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第45章 一日リクエスト

 シャンバラが東西に分かれていた頃、ヴァイシャリーの南に位置するトワイライトベルト上の温泉近くで、東シャンバラ主催の合宿が行われていた。
 その合宿所や温泉には、今でも時々契約者達が訪れている。
「あの時はいろんな事があって、なかなかゆっくりとした時間がとれなかったしな……」
 鬼院 尋人(きいん・ひろと)もその一人。川側の温泉で、ゆったり時を過ごしていた。
 一緒に、入りたかった人――黒崎 天音(くろさき・あまね)を誘って。
 しかも今日は、以前天音からもらった『一日リクエスト券』使用中だ。
 天音に目を向ければ、彼も温泉に浸かって気持ちの良さそうな表情を浮かべている。
 そんな彼は、普段とは少し違う。
 彼を見た尋人は、何故だか何も言えなくなった。
 これまでずっと、彼の行動力や物事を深く追求する姿勢にあこがれて、何かあった時に力になれるような、頼られるような存在になりたいと夢中で頑張ってきた。
 孤高さを保っている彼に、自分を認めてもらいたくて……。
 でも、いざこのように2人きりで過ごすと――言葉が、出てこない。
 尋人はただじっと、天音を見詰め……ていると。
「本当に綺麗だ」
 そんな言葉だけが、自然に漏れた。
 天音は尋人の視線を受けて、湯船の縁にしなだれかかる。
「もっと綺麗なとこ、見たい?」
 彼の言葉に尋人は軽く我に返り、ちょっと赤くなった。
「冗談だよ」
 そう微笑んで、天音はさらに深く身を湯の中に沈める。
 尋人も顎まで浸かって、淡く見える景色と、その中にいる天音の美しい姿をのんびりと堪能していく。
 穏やかな川の音も、心地よかった。

 長湯を終えた後、食事を済ませて早々に寝床に入った。
 温泉に長く浸かり過ぎたせいで、その頃にはもう真夜中になっていた。
 寝床は、皆で作った草のベッド。
 天音と尋人は1つの部屋の、別の寝床で休んでいた。
 疲れていたのだろうか。
 天音はすぐに、寝息をたてはじめる。
 尋人は温泉の続きのように、彼の寝顔に見入っていた。
(寝てしまうのが、もったいない気がする……)
 自分の寝床から出て、彼の寝顔をもっとよく見ようと、少し近づき、覗き込むような姿勢になった瞬間――。
「えっ!?」
 尋人の腕がぐいっと引っ張られ……気づけば尋人は天音の寝床の中にいた。
「ちょっと、なに……」
 慌てる尋人だが、天音は目を閉じたまま微笑んでいるだけで、何も言ってはこない。眠っているようだ。
 そして、そのまま尋人は天音に優しく抱き寄せられる。
「うわ……っ」
 気持ちが高ぶったせいか、超感覚が発動し尋人の体から獣耳としっぽが飛び出した。
 同時に嗅覚も鋭くなり、天音の香りを思い切り感じていく。
 体中に染み渡り、包まれて……これ以上ないくらい、幸せな気分で尋人は目を閉じる。
 そして夢の中へと旅立つ。
 体に回された天音の手を握って、どこまでも進む。どこまでも――。
「絶対離さない」

○     ○     ○


「……で。掛布団が半分無いまま動けなくて、風邪をひいたという事かな?」
 朝。
 天音は抱えているものの熱さに目を覚ました。
 自分の腕を掴み続ける尋人を布団の中に押し込んで、湯冷ましと薬を用意する。
 それから彼の元に戻り、朦朧としている尋人に薬を飲ませて再び横にならせた。
「ん?」
 布団の中で目を閉じている尋人の右手が、何かを求めるように伸びてくる。
 天音が彼の手を掴むと、その手は強く天音の手を握りしめてきた。
 そのまま天音は尋人に手を預けて、彼の顔が落ち着くまで傍にいてあげることにする。
「持ってきたぞ」
 そこに、天音のパートナー、ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)が現れる。
 ブルーズは裏方として清掃や食事など、湯治客が過ごしやすい環境を整えていた。
 今は、尋人が体調を崩したと聞き、うさぎリンゴを用意してきたところだった。
「今は寝ているから、テーブルに乗せておいて」
「……手を握ったままなのか? おい、それは病人用だぞ」
 言われた通りテーブルに乗せた途端、天音がリンゴをつまんだ。
「僕も朝はまだ食べて無いんだから、一つくらい良いでしょ」
「ああ、片手でも食べられる様な物を用意する。だが、1日はあと2時間ほどだぞ」
 尋人がリクエスト券の使用を開始してから既に22時間が経っていた。
 天音はそんな細かいことは気にしていなかったが。
「……やきもちかな?」
 微笑みを向けてブルーズを見ると、彼はぷいっと顔をそむけた。
「……焼きおにぎりだ」
 そう言うと、くすくすと漏れた笑い声が、耳に響いてきた。
 眉間に皺を寄せて、ブルーズは立ち上がり、朝食の焼きおにぎりを作るために、キッチンに向かっていった。
「さて……良い顔になったね」
 天音は尋人に視線を戻す。
 薬が効いてきたのか、表情が先ほどより穏やかになっているように見えた。
 病人食を作ろうかと、その場を離れようとした天音だが……。
 自分を掴む彼の手が、意外なほど力を持っていること。
 それから、少し揺らされるようにぴくりと動くことに、薄い笑みを浮かべた。
「手を繋いで歩いてる夢でも見ているんだろうか?」
 そんな彼の言葉に答えるかのように、尋人の口から寝言が漏れた。
「……さない。どこまでも……いっしょ……」
 天音はただ、薄い笑みを浮かべたまま――彼を見ていた。