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 シャンバラ地方の北西にあるタシガン島には、今日も深い霧が立ちこめている。
 島の南西に位置する街では、夜更けに徘徊する謎の男が目撃されていた。
 今宵も、少女の悲鳴が闇夜を切り裂く。
 血をすすり、生き血を瓶に蓄え、その場から立ち去ろうとする者が、空を仰いだ。
 夜空には、霧に遮られてぼうっと霞んだ三日月が浮かんでいる。
「これで、すべての供物が調った」
 癖のない鼠銀の長髪に、細面の骨張った顔立ち。耳の先はとんがっていて、鼻のすじもすうっと通っている。
 目尻が鋭く切れ上がった紫紅の瞳を持ち、ニヤリとした口元には、鋭い八重歯が覗いた。
 背の高さは172センチ、身体の線はいたって細いが虚弱ではない感じで、見た目は50代前後の初老。
 素っ気のないシャツブラウスに漆黒のスーツ、黒い外套と言った態は、まさに吸血鬼そのものだった。
 彼こそが、アルバート・ヴァン・ローゼンクローネ
 人からは親しみを込めてローゼン卿と呼ばれていた事もあった紳士である。
 吸血鬼であり、死霊術師だ。
「誰かいるぞ、こっちだっ」
 悲鳴を聞きつけたタシガンの警邏隊が、ローゼン卿の姿を認めたようだった。
 彼が外套をひるがえしたのを合図に、空から黒いもやが降りてきて、警邏隊の方へと流れていく。
「何か来るぞっ」
 無数のコウモリに行く手を阻まれた警邏隊は、ローゼン卿の姿を見失ってしまうのだった。

▼△▼△▼△▼


 タシガンの街へと続く森の小道を、老婆と少女が歩いていた。
「ねえねえ、おばあちゃん。アレはなに?」
 少女が指をさした木陰には、イーゼルに向かって筆を躍らす画家の姿が映し出されていた。
 やがてその姿は消えてしまい、こんどは大剣を振り下ろさんとする勇ましい青年が現われては消えた。
「おやまあ、なんと珍しい……。あれは、(読み:げんとうちゅう)幻灯虫と云うんだよ」
「げんとーちゅう?」
「そう。姿はホタルと変わらないんじゃけど、ああして幻を出だして、身を守っているんじゃよ」
「クマさんも出せるの?」
「一度でも見たことのあるものだったらね。クマさんでもキツネさんでも、出せるだろうさ」
「ふーん。――じゃあ、お家かえろうっ」
「はいはい」
 幻灯虫の個体数は、極めて少ない。
 今では誰も知らない、古い童謡の中で詠まれている存在だ。