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あの頃の君の物語

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あの頃の君の物語
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噺家の娘として〜若松 未散〜

「いよっ、待ってました!」
 若松龍平が高座に上がると、客席が賑わった。
「やあやあ、これはこれは」
 龍平は笑顔で歓声に応える。
 そして、龍平が座につくと、それまでの歓声が嘘のように静まった。
 みんな龍平の話を聞き漏らすまいとしているのだ。


 若松 未散(わかまつ・みちる)はそんな大人気の落語家の娘として生まれた。
 初舞台は10歳。
 その容姿の良さからマスコミ受けし、舞台に上がる前から、未散は期待された。
『稀代の超新星!?』
『天才美少女落語家現る!』
 そんなタイトルでのニュースやスポーツ新聞の記事が並び、ネットでもいつの間にか未散の写真が多数載るようになった。
「見たよ、未散ちゃん!」
「がんばってね!」
 小学校の友達から応援されると、少しうれしくはあったけれど、複雑だった。
 めざとい企業は未散をCMに出そうとしたり、落語協会もポスターに使おうとしたりした。
 それらの依頼はすべて龍平が見て決定したが、未散はただ一つブログだけは嫌がった。
「ネットのものはちょっと……」
 未散はそれ以上言わなかったが、ネットでチラッと見た「みちるたんwwwハァハァwww」といった書き込みが嫌だったのだ。
 その手の書き込みは一種の様式美的なものだとしても、10歳という体も心も大人にさしかかる年齢の未散には心楽しいものには思えなかった。
「ネットなんてのは、面倒な割に時間を食うばかりで、本業の邪魔になる物だからな。こんなものは受けないでいい」
 未散の真意などまったく気付かず、龍平は打算的な理由で蹴った。
 いや、打算ではないかも知れない。
 龍平にとって、もっとも大事なのは落語だった。
 そして、一番大事にしなければならない時間は落語を練習する時間だった。
 くだらない横道に逸れて、本業を忘れてしまうようなことは、龍平のもっとも嫌うところであったのだ。


 未散の初舞台は大成功の内に終わった。
「いや、さすが龍平さんの娘さんだ」
「良かったよ、未散ちゃん」
 楽屋に帰ると、他の噺家さんたちも褒めてくれた。
 中にはテレビに出るような有名な噺家さんもいて、未散はうれしくなった。
 父が迎えに来ると、噺家さんたちは父を褒めた。
「良く出来た子だね、龍平さん」
「こりゃ将来が楽しみだ」
「いやぁ、まだまだですよ」
 龍平は先輩たちの賞賛に手を振ってそう答えた。
 その龍平の言葉は謙遜……ではなかった。
 家に帰ると、龍平は未散を叱り飛ばした。
「なんだあれは!!」
 父の怒声が飛び、その後、父からの駄目出しが始まった。
 話し方の悪かった点。
 動きの悪かった点。
 それぞれに上げられていく問題点は、未散が耳を塞ぎたくなるほど正確な指摘で。
「申し訳ございません……師匠」
 未散はただ平伏するしかなかった。


