
 こんなのが窓に嵌っていたら、悠さんに会えないよ……?
「えいっ」
 小さく声を出し、振りかぶる大斧は。
 一撃で、格子を粉砕した。
「ひっ――」
 病室から、悠の短い悲鳴。
 ああ、やっぱり、ここに居た。
「悠さん。どうしたんですか。何か居たんですか?」
「くっ……来るな、来るなぁ! 俺はただの骨折だ! 入院患者だぁっ!」
「?? 何を言っているのか、よくわかりません、それより――。
 クロエ、また悠さんに会えて……嬉しくて……」
 窓から病室に侵入。
 その際に斧が落ちて、「ひっ!」、ガツンッ、と床を大きく抉ったが気にしない。
 再び斧を手に、悠へと笑顔を向けた。
「嬉しくて……」
 ゴリ、ゴリ。
「でも悠さんとどう接すればいいのか、今でもわからなくてっ……!」
 斧を。
 振り上げる。
「ひぎゃぁ!!」
 悲鳴を上げて、逃げ惑う悠。
 床を転がって逃げる様が、愛らしい! 愛おしい!
「悠さんっ、素敵ですっ……!」
「なっ、あ、うわぁ!! 牙竜ッ、助けろ!!」
「俺、さっき看護師さんに飲まされた薬のせいで動けないんだが」
「なんだとぉお!? どうなってるんだよこの病棟はっ!!」
「悠さん、逃げないでください〜」
 振り上げる。振り下ろす。
 別に、攻撃したいんじゃないの。
 傷つけたいんじゃないの。
 ただ、この、どうしていいかわからない感情を、持て余してしまっているだけ。
 そしてそれを、斧に乗せて振るっているだけ。
 どうして受け取ってもらえないのかは、わからないけれど。
 床が砕ける。瓦礫となって、舞う。その中を逃げる、悠の姿。
 陶然とした表情を浮かべていたら。
「あらら、思った以上にカオスで酷い状況だねー」
「私はちゃんと検査を行います、よ……?」
 リースとクロニカの声が聞こえた。


*...***...*


「リースっ、クロニカ!? 何でナースの恰好なんだ!」
「おや? 僕にはツッコミなしか」
 ひょっこり、クロードも顔を出して。
「誰でもいいから助けてくれクロエ怖いクロエ怖い!!」
 悠は必死で助けを求めるが、
「ナースの私は、ナースらしく触診しちゃうぞー!」
 聞いちゃいなかった。
「クロニカ、武神さんの検診は任せたからねっ! 私は悠さんを、へっへっへ〜」
「わかりました。……武神、さん……」
 しかも、敵だった。
「わ、あ、ぁ。来るな、おまえら。来るなっ……!」
「やだなぁ、逃げないでよ悠さん。ほら、クロエも見てるよ。男らしくいこうよ」
「男らしくなんかなくていい! 逃げさせろー! 第一俺は骨折だから触診なんて必要としてないし!」
 そんな抗議の言葉は一切の無視で。
 床を這う悠に近付いてくるリース。
 必死に逃げるあまりに乱れた病院着の隙間に、手を這わせて。
「おやおや〜、心臓バクバクだよ〜?」
 さわさわ。
「おまっ、だっ、どこまで触ろうと……!」
「リ、リースさんっ……! 悠さんに何を、」
「ナニを〜♪」
「あわわわわ!!」
 クロエは止めようとしたことを止めているし。
 顔を赤くして様子見してるし。
「そ、そうなんだ……! ああすれば、いいんだ……っ!」
 しかも、間違った方向に納得してる!
 逃げ場はない上に、逃げる足もない。
 観念、するしかないようだった。
 もう入院など絶対にするものか。
 病院という、逃げ場のない場所に飛び込んでたまるか。
 そう、誓いを胸に立て。
 今は、されるがままに、なるしかなかった。


