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intermedio 貴族達の幕間劇(後編)

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第4章 楔の正体

 アレッシアを桜井静香(さくらい・しずか)らが訪問した同日の朝、住宅街にある一軒の小さな家を、二人の人間が訪れた。
 一人は教導団の戦部 小次郎(いくさべ・こじろう)。もう一人は百合園の桐生 円(きりゅう・まどか)
 小次郎は誕生日パーティ以来、家主の警備を行っていた。だから円が訪れた時には既に小次郎は家にいて、年代物の玄関を開けたのも彼だった。
 面食らう円の前に、小次郎の後ろから家主──テノール歌手ディーノが顔を出す。
「ディーノさん、こんにちは。この前は無礼な事をしてしまい申し訳ありませんでした」
「ああ、あのことなら……もう気にしてないよ。……どうぞ、上がって」
 視線で入れてもいいものか問う小次郎に頷いて、ディーノは短い廊下を通って居間へと案内した。
「お茶でも入れようか? コーヒーと紅茶どっちがいいかな」
「そうですね……」
 円はちらり、と部屋に視線を走らせた。
「もしよければ、あの茶器で紅茶を入れてもらえませんか」
 キャビネットに入れてあるティーセットを、彼女は指差す。
「ああ、いいよ」
 ディーノは安請け合いをして、ティーセットを引っ張り出すとお茶の用意をしに隣のキッチンに引っ込んだ。小次郎は警備のため立ったままだ。ディーノは違和感ないのかな、と円は思うが、彼は小次郎を説得し返すよりも稽古に忙しく、結局気にしている暇もないままに、慣れてしまっていた。
 彼は間もなく戻ってくると、円と自分、そしてドアのすぐ側の壁際に立つ小次郎にも椅子を勧める。
(偉くいい茶器を使ってるけど、オペラ歌手って儲かるのかな? それにしては……家は古そうだけど)
 売れっ子のオペラ歌手なら豪邸に住んでいてもよさそうなものだが、それにしては古くて小さな家だ。はっきり言うなら茶器とは不釣り合い。
「古い家だろう? ここは代々著名な音楽家が使っていたんだよ。恥ずかしいけどあやかりたくて……、それに音響対策もしてあるから、結構気に入ってるんだ」
 円の視線に気づいて、ディーノは説明した。
 確かに、ヴァイシャリーにはこういった古い家がまだまだたくさん残っているし、値段も手ごろだ。
 ──となれば、やはりディーノは売れっ子になっても、まだ若い故に稼いで豪邸に住めるほどの資産はないということだろう。それは調度品からも見て取れる。作り付けの家具の他、ちょっと古風な家具は以前の持ち主から譲り受けたという風の年代物が多い。逆に新しいものは、家具も雑貨も、質素で実用本位のものだった。
「それで、今日わざわざ訪ねて来てくれたのは何でかな? この前も色々聞かれたけど……やっぱり、アレッシア様のことかな」
「そうです。気になってたんですが、アレッシア夫人から援助打ち切られた原因に心当たりとかあります?」
「いや、ないよ。……ただ、誕生日当日、分かっていただきたくて二人で話をしたんだけど……どうやら俺に裏切られたと思われているようだった」
 ここからが本題だ。
 円は自分の前に置かれたティーカップを丁重に取り上げると、目線まで掲げて見せた。
「友人がバルトリ家のメイドから聞いたのですが。バルトリ家のアウグストさんは、最近浪費癖が酷いらしいですね、調度品が毎日の用に紛失していくとか。この茶器もその一つかもしれないね」
「まさか、これは俺がビアンカから最近貰ったものだよ」
 ディーノは一笑に伏す。
「どこかのお屋敷で見たことがあるんだ。きっとお金持ちだったら誰でも持っていそうな……」
「ボクが見る限り、この茶器は百合園でも見たことはありませんねぇ、ブランド物ではない筈、オーダーメイド品かな?」
 円は言葉を被せ、結果を見透かしているように、語気を強めた。
「ディーノさんが“どこかで見たことがある”のは、もしかしてバルトリ家で見たんじゃないかな? 思い出してほしい」
「……どこか……そう、そうだ、いつかアレッシア様にお会いしたときに同じようなものが……」
「ありふれた茶器じゃないのは確かだよ」
 思案していたディーノの顔色がさっと変わる。それはまるで、アレッシアがこのティーセットを見た時に変えたという顔色とそっくりに思えた。
