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【四 仮想世界、再び】

 誰かに肩を揺すられて、九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)は茫漠とした意識の中、目を覚ました。
 冷たい石床から上体を起こすと、周囲に幾つかの影が立ち並んでいる。見覚えのある顔もあれば、初めて見る顔も幾つか視界に飛び込んできている。
 だがそのいずれも、不思議なものを見るかのような怪訝な色に染まっており、ジェライザ・ローズも逆に、何故このひとびとがここに居るのかを思い、疑問の視線を投げかける。
 そんな微妙な空気も、そう長くは続かなかった。
 まずジェライザ・ローズが、意識を失う前の出来事を次第に記憶の表層へと浮上させ、何があったのかを明確に思い出すに至ったのだ。
「そうだ……私は、確か!」
 叫ぶや否や、ジェライザ・ローズは慌てて自身の右脚を抱え込むようにして膝を胸元に寄せ、脹脛辺りを両手で掴んだ。
 が、そこで彼女は息を呑み、全身が凍りついたように身じろぎひとつ見せなくなった。
「九条先生……何があったの?」
 五十嵐 理沙(いがらし・りさ)が、長身を幾分屈めるような格好で、眉を顰めて問いかけてきた。
 理沙は、行方不明の調査隊を捜索・救助する為に突入した第一班の一員である。他の面々も同じく、第一班を編成するコントラクターやデラスドーレ守衛隊といった顔ぶれであった。
 つまり、ジェライザ・ローズはヴァダンチェラ内部で第一班によって救助された格好になる。
 実のところ、理沙とジェライザ・ローズのふたりは初対面ではない。それどころか、SPB(シャンバラプロ野球)では何度も顔を合わせており、互いの名前も呼び名まで覚えているという間柄であった。
 ところが、ジェライザ・ローズはといえば全くそれどころではなく、意識を失う前に受けた仕打ちが、影も形も無く消えうせてしまっている事実に、ただただ驚愕するばかりであった。
「九条先生、とにかく落ち着いて下さい。まずはひと息、入れて下さいな」
 セレスティア・エンジュ(せれすてぃあ・えんじゅ)が差し出す水筒をジェライザ・ローズは幾分戸惑いがちに受け取り、これは現実なんだと自身にいい聞かせながら、軽く喉を潤した。
 第一班の面々は、ジェライザ・ローズが発するであろう次の言葉を、じっと我慢強く待ち続けている。
 対するジェライザ・ローズも、ようやく心の整理が付いた様子で、未だ石床にへたり込んだままの姿勢ではあったが、意識を失う前までの経緯を訥々と語り始めた。
「私は……そうだ、調査隊の一員として、スイートルームなる設備の稼働状況を調べる為に、この要塞遺跡に突入したんだった」
「それは、いつの話?」
 理沙の問いに対し、ジェライザ・ローズはしばらく考え込んでしまった。
 どうにも時間の感覚がすっかり狂ってしまっているらしく、ヴァダンチェラ突入後、どれ程の日数が経過しているのかも、皆目見当が付かなかったのだ。
 そこでセレスティアが、助け舟を出してきた。第一次と第二次の各調査隊名簿を開き、見覚えのある名前がどちらにあるのかを確認して貰うことにしたのである。
 ジェライザ・ローズが指を差したのは、第一次調査隊名簿であった。ということは、ジェライザ・ローズがこのヴァダンチェラ要塞遺跡に足を踏み入れてから、実に二週間以上が経過しているという計算になる。
 よくもまぁ、二週間も無事に生き永らえてきたものだ――理沙とセレスティアは感嘆する以前に、呆れ返ってしまった。
 だが、ジェライザ・ローズにとって重要なのは、期間ではない。彼女は更に、驚くべき証言を口にした。
「私は意識を失う前、右脚を脹脛から失った筈、なんだよ……それも、糸鋸を使って、自分自身の手で切断した筈なのだが」
 スイートルーム内の焦殺房と呼ばれる場所で、ジェライザ・ローズは右脚を超硬性金属の足枷に繋がれ、焼き殺されるか、或いは自分の手で右脚を切断して脱出するかの選択肢を強いられた。
 選択を迫ったのは、スキンリパーと名乗る謎の魔人であったという。
 そして結果、ジェライザ・ローズは右脚を糸鋸で自ら切り離し、焦殺房から何とか脱出を果たした、というのであるが、しかし今、彼女の右脚には切断痕など欠片も無く、膝から続く白い柔肌は足先まで、正常な脚線美を描き切っている。
 では、あれは夢だったのか――記憶が混乱しそうになっているジェライザ・ローズだが、彼女のすぐ傍らに落ちていた血まみれの糸鋸を理沙が拾い上げると、その場に居る全員の間に、驚愕と動揺の念が走った。
 一体、何が起きているのか。
 明確に答えられる者は、少なくとも今の時点では誰ひとり居ない。

