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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●中世ヨーロッパ 10

 初めて彼女を見たのはロンドンから北上した所にある町セント・オールバンズでだった。
 私はサマセット公指揮下の騎士として町を死守するために剣を取り、彼女はウォリック伯率いる奇襲部隊として町に潜入してきた。
 最初、私は彼女をただの町娘だと思っていた。敵の侵入を阻むため、広場にバリケードを張った我々に飲み物や食べ物を差し入れてくれる、心優しい娘たちの1人。
 だがそれは違った。
 彼女がヨーク側の傭兵で、奇襲部隊として内部から我々を切り崩しにきたのだと知ったときにはもう、戦闘に突入していた。
 戦力を補うため、傭兵は数多く投入されていた。彼女はそのうちの1人でしかなかった。女傭兵はめずらしいが、全くいないわけではない。
 だが気付けば私の目は彼女を追い、その剣によって倒されているのは味方の兵士だというのに、彼女のまるで野生動物を思わせる敏捷な動きと躍動する手足、いきいきと輝く表情にばかり気をとられていた。
 私たちは同じ広場で戦っていたが、最後まで剣を合わせることはなく、私はサマセット公の戦死によって退却を強いられた。
 彼女たちの奇襲は成功し、わが軍は町を捨て、敗走することとなったわけだ。
 その後、彼女がハイランダー、シンクレア氏族の戦士エマーナ・クオウコル(えまーな・くおうこる)だと知った。
 私たちはそれからも何度か戦場で顔を合わせた。時に私の側が勝利し、時に彼女の側が勝利する。いずれの場合も、決して私たちが味方となることはなかった。
 彼女がどんな声をしているか、その小さな肢体がどれほどしなやかに動くかは知っている。視線を合わせたとき、彼女の青い瞳がどんなふうに深みを増すかも。
 だが彼女が私の名――六鶯 鼎(ろくおう・かなめ)――を知っているかは知らない……。



 
「スタンリー卿のご一家ですよ。スタンリー卿はもう知っているでしょう? 今日は息子さんを連れてごあいさつに来てくださったの。さああなたもごあいさつしなさい。きちんと教わったでしょう?」
 母親に背中を押されておずおずと進み出た客間で、悠美香は初めてスタンリー男爵子息と出会った。
 まだお互いに5〜6歳のころのことだ。百年戦争末期で、各地の領主たちが帰国し、イングランド敗北がほぼ確定となったころ。
 スタンリー卿にはほかにも2人の息子がいたが、要が一番下で悠美香と歳も近く、遊び相手には最適と見られたのだろう。サマセットに滞在中、要は悠美香を連れてよく森へ探検に行っていた。
「逆です」
 そこで要がツッコんだ。
「え?」
 悠美香は思い出話をぴたりとやめて、となりの要をあおぎ見る。
「あなたがくっついてきていたんです。あのころ私はどうやってあなたを出し抜いて、村の男の子たちと探検に行こうかと頭をひねっていました」
「そ、そうだったかしら?」
「男の子なんてそんなものですよ。でも結局2回に1回は見つかって、あなたと一緒に森や林へ行ってましたから、そんなに間違っているともいえませんが」
 くすりと笑って、彼は磨いていたゴブレットを所定の位置に置いた。
 要は悠美香のように信徒席にも座らず、祭壇の前で午後の礼拝の準備にいそしんでいる。質素な麻の服。清貧を旨とする修道会に属する彼の姿はすっかり板についていて、子どもだったころの彼を知る悠美香ですら今以外の格好をした彼を想像するのは難しかった。
 まさか、幼なじみの少年が修道士になって戻ってくるとは。
 5年前、ここの修道院へ派遣されてきた修道士に見習いとしてついて来た要と再会したとき、悠美香はあっけにとられた。
 貴族の第3子なので、軍属につくか聖職につくかしか道がなかったのは分かる。けれどなんとなく、要は軍属を選ぶとばかり思っていたのだ。多分、村の子どもたちとよく騎士ごっこでチャンバラ遊びをしていた記憶があるからだろうが。