「……もしそうだとしたら、アレッシア夫人はこの茶器が原因でディーノさんが裏切ったと感じているのかな? じゃないとこれ見たぐらいで、すぐ契約を打ち切る事はないと思うし」
「そんな、まさか──いや、だとしたら俺は……」
「あのさ、アレッシア夫人とお話を出来、支える事のできる友人は少ないと思う。茶器の件もあるしお見舞いも兼ねて、お話してきたらどうかな? 解らないままじゃなく、言葉にしないと解んないしね」
「私も同じ考えです」
 失礼、と一口お茶を飲んで、小次郎が口を開く。
「先日伺った話によると、このカップを見て夫人の顔色が変わったとのこと。お気付きのように、もしこれが夫人のカップであるなら──何故ディーノ殿の新しいスポンサービアンカ・カヴァルロ嬢がこれを持っていたのか、という謎が残ります」
 カップの口当たりは薄く、柔らかく、自然で、白磁が美しい紅茶の水色を湛えている。上等なものだと思われた。
 どんなに上等なものでも、一度落としてしまえば割れて粉々になり、元には戻らない──のかもしれない。しかし、カップはまだ割れていない。
 今のバルトリ家は窮地に立たされている。夫人は一度ディーノを憎んだかもしれない。しかし、それはバルトリ家の没落を狙う外部犯の“用意周到な罠”に引っかかったから。であれば……、
「ディーノ殿のためだけではありません。この茶器を持ってお会いしましょう。夫人を救えるのは貴方しかおらず、恩返しするのは今しかないのですよ」
 ディーノは知っている。脅迫状が現実となれば自身が疑われることも。夫人が使った睡眠薬が彼のものと同じ種類であったことも(何故か薬瓶は一度消えてしまったのだが)。
 だから、憎まれて疎まれていたことも、そして……自分への不信が彼女を追いつめる一因になったことも知っている。
「……今の、アレッシア様は……」
「友人の話によると、自殺を考えるほどの気力も、意思もないみたいだけど、でも、またそうならないとは言えないと思う」
 その言葉に、ディーノは突如立ち上がった。
「お茶、途中だけど片づけてもいいかな」
「お供しますよ」
「ボクも行く」
 そして三人は、アレッシアの屋敷へと急いだ。
 円はディーノが馬車を捕まえる間、携帯を開き、バルトリ家の前にいる友人へと電話をかける。
「もしもし{SFM0004185#ロザリン}? そう、茶器がね……、うん、今からディーノさんと持って行くから。ちゃんにも伝えておいて」


 それは最初から、単純な誤解だったのだ。ただ互いに確かめなかっただけ。
「もうお会いすることはないと思っていましたが……」
 生徒に囲まれ、アレッシアとディーノは対面した。時間的にはそれほど距離を置いていたわけではないのに、二人の間には長いこと話をしていなかったような、余所余所しい雰囲気が漂っている。
 けれど今ディーノには言うべきこと、やるべきことが目の前に示されていた。臆することはない。携えた箱をテーブルに置き、するすると包みを開く。中から現れたのは、白磁のポットとティーカップ、ソーサーの一揃い。
「このティーセットは、私が今の援助者の方に頂いたものです」
「…………」
「どこかのお屋敷で見たことがあると思いましたが、はっきりとは思い出せませんでした。貴族の方々のお屋敷で歌の披露させていただくことは度々ありますから。ただ信じていただきたいのは、私にはアレッシア様を尊敬し感謝申し上げていることはあっても、裏切る理由など何もないのです」
「新しい援助者……見慣れない美しい女性の方ね」
「ビアンカ・カヴァルロ様です。大貴族のご令嬢だと伺っていますが、公私共に、良くしてくれています」
 アレッシアはポットとティーカップの一つ一つを返し返し眺めると、モニカに視線を送る。彼女もまた手に取って確かめると断言した。
「間違いございません、当家の茶器です」
「……その援助者の方が、この屋敷の茶器を持っていた、と仰るのは荒唐無稽ですが……」
 ですが、と、アレッシアは言葉を切り。
「貴方が私に嘘をついたことは今までになかったわ」
 それは、信頼の言葉だった。けれど信じてもらえたという安堵よりも、むしろディーノは打ちのめされたような表情で押し黙った。
 やはり新しいパトロンへの信頼だけではなかったのだと、アレッシアは知り、優しく言葉をかけた。
「ごめんなさい、私は貴方を疑っていました。酷い仕打ちを貴方にしたことは本当に、申し訳ないと思っています。でも貴方は、信じていた……信じたくなかったのね」
