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リアクション
■第七章
紅 射月(くれない・いつき)は、戸惑いを隠せなかった。現在自分の前を歩く鈴倉 虚雲(すずくら・きょん)が、何故唐突に、強引に自分を花見へ誘い出したのか。考えれば考えるほど、思考は泥沼へ沈み込んでいった。
虚雲に恋人が出来て以来、彼とは疎遠だった。自分はずっと彼のことが好きで、その好意は彼に伝えてきたつもりでいた。しかしそれでも、彼は他の相手を選んだ……自分のことを想ってくれる相手がいるからこそ、射月は辛うじて理性を保てていた。それでも、『本当は恋人と来たかったに違いないだろうに』。そんな負の方向へばかり、思考が流れて行ってしまう。
二人は一言も交わさないまま、やがて噴水へと至った。遠目に満開の桜が窺えるそこへ、微妙な感覚を開けて、並んで腰を下ろす。そうして再び訪れる沈黙。暫し躊躇いがちに射月の様子を窺っていた虚雲は、やがて意を決したように彼の手元へと一枚の手紙を差し出した。
「……?」
疑問気に向けた視線に、彼の答えは返らない。射月は手紙を手に取ると、一拍間を挟んだ後に、思い切ってそれを開いた。途端、ひらりと桜の花びらが一枚射月の膝へ零れ落ちる。不思議そうにそれを一瞥してから、射月は文面へ目を落とす。
『おまえと話がしたい』
簡潔なその文面に、しかし思うところのある射月は鋭く胸を打たれるような心地を覚えた。はっと持ち上げた視線が、じっと射月を見詰めている虚雲の視線と絡み合う。
「何故、わざわざ手紙で……?」
「こうでもしないと、口を利いてくれなかっただろ?」
苦笑交じりの返答に、射月は押し黙る。そんな彼の動揺を解す狙いで、月を仰いだ虚雲は言葉を続ける。
「ホワイトデーに貰った手紙は、大切なものだったからこそ精霊流しの祭りで流したんだ」
はっと、驚いたように射月の瞳が丸まった。何かを紡ごうと唇を開き、しかし言葉にならずに沈黙を保つ。
二人の間に再びの沈黙が落ちたのも束の間、それを引き裂くように一匹の吸血蝙蝠が飛来する。以前にも噛まれた覚えのある蝙蝠から反射的に逃れようと虚雲が立ち上がった直後、その事件は起こった。
バランスを崩した虚雲の身体が、不意に背後へ傾く。その隙を狙い降下する蝙蝠。考えるよりも、身体が先に動いていた。虚雲を押し倒すように覆い被さり、背後の噴水へ。激しく水しぶきが上がる最中、射月は指に微かな痛みが走るのを感じた。
「大丈夫ですか!?」
跳ね上がった飛沫に頭まで濡らしながらも、射月は真っ先にそう呼び掛けた。それを聞いた虚雲は、ずぶ濡れの自分と射月の姿を見比べてから、可笑しそうに笑った。
「おまえこそ、指、噛まれてる」
その言葉を受けて、射月はようやく自身の負った小さな傷の存在に気付いた。それに意識を払う間もなく、何より虚雲の無事が気に掛かっていたのだ。そこまで考えて、射月はようやく理解した。
ああ、やはり自分は彼への想いを忘れることなどできないのだ、と。
「いつまでウジウジしてるんだ。……好きだって気持ちは、無理に忘れなくていい」
そんな射月の心境を読み取っているかのように、穏やかな声音で虚雲は囁く。
「お前なんて放っておけばいいのに、そう出来ない性格ってのは知ってるだろ? 俺の背中を押したのはお前だぞ」
あくまで沈黙を貫く射月の唇は、微かに震えていた。そんな彼の頭に、桜の花が一つ、舞い降りる。手紙に挟まれていた花だと、射月はすぐに気付いた。
「自分の気持ちにケジメをつけられたのも、おまえのお陰だから。だから……おまえとまた、前みたいに話がしたいんだ」
虚雲の言葉は優しげで、しかし何より真剣だ。
そこまでを聞き届けて、射月は緩やかに顔を上げた。浮かべた笑みはどこか歪なものだが、そこに偽りの色は見当たらなかった。
「今はまだ無理ですが、いつか心から『どうか幸せに』と言いたいです。……貴方を、愛しかった人と言えるように」