*...***...*


「こ、これが男の人の上半身……」
 筋肉質で、逞しい身体を見て。
 クロニカは、恍惚とした声を上げた。
「胸筋、腹筋……」
 呟きながら、その部位へと伸びそうになる指を自制する。
 だめ、だめよ。
「み、見た感じ、異常はないですね……」
 医療行為なんだから、やましい気持ちで接するようじゃ――
「あ。聴診器、忘れてしまいました」
 そこに、クロードの声。
 聴診器を、忘れた?
 それじゃ、どうやって心音を聞けばいいのだろうか。
 胸に、耳をつけるしか。
 自分の耳で確認するしか。
「武神さん」
「ん」
「や、やましい気持ちで、やっているのではないですからっ!」
 そう、決してやましい気持ちがあるわけでは、ない。絶対にだ。
「ああ、わかって」
 いる、と全ての言葉を聞く前に。
 がばっ、と胸に耳を押しあてた。自分でも性急だったことを恥じ――恥じる心は、ものの一秒で爆発した。
「は……」
「は?」
「恥ずかしいですぅ……!」
 体温。鼓動。女の子と違って、硬くて薄い肉。こちらの皮膚を押し返す皮膚の感触。
 それらを全て感じとって、恥ずかしくなって、
「でも素敵……」
 顔を真っ赤にして、倒れてしまった。
 悔いは、一切なかった。


*...***...*


 聴診器を忘れるという、『うっかり』をやらかしたクロードは。
 同じく誰かが『うっかり』落としたのであろう、牙竜のカルテを拾い上げて読んでいた。
「これは……!」
 そして、読み進めるうちに知った、重大な病名。
「突発性フラグ乱立症候群……だと……!?」
 世の男性が憧れ、そして恐怖を感じ、また尊敬し羨む――そんな、幻の病気が。
 目の前の男が、罹っているとは……!
「あの、世界に二人はいないと言われる、幻のフラグマスターだって……!?」
 感動で、身体が震える。
 呼吸が上手く出来なくなって、慌てて深呼吸ひとつ。
 だって、まさか生きているうちに巡り会えるなんて思わなかったのだ。
 それはもう、感無量である。
 自分のことを改造して、パラミタに来た甲斐が、あった。
 全て報われた。
 そう言っても過言ではないくらいだ。
「クロニカ? 大丈夫か、おーい?」
 触診の最中、気絶してしまったクロニカに呼びかける牙竜。
 しかし、身体は動かせないようで。
 これはまたとないチャンスである。
「フラグ神よ……!」
 にじり寄り。
「私に貴方の血液を! ください! 検査させてください! いえ、させなさいっ!!」
 飛びかかって馬乗りとなったところで――
「こんにち……は……?」
 タイミング悪く、真理奈・スターチス(まりな・すたーちす)が牙竜のベッドへやってきて。
「……失礼。お楽しみのようで」
 冷たい声で、そう言ったのだった。


*...***...*


「田中太郎……おっと失礼。ここでは一応武神牙竜の名で入院しているのでしたっけ? まあ、どちらでもいいですけど……貴方に、男色の気もあるとは思いませんでした」
「誤解だ。解かせてくれ」
「いえ、あまり興味はありませんので」
「いやむしろ解かせて?」
「結構です、そちらの知識を追求していくと、危うそうですので」
 先程見たものについての説明をしてこようとする牙竜の言葉を丁重にお断りして。
「それよりも、本題です。今日はお見舞いに来ました」
 真理奈はいくつかの漢方薬を鞄から取り出した。
「田中のために、色々な漢方薬を調合してみたんです。古今東西、様々な本を漁って適当に――」
「おい今適当って」
「いえいえ、しっかり、調合してきました」
 しっかり、を強調して言って、薬包紙につつまれたそれらをサイドボードに並べて行く。
「俺の心配をしてくれるのは嬉しいんだけどさ。……悠は助けなくていいのか」
「悠ですか」
 クロエとリース、両手に華で楽しく絶叫しているようだが、何か問題があるのだろうか。
 見舞いのことならば、
「自業自得ですから、別に。気にもしてませんよ?」 
 必殺技の練習で足を折るなんて、漢方でどうこうもできないし。
 そういえば、牙竜はどうして入院したのだろう。何の病気なのか。まあ、色々と作ってきたのだ、効くだろう。多分。
 自問自答を自己完結したところで、病室に橘 恭司淡島 優が入って来て。
「失礼」
 牙竜を手際よく梱包しはじめた。
「いやいや、え? ちょっとお二方」
「おっと、騒ぐなよ田中? 人が集まって大変な事になるぜ?」
 優が笑った。目は、笑っていなかった。真理奈は動向を見守ることにして、傍観者に徹する。
「しっかしこれだけ女を集めるとは、やるねぇ。ウチの社長もこれくらいやってくれたら……」
「余計な御世話だ」
「そりゃ失礼」
 無駄口を交えながらも、てきぱきと。
 その間に、牙竜が手を動かした。
「あ、動い、たっ? こらやめろ、梱包するな!」
 どうやら今までろくに動かせなかったらしい。後遺症のように、自由が利かない腕をぶんぶん、振りまわす。
「動くなよリボンと絡まるだろ!」
「もう遅い絡まった!」
 絡まると抜け出せないのは、何事も同じ。
 最初は、腕だけだったその絡みは、胴へ、足へと、侵食していき。
「うわっ!」
 ついには牙竜の足を取り、牙竜は真理奈に向かって、倒れこんできて。
 したたかに背中を打つ。
 ……重い。
 そして、妙な圧迫感が、苦しい。
 だって、胸に手が、当たって、それで息が――。
 ……?
 胸に、手?
 目を開けると、牙竜の右手が真理奈の胸に、あった。
 押し倒されて、胸まで触られて。
 ……そうですか。
「病院で」
「違っ、違う真理奈ちょっと待って!?」
「堂々とセクシャルハラスメントですか……?」
「だから違、いや先に謝らせて、ごめ――」
「 い い 度 胸 で す ね 」
 謝罪の言葉をぶった切り。
 後に続いたのは、悲鳴だったとか、なんだとか。