「『椿姫』のアルフレード役が決定した時に、プレゼントとして受け取ったものなのです。……勿論私も彼女を疑いたくはないのですが……」
「このティーセットは、私個人の所有物ではありません。大事なお客様がいらした時に、時々使うもののうちのひとつです。大事な棚には鍵がかけられていますから、当家の者で執事やメイド長のような責任のある身分の物しか手を触れることができません。私は使用人を信用しています、ですから、もし持ち出したとしたら、夫でしょう」
「……賭博? それとも……」
 鳥丘 ヨル(とりおか・よる)が言いにくいのか、小さく呟くのを耳ざとくアレッシアは聞いて、
「おそらく──浮気相手でしょう。これだけのものを貢ぐのですから。貢いだ品、あるいは貢がされた品です。誕生日パーティにいらしたあの方は私が見たところ、生粋の貴族とは思えませんでした。……彼女の真意は分かりません。ですがこれだけは解りました」
 今やアレッシアの言葉には静かだが力がこもっており、眼には光が戻っている。生き生きとしたというよりは、政治家のそれではあったが。
「狙いはバルトリ家です。私から貴方への疑いを呼び起こさせ援助を打ち切らせ、新たなパトロンとなったのはそのためです。貴方のみならず夫も、勿論私もその罠にはまりかけていたのでしょう」
 たとえば、とアレッシアはディーノに尋ねた。
「何か聞かれたり、話しませんでしたか? 例えば、バルトリ家や他家のサロンの様子やご夫妻の様子、羽振り、交友関係……」
「確かに……聞かれました。疑問にも思わず、分かることは答えましたが……」
 逆にディーノは呆然と答える。彼の中には援助者としてだけではなく、美しい女性としてのビアンカがいた。多少謎めいたところのある親切な彼女に憧れを抱き、恋すら芽生えようとしていた。
 彼女に裏切られ利用され、その結果自身もアレッシアを裏切り追いつめる陰謀に加担していたなどと、信じたくはなかった。
 けれど。彼女が言ったように、その逆も真だった──アレッシアは今までディーノに、思いやり以外での嘘をついたことがない。
「彼女の担当は情報収集でしょう。勿論、その情報を集めている貴族がいるはずです。責任は感じないでディーノさん、芸術を続けるのにつまらない政治や駆け引きなど覚える必要などないのですから……」
 確かに、無縁ではいられない。ただアレッシアにとってあくまで芸術は芸術であって、自身の手で守り育てることが喜びだったのだ。
 自身がどっぷりその世界に浸かっているからこそ触れてほしくなかった。そのあたりの心得をディーノに教えることもなかったが、それが今回裏目に出た。でも彼女に後悔はない。たまたまそうなっただけのことなのだから。
「……彼女が何者なのか、知る必要がありますね。オペラの開幕までには、全てをはっきりさせたいのですが」
「それでは……あの、オペラにはいらしていただけるのでしょうか」
「これだけ皆さんにご迷惑と心配をおかけしたのです。その先のことはともかく……、今この問題だけは、私の手で」
 アレッシアに生気が戻った様子にほっとして、七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は携帯に目を落とした。
 新たな問題が明らかになったけれど、それを解決する手がかりは今、アウグストを尾行している友人たちが見つけてくれるかもしれない。
 ヨルも胸をなでおろしつつ、マドレーヌを口に放り込み、琴理に話しかける。
「良かったね、仲直りできて。これでとりあえず安心……だよね。ね、琴理もフェルナンと仲直りできたようで良かったね。誕生日休暇は二人でゆっくり過ごしなよ」
 琴理はここにはいないパートナーフェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)の顔をちらっと思い出すと──アウグストに避けられたため、彼は面倒事の原因になると言ってここには来なかった──、
「鳥丘さんや七瀬さんにもいらしていただけると嬉しいのですけど……その方が彼も喜ぶと思いますし」
「そうなの?」
「ええ、お世話になったお礼もしたいですから、宜しければ」
 琴理はヴァイシャリー湖のすぐ側に別荘があるんですよ、と言って。彼女もまた、状況を説明するため、パートナーとクロエにメールを打ち始めた。