「うっうっ……うう…………」
「ごめんね、未散……」
 泣く未散を姉の若松美鶴は優しく撫でた。
 12歳になった未散だが、いまだに一度も父には褒めてもらえなかった。
 練習しても練習しても悪い点を指摘され、直される毎日。
 未散はとても疲れていた。
「……お友達とは遊んでいる? 未散」
 話題を変えようとした美鶴だが、未散は悲しそうな顔をした。
「遊びに行くのは……無理。落語だけじゃなくて、日舞とか茶道なんかのお稽古もあるし……」
 未散は様々な習い事をさせられていた。
 習い事は和風のものが中心で、それはすべて落語のためだった。
「お前は女だから他の落語家の何十倍も努力しなければならない」
 父は口癖のように言った。
 そのためあらゆることを学ばせ、噺をするときに知らないことがないよう、落語での所作が自然なものになるよう努めさせた。
「そう、未散は大変ね」
 ポンポンと未散の背中を優しく撫でた後、姉は笑顔で言った。
「でも、私は未散の噺、本当に面白いと思うわ」
「姉さん……」
 その言葉に未散が笑顔になりかけたとき、美鶴が咳き込んだ。
「ごほっ、こほっ……」
「大丈夫、姉さん!」
 驚く未散の声に気付き、ハル・オールストローム(はる・おーるすとろーむ)がやってくる。
「ハル、姉さんが……」
「かしこまりました、すぐに水を」
 皆まで言わずともハルは状況を理解し、水を取りに行った。
 ハルの水を受け取り、薬を飲んで、美鶴は体を横にした。
「大丈夫?」
「ええ、ちょっと飲むには早い時間だったけど、薬も飲んだし、後は寝れば……平気」
 姉は弱々しい声で答えながら、ハルを見た。
「ハルさん、未散を……お願い……」
「かしこまりました」
 美鶴に頼まれたハルは、未散を促して部屋を出た。
 一人きりになると、美鶴は扉の向こうの未散に向けて呟いた。
「私が病弱だったばかりにお父さんの期待がすべて未散に……ごめんね……未散……」
 そして、姉のそばを離れた未散はハルと共に1階に降り、ハルは未散を慰めた。
「美鶴さんも眠れば少し落ち着かれるかと」
「……そうね」
 気落ちしているのは姉のことだけではないと悟り、ハルはさらに続けた。
「今日の噺も面白かったですよ。最初に未散くんの噺を聞いたときも、世の中にはこんなに面白い物があるのかと思いましたが……」
「……ありがとう」
 未散は礼を言ったが、それは反射的なもののようで、ハルの言葉が心に届いているとは思えなかった。
「…………」
 未散の噺を聞いたのをキッカケに、ハルはこの家に使用人として入った。
 どこの馬の骨とも知れぬハルを龍平は雇いたがらなかったが、ちょうどその頃から美鶴の具合が急激に悪くなった。
 母がいない若松家で、美鶴の具合もより悪くなり、龍平は未散を鍛えないといけない状況では、若松家は家事をする人がいない状況になった。
 そのため低賃金でも構わないというハルを雇うことになったのだ。
 長い時を生きてきたハルには蓄えがあり、低い賃金でも暮らすのに問題はなかった。
 若松家に住み込みなので住居費や光熱費の心配もないし……ただ、それよりもハルが若松家に住み込んで良かったと思えたのは未散のそばにいられることだ。
 彼女の練習を身近で見られる。
 ただ、未散の特訓は予想以上に厳しく、龍平の罵声を聞く度に、彼女はあんなに面白いのになぜ……とハルは疑問に思っていた。
 それでもハルは未散の一種の支えになっていた。
 最初はこんな奴……とハルのことを思っていた未散だったが、気付くと彼は未散にとって自然と安らげる存在になっていた。


 未散が14歳の時。
 姉が亡くなった。


「ごめんね……ずっと傍にいてあげられなくて」
 美鶴は死の間際に未散に言った。
「姉さん……」
「でも、大丈夫よ。あなたにはハルさんがいるもの」
 弱々しい美鶴の視線はハルにも向いた。
「ハルさん、未散をお願い……ね?」
「……はい」
 それしか、ハルには答えることができなかった。
 未散はぎゅっと姉の手を握った。
 姉はもう握り返す力もなかったが、優しい声で言った。
「大丈夫よね。未散にはハルさんがいるもの。あなたはまだ彼の大切さに気付いてないみたいだけどきっとその内わかる……はず……よ」
 ぎゅっと握ったはずの姉の手が力尽きるように落ちる。
「姉さん!」
「未散が真打になるところ見たかったなあ………それだけ……が……残念…………」
 姉は眠るようにゆっくりと目を閉じた。
「姉さんーー!!」
 未散の目の前が真っ暗になった。
 あらん限りの声を出して、未散は慟哭した。
 ハルはそのそばで未散の背を撫でたが、未散はただただ泣き崩れた。


 父の龍平は美鶴の死に立ち会えなかった。
「たとえ家族が死のうと高座に穴を開ける物じゃない」
 それが父の主義であり、父は娘の死に際して、それを実行したに過ぎない。
 過ぎない……のは分かっているけれど、それが未散と龍平の徹底的な溝の始まりとなった。