*...***...*


 そんな騒動いざ知らず。
 如月 正悟(きさらぎ・しょうご)は、牙竜へと宛てられた郵送物を手に、病院へやって来ていた。
 もちろん、彼が閉鎖病棟に入院していることを知らないから、一般病棟をうろつくこと十数分。
「あっそっか」
 看護師さんに聞けば早かった。
 結論にたどり着くには、いささか遅い。
 なんでこんな簡単なことを思いつかなかったんだろう。
 そういえば、なんかボーっとするし。
 あとなんか、熱っぽい。
 それにしても、なんだこの『フラグびんびんに立ってます』みたいなラブレターっぽい手紙の山は。
 リア充は滅びた方がいいよな、きっと。
 それにしても、身体が重い。
 さっさと配送してしまおう。
 そして、爆発しろ! と笑顔で中指を立てて、帰って寝よう。
「あのー、看護師さ……あれ、」
「はい? ……あら」
 声を掛けた看護師に、見覚えがあった。なぜなら彼女は泉 美緒だったから。
「美緒さんじゃん。ナースの研修?」
「ええ。季節の変わり目、体調を崩される方が多くて……猫の手も借りたいような状況ですわ」
「そっか、大変なんだ……。しかし白衣の天使ですね……! 眼福で、す……?」
 眼福、に続いてありがとうございましたと言おうとしたのに、世界が斜めになって驚いて、何も言えなかった。
 なんでみんな、斜めに立ってるんだ?
 思った次の瞬間には、左半身が硬い床の上。視線が下がる。美緒の顔が目の前にあったのに、なくなった。白いストッキングを履いた足しか見えない。しかしこの足美脚である。
「如月さん!?」
 美緒の、焦るような声が頭上から降ってきた。
 ああ。世界がぐるぐる回ってルー? ランランルー? それなんてピエロ? いやそれよりも、美緒が四人居た。分身かー、そっか実はクラスがニンジャだったんだな。強いのかな? じゃあ、俺、『貸し一つだね』とか前に言っちゃったけど、そんな状況起こらないんじゃないかな? 何その残念な俺――
「如月さんっ」
 頭がふわっとして、柔らかいものに触れて、それから額に冷たいものが触れた。額も柔らかい。目を開けると、美緒の顔が近かった。それに、
「あれ俺膝枕されてルー? えっリア充? 爆発するの? だから世界ぐるンぐるンなの?」
「大変、意識が混濁してらっしゃるわ……先生に診てもらわないと」
 美緒は、医師を探して首を巡らせているけれど。
 いいんだ。
「俺、郵便物届けないといけないから」
「でも、熱が」
「だって、手紙、出した人の気持ちを無駄にできないでしょ」
 だから、立たなきゃ。
 でも、意識は朦朧としていて。
 だめかも? だめじゃないかも?
 ぐらん、ぐらん。
 揺れる世界の中で、掴んでいた、美緒の手。
 意識が遠のくのに比例して、力が抜けていく。
 ああ、もう、握っていられない。
 その手を握り返してもらえたのは、夢だったのだろうか?