 だがそのおかげで彼は戦場へ行かず、こうしてサマセットに留まってくれているのが悠美香にはうれしかった。8年前、セント・オールバンズで父は戦死した。その後サマセット公を継承した兄も次兄も国王に召集されて戦場へ行ってしまったきり戻ってこない。でも要はここにいて、悠美香の話し相手になってくれている。修道士ならこうして2人きりでいても何もうるさく言われないし。
 まあ、厳密に言うと要はまだ修道士ではないのだが。
「……ねえ。修道誓願は立てないの?」
 信徒席の背もたれにひじを立て、黙々と準備をする要を見ているうち、ふとそんな言葉が口をついた。
 一瞬要の指が停止して、また動き出す。
「立てますよ、そのうち。でもなぜです?」
「んんっ。要って結構村の女の子たちに人気あるのよ。若い修道士見習いさんかっこいいって。でも見習いだと告解も無理だし、礼拝も行ってもらえないから近付くのが難しいって言ってたわ」
「不謹慎ですね。それに私はだれであろうと拒否したりはしません。修道とは地上における神の門となることです。神の愛し子に対する門扉はついていません。
 実際、あなたを拒否したことはないでしょう?」
「なんだか拒否できるものならしているって聞こえるのは気のせいかしら?」
「気のせいです。あなたも神の愛し子の1人です……一応ね」
 いかにも修道士然としてどきっぱり言ったあと。2人は申し合わせたようにぷっと吹き出した。
「まあ、日課の邪魔をしなければね」
 そのとき、笑う悠美香の乳白の髪がさらりと流れて波打ち、要の目を引いた。ステンドグラスを透過して差し込んでくるやわらかな陽光が美しい光の輪で彼女を包む。感情豊かな赤い瞳。戦乱から遠く離れたこの地で、彼女は若く、美しく、健全な女性だった。
 要の胸にかつて見た戦場の光景がよみがえる。
 父や兄の従者の1人として参戦したブロア・ヒースの荒野での戦いは、凄惨を極めた。少年だった要のなかにあった騎士というものへの憧れなど一瞬で吹っ飛んだ。騎士物語など真っ赤な嘘だ。戦場にあったのはただただ情け容赦のない殺戮と、死への恐怖と、運だけ。
 敗走に次ぐ敗走、ヨーク側によって昼夜を徹して行われたランカスター兵士殲滅作戦で荒野は赤くまだらに濡れ、至る箇所から怒声と断末魔の声がしていた。3日間決してやむことのなかったあの悲鳴で、いまだに夜冷や汗をかきながら目を覚ますことがある。
 仲間の血で赤く染まった川につかり、死体の間を縫うように移動して対岸へ渡ることで要は運よく逃げ延びることができた。そして剣を捨て、聖職の道を選んだ。
 だがここに赴任してきて、目を瞠るほど美しい女性へと成長した悠美香と再会して。彼女に抱いていた淡い恋心を思い出した。
 そのせいで5年を経ても、まだ修道誓願を立てられずにいる。
(もしかすると一生無理かもねえ)
 そんなことを考えて、要はふうとため息をついた。



 
 その夜、悠美香は揺り起こされた。
「ん……なに…?」
 寝返りを打った直後、口をふさがれる。
「!」
「しっ、お静かに」
 彼女の上におおいかぶさった人影は声なき声でそう告げた。
 部屋は真っ暗で、男だということしか分からない。悠美香はおびえたが、相手はそれ以上彼女に触れてこようとはしなかった。
「今から手をはずします。驚かず、冷静に対処してください。いいですか?」
 手の下で悠美香がうなずいたのを確認して、男は手をはずした。
「あな……あなたは…?」
「私は六鶯 鼎」と、ぼんやりと小さなあかりがついた。「サマセット公にお仕えする騎士です」
 そう言って、灯した小さなろうそくを2人の間に持ち上げる。照らされた顔には悠美香も見覚えがあった。
「どうしたの? お兄さまに何か?」
「サマセット公はヘクサムで戦死されました」
「え――」
 しっ、と鼎の手が再び悠美香の口をふさぐ。視線が悠美香の足元――床へ向いた。下の階で怒鳴り合うような男たちの声と走り回る足音がしている。
「エドムンドさまは一時スコットランドへ落ち延びることを決意され、あなたを逃がすように命じられたのです」
 鼎が手短に話したのはこういうことだった。