 姉の葬儀が終わると、未散は自分の部屋にこもり、姉が褒めてくれた落語の稽古を1人で始めた。
 父はその未散の部屋のドアを叩いた。
「何をしている、今日はお前が高座に上がる日だぞ」
 しかし、未散は出てこない。
 一心不乱に何かに取り憑かれたように、噺の練習をしている。
 龍平はそれを聞いて、さらにドンドンと扉を叩いた。
「あと数時間で出番だぞ。いいか、親が死のうと子が死のうと高座に立つのが噺家だ。出てこい、未散!」
 だが、未散は出てこようとしない。
「練習してるなら……」
「練習じゃありません」
 龍平の怒号を遮ったのは、ハルだった。
「練習ではございません。未散くんは亡き美鶴さんに聞いて頂いているのです」
「何を……あっ」
 龍平は時計を見た。
 自分の高座の時間が近いことに気付いたのだ。
「行ってくる」
 龍平は弟子に迎えに来させて出かけていった。
 どのような状況でも高座を開けない。
 父はまだその信念を貫いていた。
「……未散くん」
 ハルはドアの向こうの未散に語りかけた。
「パラミタに……行きませんか?」
 返事はない。
 それでもハルは続けた。
「わたくしと一緒にパラミタに行きましょう」
 ハルは返事を待った。
 しばらくして小さな声が聞こえた。
「……一緒にって、一緒に行ったって、ハルだってどうせ死んじゃうじゃない。私を置いて……」
 その言葉を聞いて、ハルはまるで未散に寄り添うようにドアにくっついて語りかけた。
「わたくしは吸血鬼ですから死にません……だからずっと一緒です」
「……」
「約束します」
 そして、扉が開いた。


 父は未散のパラミタ行きに猛反対した。
「お前のためにこれまでどれだけのことを教えてきたか……」
 父を畏敬する未散はそれに対して何も言えなかった。
 代わりにハルが言った。
「お前のため……? 違いますでしょう。あなたはご自身の名声を保つために未散くんが必要だっただけでしょう」
「てめぇ……」
「こんな痛々しい未散くんを見ていて、あなたは何も思わないんですか」
 仕える身でありながら口答えしてくるハルに、龍平はつかみかかった。
「やめて!!」
 未散は思わず声を上げて、それを制止する。
 驚いて動きを止める龍平に、未散は絞り出すような声で言った。
「私は家を出る……ハルとパラミタに行く」
「…………」
 その場が水を打ったように静かになった。
 そして……。
「そうかよ」
 龍平はハルから手を離した。
「お前ならもっと高みにいけると思ったのに……あっさり裏切りやがって……」
 父は未散とハルに背を向けた。
「所詮お前も女だったってことさ。その男と何処へでも勝手に行くがいい」
「あ、あの……」
「だが私の娘だとは金輪際名乗ることは許さない。お前は今日から他人だ」
「…………」
 何か言いかけた未散だったが、父の言葉に押し黙った。
「……わかり……ました」
 それだけ言って、未散は荷物をまとめに行った。
 ハルがそれに付いていき、龍平は悔しそうに呟いた。
「私の子なんだから、お前には出来たはずなんだ、未散。だからこそ、厳しくあたってきたのに……」
 落語家の家では、父子の確執はよく起こる。
 それが自らの家でも起こるとどんな気持ちになるか、龍平は初めて知った。


 パラミタに行く新幹線の中で、未散は震えていた。
 初めて父に意見した。
 父とケンカ別れしてしまった。
 事実上の勘当だった。
 すっと手が伸ばされ、ハルが未散の手を握った。
(これで良かったんだよ……ね……)
 新幹線が出発し、未散とハルはパラミタへと向かった。


 今の未散なら少し父の気持ちが分かる。
 父も焦っていたのだ。

 落語家の家なのに女しか生まれなくて、おまけに長女は病弱。
 私に期待の全てがかかるのも当然だった。

 いつか父と話せたら……。
 今の未散は少しそう思い始めていた。