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月下の無人茶寮

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リアクション

スープの味


「? メニューどこ?」
 席について妙にきょろきょろしていたかと思うと、そんなことを言うセレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)に、セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)はガクッと肩を落とす。
「セレン……ここは普通のレストランじゃないって、招待状に書いてあったでしょう?」
「えっ? そうだったっけ?」
 慌てて服のポケットを探るが、ごく一般的に「レストランでディナーを」というつもりで普段よりめかしこんできた分、焦ってがさがさと探す様が、却って不調法感を増してしまう。
「あ、あった。え、と……
 ……ふんふん……思い出の料理、ね。
 …………で、どんな思い出?」
 ここまで来ておいて今更それを訊くのか、としか返しようのない言葉に、セレアナは溜息をつく。
「本当に分かってないのね……」
 額を抑えて呟くセレアナに、セレンフィリティは「うーん」と腕組みをして唸る。
 実際、よく分かっていない、というか、はなから理解しようとしていなかったというのが正解だ。
 レストランの試験営業に当たって招待状が来た、というので、最近パートナーと婚約したばかりだし、ちょうどいい、2人でディナーを……という、言うなれば「ノリ」でのこのこ乗り込んできた、という感覚である。
 思い出の料理、と言われても何が出てくるやら見当もつかないし、考えても思い当たるふしがない。
「何も料理の思い出がなかったら、どうなるの?」


 まるで、その問いに答えるかのように、忽然と、2つのスープ皿がテーブルの上に現れていた。
「……いつ持ってきたのかな」
「だから、無人の魔法施設なのよ……」
 またしてもそんなセレアナを脱力させるようなやり取りをした後、2人はまじまじとスープを見た。
 ポタージュタイプなのか、色は白っぽく、クルトンは浮いているものの具らしい具はない。
「そっちも同じ?」
 セレンフィリティが首を伸ばして、セレアナの方の皿を見た。多分、とセレアナも頷く。
「これ……何か思い出、ある?」
「いえ、思い当たらないわね。セレン……は」
 訊くだけ無駄だった。全く要領を得ない表情で、首を傾げているだけだ。
「……。取り敢えず、食べてみましょうか。何か思い出すかも知れないわ」
「そうね」
 2人は同時にスプーンを手にした。
 掬ってみると、ポタージュのような色合いの濃さの割には意外にさらっとした感じだ。
「スープねぇ……病人の食事じゃないんだから」
 何気なしにぽつりと呟き、セレンフィリティはそれを口に運んだ。続いてセレアナも。

 嚥下されたその「味」は、臓腑を越えて――心、としか呼びようのない場所に染み透り、記憶を揺り起こした。
「!?」
 セレンフィリティの双眸からはいつしか涙が流れ落ちていた。



 その味を味わったのは5年前。教導団へ入って1年目の冬。
 冬季戦闘訓練で山中で遭難して死にかけたセレンフィリティは、セレアナに助け出された。救出後数週間の入院を経て、教導団の兵舎に戻ってからのことだ。

 どこか、宙ぶらりんな奇妙に落ち着かない状態で、退院したばかりでちゃんと食事しなきゃならないのに、ロクに食欲もない、そんな日々を送っていた。
 虚脱状態に似た感じになっていたのは、死にかけた反動、というわけではなかった。
 ――助け出されるまで、むしろ彼女は死を望んでいた。
 精神的にも人権的にも踏みにじられ搾取され続けた生を生きてきて、そこから解放されてもその過去が心を人生に対して閉ざさせた。
 その結果、傍にいるセレアナの存在にも希望どころか疎ましさしか感じられず、ただ死による解放だけを願って生きていた。
 だから、望んだ形で人生を終えるはずだった――
 しかし、セレアナに助けられ。それが転機となった。
 死へと突き進むことしか考えられない、他に何もないと思っていた人生にセレアナが寄り添った。……正しくは、寄り添っていたのを知らされた。
 他人を信頼し、他人に何かを期待するということを肯定できない人生を生きてきたセレンフィリティにとっては、まさしく転機だったと言えよう。
 だから、この不安定で無気力な状態は、以前のように人生を否定した心理状態からくるものではない。
 のだが。

 あまりに長すぎたのかもしれない。希望も期待も抱けない、抱くことを捨てようとした生き方が。
 そこからの転換、とはいっても、今は何か自分の中に縋るものが見いだせないのだ。
 抑圧されていた日々の中では、それでも決して捨てなかった自分の「心」を支えに、違う環境への脱出に望みを繋いだ。
 それに挫折して望まずセレアナによって生を繋がれた後は、そのことへの反発や怒りを、何だかんだで推進力にしていたような気もする。
 今は、縋る杖がない。
 おかれた現状に反発して燃える感情がなくなり、どうしたらいいか分からない。

 そんなある日、セレアナが何か……何かの料理を作ってくれた。
 病み上がりなので胃に優しい何かだったと思ったが……忘れてしまった。
 物事の詳細な記録を心にとどめ置く力まで弱っていたらしい。



 それが、この味だ。
「や、やだ……あたし、あたしってば……」
 涙がぼろぼろ落ちて、止まらない。
 その理由は、しかとはセレンフィリティ自身にも分からない。ただ、胸の中せりあがってきて苦しくなるほどの感情の波があった。
 料理は忘れたのに、その味だけが胸の底を揺り動かす。


 あの時もそうだった。
 この味は自分の奥深くまで沁み込んでいった。
 何かが苦しくなるほど胸の中を一杯に満たして……

 あの時はもしかしたら、生き方が、生への向き合い方が変わる、その脱皮のための停滞する時間だったのかもしれない。
 生まれ変わるために。
 セレアナに導かれ、自分は生まれ変わったのかもしれない。あの時に。
 出会ってから長く確執めいた時を過ごし、心を受け入れるまでに時間も体力も心も消耗した。
 その彼女が自分を労わるために作った料理の味を、ごく自然に受け入れた時。
 その味が感情に沁み、自分の血肉となった時に。

「あり、がとう……セレアナ」

 彼女に対して、感謝の言葉を口に乗せることが出来た、その時に。



 その味が口に広がった時、セレアナの脳裏に到来したのも、同じ時の記憶だった。
 彼女の胸にも、静かに、しかしとめどなく満ちてくるものがあり、思わず目を閉じた。

 目を開くと、見えたのは涙を流しているセレンフィリティの姿だった。
 あの時の彼女の姿が甦り、その心も見えるようにわかる気がした。
 悲しんで泣いているのではない。
 そう分かったから、今はそっとしておいた。




 新たに生まれてくる時、人は泣くものなのだ。