 サマセット公が戦死した今、次兄のエドムンドが次のサマセット公だが、しばらくはヨークの追手から逃亡する日々となるだろう。ヘンリー王はまだ捕らえられていないが時間の問題。ヨーク公リチャードが王となれば、サマセットの領地は悠美香と結婚した者――もちろんヨークの者――に与えられる。
 実際、すでにサマセット公の死からそれと読んだ近隣の領主が、悠美香獲得のために攻め込んできていた。
 エドムンドがそれを阻止するために鼎に悠美香を逃がすことを命じたという。
「そんな…」
 突然の出来事に悠美香は即座に対応できなかった。兄が死んだと言われてもぴんとこない。そもそも兄たちはずっと戦場にいて、もう何年も戻ってきていなかった。しかし鼎の話を裏付けるように、中庭に面した窓の外からも激しい剣げきの音がしている。何者かの勢力が城に攻め入っているのは間違いなかった。
「嘘じゃありません。でなかったらどうして私がこの隠し通路を知っていると思うんです?」
 鼎はすたすた歩いて壁の一角へと近付いた。今そこは下り階段になっていて、壁には松明がとりつけられている。それを持ち上げ、彼は手早く火をつけた。
「さあ行きますよ」
「で、でも城のみんなが…」
「あなたが逃れることが今戦っている彼らのためでもあります。さあ」
 鼎に急き立てられるままに、悠美香は手近にあった外套をはおると暗く冷たい石段に下りた。秘密の扉が閉じられるとなかは一寸先も見えない闇となる。石段は荒削りな岩が積み重ねられているだけで、高さも不規則だ。壁からじわりとしみだす水で濡れていてすべりやすく、鼎の持つ松明がなかったら一歩も進めなかっただろう。
 隠し通路は中庭の下を通り、厩まで続いていた。慎重に木戸を開けて外へ出る。外は真っ赤だった。火矢が乱れ飛んでいた。彼らの脇にある厩も例外なく茅葺屋根が燃えている。庭の木やしげみもだ。窓から聞こえていた戦闘の怒号はいまや悠美香の間近にあり、あらゆる場所で兵士たちの戦う姿があった。兵士たちばかりでない。なめし革職人、鍛冶師、厩番といった、城壁内に居を構える者たちもまた、見境ない敵の猛攻撃にさらされて、城の使用人ともども逃げ回っている。
「もうここまで侵入されていましたか」
 ち、と舌打ちをして、鼎も剣を抜く。すぐさま彼らに気付いた敵兵士が走り寄ってきた。2人の間で剣と剣の噛み合う音が起きる。
 城壁を抜け、丘に隠してある逃亡用の馬の所まで行かなくてはならない。だが鼎だけでは荷が勝ちすぎた。
 敵兵の大半は悠美香の顔を知らない。まさか領主の娘がこんな所にいるとは考えもしないだろう。そんな状態ではこの乱戦のなかを彼女だけ先行させることもできず、鼎は徐々に追い込まれていった。
「鼎!」
 刃を合わせ、ぎりぎりと押し合う鼎に、別の敵兵が横から襲いかかった。悠美香の悲鳴にはっとなってそちらを向くが、鼎は身動きがとれない。この危機を救ったのは背後のしげみから飛び出してきた人影、要だった。
「悠美香ちゃん! 無事か!?」
 一撃の下、背中を割った敵兵を横に蹴り転がして前に出る。
 無事でないのはどちらかというと要の方だった。普段の修道士服を脱ぎ捨て、ほかの者たちのように黒い外套、シャツとズボンの軽装の彼もところどころ切り裂かれて血をにじませている。どれも深い傷はないのが幸いだった。手にした剣がおびただしい血で濡れていることからも、彼が修道院を抜け、ここへたどり着くまでの間に相当数の敵と遭遇し、戦ってきたのはあきらかだ。
「要の方こそ……それに、その格好…」
 悠美香は震える手を要のほおについた切り傷へと伸ばした。
「大丈夫。それより一体何が起きた? この襲撃は一体――」
「はいはいお2人さん。そういったことは全部あとにして、今はここを抜けることに集中しましょうか」
 決着をつけた鼎が剣についた血のりを払い飛ばして言う。
 要は何か言いたそうに口を開いたが、敵兵の近付く気配にぐっと飲み込んだ。
「分かった。行こう」
 それから2人は悠美香を間に挟んでかばいながら城壁にあるいくつかの通用門を目指した。悠美香が城から逃げ出したことがまだ知られずにすんでいるのか、外にいる敵兵の数は少ない。だが知れるのは時間の問題だった。そうなれば敵は一気に増加する。
「それで、悠美香ちゃんをどこへ連れて行くつもりなんだ?」