     * * *

 その頃、地上では。
「ねぇおなもみぃー……本当に、ダクトも配管っぽいのも見つからないのー?」
 デラスドーレの街中をひたすら歩き回っていた月美 あゆみ(つきみ・あゆみ)は、幾分げんなりした表情で、大きな図面と睨めっこしているひっつきむし おなもみ(ひっつきむし・おなもみ)に、もう何度目かとなる同じ問いかけを繰り返してみた。
 対するおなもみは、自分で描き起こしたオリジナルの重ね合わせ式図面を凝視したまま、生返事に近い浮いた声音で応じるばかりである。
「んんぅ〜……やっぱり、どう見ても無いよねぇ……」
 これもまた、何度も繰り返されてきた返答である。まるで判を押したかのように、全く同じ文言で返答が戻ってくる為、あゆみも良い加減、気が滅入ってきていた。
「でもさ……怪人とはいえ何か食べるだろうし、電気や水だって要るでしょ? 水道管や下水管、それに送電線とかは絶対に必要だと思うんだけどなぁ」
 納得いかないといった様子で、頭の中にクエスチョンマークを幾つも並べているあゆみであったが、しかしおなもみは、寧ろ意外そうな表情を浮かべて、小首を捻っているあゆみに大きく目を見開いた。
「えー? そうなんだ? 七人の悪魔って生き物なの?」
 大通りのど真ん中で態々立ち止まって問いかけてくるおなもみの声に、あゆみは一瞬、言葉に詰まった。
 悪魔を名乗っている以上、コントラクターと契約が可能なパラミタの知的生物としての悪魔を連想しがちではあったが、しかし連中が単に悪魔を名乗っているだけで、本当に種としての悪魔であるのかどうかは、誰にも分からないのである。
 だがあゆみが、七人の悪魔が自分達と同じ生態系上の生物である、といった具合に思考を最初から固定させてしまっていたことも事実であり、それだけに、おなもみが不思議そうに問いかけてきたこの疑問が、あゆみにとっては相当に斬新であり、且つ強烈な衝撃を伴う一撃でもあった。
 物事を調査する際、事前に何らかの仮定を立てるのは結構だが、頭からこうである、と決めつけてかかるのは最大の愚行である――あゆみは今まさに、その最たる典型をやらかしてしまっていたらしい。
 そして更にもうひとつ、あゆみの頭の中で決定的な思考ミスが生じていたことを、おなもみは遠慮無く指摘してきた。
「それにさー。このヴァダンチェラって要塞、造られたのは古代シャンバラ王国の時代だよね? そんな昔に、電気とか水道とか、あったのかなぁ?」
 寧ろ、動力として当時普遍的に存在していたのは、機晶器等の魔術的なエネルギー源ではなかったか。
 いい出せばきりが無いのだが、とにかくもおなもみの漫画家としての自由且つ根拠溢れる発想は、現代思想に凝り固まったあゆみの推理が根本的な誤りを数多く含んでいる事実を、否応無しに炙り出すばかりであった。
 あゆみは段々、気が滅入ってきた。
 これまでは単に推論に対する結果が出ていないことで気分が落ち込んでいたのだが、今は明らかに、別の問題で精神が打ちのめされてしまっている。
 最早、立っているのも辛いという心境ではあったが、おなもみの追撃はまるで容赦が無く、更にとどめを刺さんばかりの勢いで、最後の一撃を放ってきた。
「それにね、ネオさんが前に教えてくれたこともあるし、探すだけ無駄って気がするかなぁ」
「え、ネオさん?」
 意外な名前が飛び出してきたことに、あゆみは思わず目を剥いた。
 ネオ・ウィステリア――現在はおなもみと同じく売れっ子漫画家のひとりであるが、かつては国際的な大手メーカーウィンザー・エレクトロニクスの主任研究員として働いていた人物でもある。
 そのネオが、ピラー事件収束の際に、ある情報を提供してくれていたことを、おなもみは覚えていたのである。即ち――。
「うん、そうだよ。ほら、覚えてないかなぁ? スカルバンカーから派生したオブジェクティブが、うじゃうじゃ居るって話」
 あの時、ネオは既に実体化しているオブジェクティブの名を列挙していた。そして今回、ヴァダンチェラ要塞遺跡に現れた七人の悪魔達の名が全て、ネオが教えてくれたオブジェクティブ達の中に含まれていた、というのである。
 流石のあゆみも、この時ばかりは腰が抜けそうな程に仰天した。
「え……えぇ〜!? そ、そうだっけぇ!?」
「うん、そうだよ」
 おなもみは涼しげな顔で、しれっと頷いた。