震えを帯びたその言葉を残して、射月は再び顔を伏せてしまった。虚雲は優しく彼の頭部へ掌を乗せ、撫でる動作と共に自身の肩口へ引き寄せる。
「馬鹿、泣くなよ」
「……馬鹿は貴方です」
言い合って、二人は同時に小さく笑った。射月の声には震えが残っていたが、それは決して悲しいだけのものではなかった。
手に取った桜の花を、射月は大切そうに掌で包み込む。彼とパートナーとして改めてやり直すために、その絆を深めるきっかけとなった手紙の思い出として、射月はそれを栞として残すことに決めた。
「ですから、どうか。……私がそう言えるようになる日まで、私の大切な人でいて下さい」
降り注ぐ月光が、濡れた髪をきらきらと輝かせる中。言い切って今度こそ、射月は強張りなく微笑んだ。
着物に身を包み、清泉 北都(いずみ・ほくと)は喧騒から少し外れたベンチへ腰を下ろしていた。視界の中央、少し離れた場所には、満開の桜の花が仄かに輝きを帯びて佇んでいる。時折ハリボテの樹を離れては月を背景に舞い遊ぶ蝶の美しい姿を眺めながら、北都は隣り合って腰を下ろすクナイ・アヤシ(くない・あやし)のお猪口へ日本酒を注ぎ入れる。ありがとうございます、と微笑んで、クナイは軽く日本酒を呷った。
抹茶を傾けながら、北都は桜の樹の美しさに暫し見とれていた。どれだけの時間が経った頃だろうか、一杯目を空にしたクナイは、おもむろに口を開く。
「北都。バレンタインの時のこと、覚えていますか?」
不意の問い掛けに、北都は思わず驚いたように青い瞳を丸めた。戸惑うように視線を泳がせるその姿からは、深い迷いが感じられる。
「答え、聞かせてくれませんか?」
キスの先。それを望むクナイの許可を問う言葉に、北都はその時答えることが出来ずにいた。『考えておく』と言ったのは確かだったが、そうすぐに答えを出せる内容でもなかった。
沈黙に耐えかねたように、クナイが身を乗り出した。重ねて驚愕を滲ませる北都の肩を優しくベンチへ押し付け、軽く角度をつけて唇を奪う。柔らかな感触が触れ合ったところで、北都の身体に力が篭ることは無かった。そのことに、クナイは内心で安堵を覚える。
募るばかりに同様に、一層思考は纏まりを失ってしまう。未だ言葉が出ない北都の瞳を間近で見詰め、重なる唇の合間から、クナイは囁くように低めた声音で言葉を続ける。
「頭で考えられないのなら、身体に聞いてみましょうか」
意地悪く告げられた言葉に、北都の肩が微かに強張る。しかし温かな掌が着物の隙間から素肌へ滑り込んでも、北都が抵抗することは無かった。触れた胸元から伝わる北都の鼓動は、緊張と動揺からか早い音を刻んでいる。脇腹を撫でると、呼応するように跳ねる肩。首筋へ唇を落とすと、くすぐったげに揺れる頭。
間近で注がれるクナイの瞳は、真剣だ。だから、北都は抗わなかった。自分を求めてくる真摯な眼差しへ、抵抗せずされるがままに預けた身体。それが、北都の答えだった。
しかし直後、一匹の蝙蝠が高い鳴き声と共に舞い降りる。咄嗟に掌を引き抜いたクナイが北都を庇うように身構えるものの、蝙蝠はそのまま他のどこかへと飛び去って行った。クナイが安堵したのも束の間、その身体は北都によって押し剥がされてしまう。
乱れた着物の襟元を正し、微かに荒くなった呼吸を整える。それからようやく、北都は唇を開いた。縋るように伸ばされた指先がクナイの裾を掴み、裏腹に逸らされた視線は逃げるように足元を向いてしまっている。
「……嫌じゃ、なかったら……」
微かな声量で言葉にされたその答えを受け止め、驚いたように目を瞬かせてから、クナイは嬉しそうに笑みを深めた。
「ありがとうございます、北都」
そう言って、仄かに赤らんだ彼の柔らかな頬へ唇を落とす。縋る指先の力が気恥ずかしげに強まる酷く可愛らしい彼の様子を、幸福感と共に、クナイは噛み締めた。
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