「それですが――」
 道々説明を受けていた要の質問に鼎が答えようとしたときだった。
 突然頭上でがさりと葉擦れの音が起きた。耳をふさぎたくなるほどだった城近くと違い、人のいる場から遠ざかった今では小さなその音も不自然なものだと気付く。同時に何者かの気配を上に感じて、要は剣に手を添え水平にして頭上に上げた。
 一瞬遅れて振り下ろされた短剣と要の剣との間で火花が散る。
 攻撃を阻まれた何かは地面に着地すると同時に飛び込み前転で要の反撃を避けて距離をとった。
「キミは」
 起き上がった彼女が女傭兵エマーナと知って、鼎は軽く目を瞠る。
 今までも敵同士だった。今さら驚くことではないかもしれないが、それにしてもこのときまでもとは。
 しかしこんな近距離で向き合うのは初めてだと、半ば呆然と彼女を見つめていた鼎に、エマーナは驚愕の発言をした。
「なんでさっさとお姫さん殺さないんだよ、鼎」
「えっ?」
 とまどう悠美香を要が背後にかばう。要は剣をどちらに向けるかためらい、油断なく2人を交互に見た。
「だましたのか」
「違いますよ。私が受けた命令は姫君の逃亡の手助けです。敵の戦術に乗せられないでください」
「嘘じゃないよ!」
 エマーナは嘘つき扱いされたことに憤慨して即座に否定する。
「ワタシの今の雇用主は新しいサマセット公エドムンド。依頼内容は妹君の殺害だよ」
「兄さまが?」
「あなたが生きていると、いろいろと面倒だと思ったんだろね」素っ気なく肩をすくめる。「事情がどうかなんて知らないよ。ワタシは報酬さえもらえればいいんだ」
 悠美香が捕まり領地と爵位を失う可能性と秤にかけて、殺害を選んだか。悠美香が長兄の死を知ってもたいして動揺しなかったのと同じで、もともと兄妹関係は希薄だ。ありえない指示ではない。
「鼎が出発したあと気が変わったんだろ、今のご時世、よくある話だね。
 それより、サマセット伯に仕えてるんでしょ、鼎。彼はお姫さんの死をお望みだよ」
 エマーナの言葉に、鼎は沈黙した。
 騎士の忠誠は絶対だ。要は固唾を飲んで見守っていたが、その一方でどうすればこの場から悠美香を逃がせるかを必死に考えていた。
 5年のブランクがある上、騎士と傭兵の2人が相手では勝ち目は薄い。せめて悠美香が逃げる時間だけでも稼ぎたいが――……
 やがて鼎が重々しく口を開いた。
「我が家が代々お仕えしてきたのはサマセットです。私の忠誠もサマセットにあります。サマセットの姫君に向ける剣は持っていませんよ」
 その返答に、エマーナがじだんだを踏んだ。
「ああもおっ! なんでこうなるんだよっ! 鼎はサマセットの騎士だって言われたからウォリックとの契約を破棄してサマセットの傭兵になったんだよ!? なのにどーしてやっぱり敵対しなくちゃいけないわけっ!?」
 その告白に驚き、混乱する鼎の前、エマーナはぱちんと短剣をしまった。
「もういい! 分かったよ! 逃がせばいいんでしょ、逃がせば!」と、悠美香に手を突き出す。「その外套貸して! ワタシがおとりになるからその間にあなたたちはここを抜ければいい!」
「え、ええ…」
 とまどいつつも外套を脱いで渡すと、エマーナは帽子のなかへ髪を突っ込み、できるだけ色を隠した。そして
「いた! お姫さんだよ! 向こうに逃げた!」
 と周囲のほかの者たちに聞こえる声を発して、目立つようにしげみでガサガサ音を立てながら反対方向へ走って行く。すぐさま声と音に反応して、何人かが彼女を追って行く音がした。
 正体がばれればどんな目にあうか……彼女だけを危険なめにあわせるわけにはいかない。鼎もそちらへ向かいかけ、あっと気付いて振り返った。
「城を出た先の林の入り口に荷をつけた馬を2頭隠してあります。キミたちはそれで逃げなさい」
「あなたは!?」
 悠美香が問いかけたが、鼎に聞こえている様子はなく、彼はエマーナを追ってこの場から走り去った。
 要は自分の外套で悠美香をくるむ。
「さあ悠美香ちゃん。いつまでもここにいられない」
 要に促されるまま城壁へ向かい、目立たないよう門をくぐった。幸いだれにもとがめられることなく城の外へ出、無事鼎の言っていた場所までたどり着くことができた。