     * * *

 再び、視点をヴァダンチェラ要塞遺跡内に戻す。
 意外な形で第一班の前に姿を現したジェライザ・ローズだが、彼女は救助される側に留まらず、このまま第一班と行動を共にして、他の調査隊員達の捜索と救助に加わりたい、と申し出てきたのである。
 体力面で問題は無いのか、と清泉 北都(いずみ・ほくと)が懸念を示したが、叶 白竜(よう・ぱいろん)は逆に、生還者としての貴重な経験は情報として極めて重要である、という意見を口にした。
「ストーンウェル長官から色々聞いた話では、七人の悪魔と関係しそうな人物も施設も、デラスドーレやその周辺には存在しないということでした。である以上は、九条さんの生きた情報は極めて重要な意味を持ちます」
「それにやっぱ……綺麗どころはひとりでも多い方が、目の保養にも良いしな」
 世 羅儀(せい・らぎ)が相変わらずの軽い調子でいい放ち、そのついでにジェライザ・ローズに向けて軽いウィンクを飛ばした。
 ヴァダンチェラ突入後は珍しく口数を控えていた羅儀であるが、ジェライザ・ローズとの遭遇では、矢張りいつもの調子を取り戻している。
 そんな羅儀に苦笑を禁じ得ない白竜ではあったが、既にその意識は別の方角に向けられている。白竜は、同行していた黒崎 天音(くろさき・あまね)に視線を転じた。
「黒崎さんは、どうお考えですか?」
 これに対し天音は、薄闇の中でどこか艶っぽい笑みを湛えて、白竜の生真面目な面をじっと見詰め返した。
「非道な行いで悪魔を名乗るものが、サディストの人間か本物の悪魔かは分からないけれど……そうだね、とても悪魔的な匂いがするよ」
「本物の悪魔、ですか」
 白竜は尚一層、難しげな表情でじっと考え込んだ。
 パラミタ上にはコントラクターと契約を交わすことが出来る、種としての悪魔が存在する。しかし、このヴァダンチェラ要塞遺跡に出現した七人の悪魔は、どうにも毛色が異なるように思えてならなかった。
「しかし、そのお嬢さんの右脚が、自分で切断したにも関わらず、何事も無かったかのようにまた復活しているって話も気になるな」
 ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)が、ドラゴニュート独特の強面ながら、非常に分かり易い渋面を浮かべて腕を組んだ。
 実のところ、このブルーズにも別の観点での強烈な疑問が、先程から頭の中でぐるぐると駆け巡っていたのである。
「何か、気になることでも?」
 北都に訊かれ、ブルーズは渋面のまま自身の後方をちらりと振り返って、曰く。
「いや、実はな……七人の悪魔との接触の際に、助けになればと思ってアンダーグラウンドドラゴンを連れてきた筈なんだが……遺跡に突入した直後から、全く姿が見えなくなってしまってな」
 更にブルーズはいう。ふた手に分かれて別方面へと向かった美羽の賢狼達が、突入後、程無くして悉く姿を消してしまったらしい。
 正確にいえば姿が見えなくなったというよりも、最初から居なかったかのように忽然と姿を消したようにも見えたのである。つまり、ジェライザ・ローズの右脚も切断した筈ではあったが、その後、切断という行為が最初から無かったように見えるのが、ブルーズとしてはどうにも気になって仕方がなかったのである。
 念の為、クナイ・アヤシ(くない・あやし)がジェライザ・ローズの右脚を丹念に調べてみたが、矢張り切断の痕跡は欠片にも認められなかった。
 ということは矢張り、最初から切断されていなかった、と考えるべきであろうというのが、クナイが下した結論であった。
「起きた筈の事象が、実は最初から起きていなかった、という例が過去にもあってね」
 天音が持参したタブレット型端末KANNAのコンソール画面をその場の全員に示しつつ、神妙な面持ちで語り始めた。
「以前、蒼空学園にフィクショナルという仮想体験システムが納入されたことがあってね。そこでは、電脳空間内に構築された仮想世界と、体験システムの利用者の脳波が直接リンクされて、まるで本当の出来事のように様々な事象を体験出来た、ということらしいんだ」
 天音自身は、このフィクショナルというシステムを体験したことが無い。にも関わらず、ここまで詳しく説明出来るのはひとえに、彼自身の情報収集にかける努力の賜物であったといって良い。
「フィクショナルは相当に高度な感覚反応を、脳波に直接送りつけるシステムだったそうだ。そこで生じた事象はまるで現実であるかのように感じられたそうだけど、実際には、本人の肉体には何も起きていなかった」
 但し、フィクショナルに脳波をリンクさせたままの状態では、脳がフィクショナル内の体験を事実と誤認し、実際の肉体に相応の反応を返すことはあるのだという。それが原因で、脳死に陥る危険性すらあったというのだから、物騒な話である。
「そこで、さっきの九条さんの話になるんだけど……もしかして僕達は今、現実と仮想が入り混じった空間内に居るんじゃないか? 少なくとも僕は、そう疑ってるんだよね」
 天音のこの仮定が正しければ、ジェライザ・ローズの右脚が失われていないことや、ブルーズのアンダーグラウンドドラゴンが忽然と姿を消したことに対する説明として、十分に説得力が得られる、というのである。
 白竜と羅儀、北都、そしてクナイの四人は、思わず互いの顔を見合わせた。
 今、こうしてお互いに表情を目視しているのも、実は現実と仮想が入り混じった、偽の映像を視覚として捉えているだけではないのか、と。