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あの頃の君の物語

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ちちとの最後のチュー〜芦原 郁乃〜

 芦原建築設計事務所。

 ここには熊さんとリスさんが住んでいた。

 熊さんの名前は芦原義高
 180cmと背が高く、その背をさらに高く見せるほどの逞しい体躯をした男性だった。
 そして、その体格に見合う、豪放磊落な豪傑だった。
 一級建築士と言うよりも、力仕事をしてる方が似合うようなタイプだった。
 おおらかで寛容で、その外見からは想像もつかないほど仕事ぶりは繊細だった。

 リスさんの名前は芦原彩菜
 138cmと小柄で華奢。
 ちょこまかと動き回る働き者で、明るく愛らしく芯が強い頑張り屋だった。
 夫である義高の建築設計事務所で会計と事務を一手に担っていた。
 穏やかだけど、活気を感じさせる声で設計事務所に来る人を出迎えていた。

 でも、もうこの建築設計事務所には誰もいない。
 熊さんもリスさんも帰ってこない。
 彼らが出て行ったまま、その建築設計事務所の空間は止まったかのようなのに、そこに置かれたパソコンもボールペンも、もう使う人は現れない。


「彩菜、ちょっとそっちの取ってくれるかい?」
「はい、義高さん」
 彩菜が両手で大事そうに万年筆を持って、それを義高に渡す。
 その光景を娘の芦原 郁乃(あはら・いくの)はふしぎそうに見ていた。
「ねー、ちちぃ」
 郁乃は言葉を発するようになった頃から、両親を「ちち」「はは」と呼んでいた。
 しかし、まだ小さいので正確に「ちち」と言えないときがあり、そう言うときは「ちちぃ」と「ははぁ」と言ってしまうときがあった。
 そんな郁乃を父も母も非常にかわいがっていた。
 そして、父は呼びかけた郁乃に笑顔を向けた。
「ん? なんだ、郁乃」
「ちちたちは『ダーリン』とか『ハニー』って呼びあわないの?」
「好きな人は、やっぱり名前で呼びたいよなぁ……」
 義高はにっこりとした表情で、ゆっくりと言葉を選びながら答える。
「うーん、他の呼び方も良いと思うけど」
「……けど?」
「好きな人なら、名前まで好きになるものだから。ね、彩菜」
「ふふ、義高さんの言うとおりよ」
 愛娘の前で微塵の恥じらいもなく、堂々とそういう2人。
 でも、そんな2人の愛に包まれた姿は郁乃の憧れだった。
「いいなぁ〜」
 そして、この両親の元で、郁乃は明るく元気に育った。
 ご近所からも天真爛漫ないい子と評判だった。


 そんなある日。
 父と母だけで出かけることになった。
「ちちぃ〜っ! 待って、待ってぇ〜ッ! チューするの忘れたぁ〜ッ!」
「だいじょうぶだ、されなきゃ出かけられないからな」
 豪快な笑いを見せながら、義高は飛び込んできた郁乃を抱き上げた。
 父と同じ顔の高さになった郁乃は父に言った。
「うん、いってらっしゃい! チュ」
 そして、顔を母に向けて、母にもチューを求めた。
「ははぁ、いってらっしゃいっ! チュ」
「はい、いってきます」
 母は優しい笑顔でキスしてくれた。
 父が抱っこから降ろすと、祖母の芦原 那美が郁乃を引き受けた。
「それじゃ、気をつけていってらっしゃいね」
「はい、お母さん、行ってくるよ」
「お義母さん、郁乃をお願いしますね」
 息子と嫁の言葉に那美は頷き、留守番を受けおった。


 2日後。
 義高と彩菜は2人仲良く並んでいた。
 棺の中で。
「仲がいいからって、何も一緒に行くことはないのにな……」
 父の友人が悲しそうに呟いた。
 2人で出かけた父と母は、歩道に突っ込んできた車から、見知らぬ小さな子を守って亡くなった。
 その子供は、車との間に義高と彩菜が入ってくれたおかげで、奇跡的に骨折だけで済んだ。
 その家の親が涙ながらに謝罪に来たのだが、那美は謝ることではない、息子たちは当然のことをしたのだと毅然と答えた。
 喪主挨拶でも、息子と嫁の勇気をたたえた。
 郁乃は大人たちの話が分からず、ただ、どうしてお父さんとお母さんは目を覚まさないんだろうと棺で眠る両親を見て、思っていた。


 郁乃は祖母に引き取られることになった。
「郁乃は私が引き取りますよ。でないと、ただの普通の子になっちゃうからね、それじゃつまらないし、もったいない」
 親戚たちに祖母はそう宣言した。
 祖母の言葉の意味を当時の郁乃は分かっていなかった。
 だが、祖母は嫁の彩菜の不思議な力を知っていた。
 知っていて、その上で、小さいときから息子以上に彩菜を可愛がっていた。
 そして、祖母は郁乃にもその不思議な力が宿っているのに気付き、郁乃を自分の手元に置いて、のびのびと成長させてあげようと思ったのだ。
 祖母は郁乃が自発的に自由に行動するのを許してくれた。
 それと同時に間違えそうなときは全力で止めてくれた。
 祖母の行動や考え方は後の郁乃に大きく影響する。


 中学3年生の春。
 受験に悩む郁乃は、進路調査票を手にしながら、祖母のいる居間に行った。
「おや、ちょうど良かった。草もちでも食べるかい?」
「あ、うん。食べるー!」
 郁乃の前に祖母手作りの草もちが置かれる。
 その草もちを見て、郁乃は言った。
「本当に草もち作るの上手だよね、おばあちゃん。私も作り方、教えてもらうかなー」
「やめておきなさい。郁乃はお母さん譲りの料理の腕だから、緑のナニカになっちゃうわよ」
「え〜、そんなことないのに〜」
 不満げな郁乃だったが、その姿に祖母は眼を細めた。
「郁乃はお母さんに似てるからね。料理の腕はひどいし、背は伸びなかったし、真っ直ぐすぎるほどに前向きで一所懸命」
「……おばあちゃん?」
 昔より少し小さくなった気がする祖母を気遣って郁乃が声をかけたが、祖母はしっかりとした口調で言った。
「そしてお母さんと同じで、不思議な力を持っていて、それを困った人々を救う力として使いたいと強く願ってる。そんな想いの強さもそっくりだよ」
 郁乃はドキッとした。
 自分の考えていることを見抜かれた気がしたからだ。
 祖母はお茶を入れ直しながら、郁乃に勧めた。
「郁乃、パラミタにいってみなさい。そしてその力を、その想いを活かしてみなさい。きっと郁乃にとって大事な経験になるはずだから」
「パラミタ……」
 その名を聞いたとき、郁乃には天啓のようだった。
 そして、尊敬する祖母の薦めに従い、郁乃はパラミタに旅立つ。
 たくさんの出会いの待つ、パラミタへ……。