 城を振り返ると、放たれた炎にあおられてまるで城そのものが燃えているように見えた。男たちの怒号は風に乗って離れた悠美香たちの元までかすかに届く。
「それで私たち、どこへ行くの? もうスコットランドの兄さまの所は無理みたいだけど」
「ランカシャーへ。親父たちならきっと俺たちを匿ってくれる」
 この内乱のイングランドで、スタンリー卿は如才のないことで有名だった。その力はヨークですら一目置くほどに。
 悠美香は一時、自分を逃がすべくおとりとなってくれた2人のために無事を祈る。そして要へと向き直った。
「あなたが一緒でよかった。あなたがまだあそこにいると思ったら、きっと私、ここにいることはできなかったもの」
 どうすれば安全に彼女を連れ戻れるか道程を算段していた要は、不意打ちをくらったような表情になった。目をぱちぱちさせ、ちょっと照れたふうな面はゆそうな顔をして、馬の首を回す。
「そろそろ行こう。道中は夫婦で通すことにする。……悠美香」
 今度は悠美香が赤くなる番だった。
「え、ええ……それでかまわないわ」
 そして2人は遠いランカシャーを目指し、林のなかへと馬を走らせたのだった。



 他方、おとりとなって走ったエマーナと鼎は、自ら作り出した血の海のなかで横たわっていた。
 追い込み、囲んだ相手がサマセットの姫でなく傭兵のエマーナと知った男たちがよくも小細工を弄したなと激怒し、戦闘となったのだ。エマーナも鼎も強かったが、敵の数はあまりにも多かった。周囲にだれもいなくなったとき、彼らもまた力を失っていた。
 仰向けに倒れ、静かに己の体を伝って流れていく血を感じていた鼎に、エマーナが腕の力で這い寄る。
「鼎……生きてる…?」
「……まだ」
 この先は不明だが。
「ワタシも」
 笑うような吐息をして、ごろんとエマーナが仰向けになる気配が頭の方でした。
「ねえ……これから、どうする?」
 これから? 鼎は内心首を傾げる。全身、激痛を訴えない箇所はなかった。しかも敵も全員倒せてはいないだろう。おそらく何人か逃げている。その者たちが応援を連れて現れたら間違いなく終わりの今、「これから」を考える意味はあるのか?
 ゆっくりとまばたきをして、答えた。
「エドムンドさまには、お仕えできませんし……どう……しましょうねえ…」
「ふぅーん…。じゃあさ、うち来る? スコットランドの山奥だけど」
「傭兵ですか…。正直言って、いいですか?」
「……ん?…」
「私、戦うの苦手なんですよ…。もうこりごりというか…」
 ぷはっとエマーナが吹き出す声が聞こえた。
「ハイランダーは、戦うばかりじゃ、ないよ。それに……多分、しばらく戦いはないんじゃないかな……王さまが捕まったら…」
 ああ、それもありえるか。
「そうですねえ…。じゃあ、ハイランドで、ヒツジでも飼いますか…」
 ぐるぐる視界が回りだした。いよいよかもしれない。
 緑の斜面と白いヒツジたちとのコントラストを思い描きながら、鼎は目を閉じた。



 ハイランドはその名のとおり高地にあり、急峻な崖も少なくない。なだらかな平地はあまりなく、それゆえ過酷な地とされる。ハイランダーに傭兵が多いのはそのためだ。彼らにとっては大切な故郷だがこの地だけでは食べて行けず、クランの若者たちが傭兵となって稼いでくるしかないのだ。
 しかし当然全員が全員傭兵になるわけではなく、普通に暮らしている者もいるわけで。
 メエメエ鳴くヒツジが斜面に点在する草を食べている様子を、鼎はぼんやりと見下ろしていた。ヒツジの面倒は訓練された犬が見てくれているので、彼自身にはたいして仕事はない。
 ふと、彼の視界に白いヒツジの背中の向こうで揺れる黒いぼさぼさ頭が入る。ひょこっひょこっと出たり沈んだりを繰り返していたが、やがて妻エマーナの顔が見えるようになった。
「ちょっとーっ!」
 鼎と目があったエマーナが口元に手を添えて叫んでくる。
「どうしたんです?」
「牛が産気づいたから来てーっ!」
「え? 今朝見た限りではまだ先だと思ってたんですけど」
 杖を立て、大急ぎで立ち上がる。
 腕をぐるぐる回して急かしてくるエマーナに向け、鼎はひょこひょこと歩き出した。