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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●近世ヨーロッパ 5

 家路を急ぐ人々や大勢の露商や商店でにぎわうストリートは、日暮れとともにそのにぎわいを失う。
 窓にはロールカーテンが下ろされ、戸口には鍵がかかり、CLOSEDの看板がフックにかけられ……しかし完全に日が落ちてしまえばまた街は息を吹き返したようににぎわいを取り戻す。
 焼けた肉や香辛料の香ばしいかおりが店先から漂う。それは昼も同じ。しかし夜にはそこに酒のにおいが加わっていた。
 活気づいた酒場から流れてくる歌声や音楽、楽しそうな人々の談笑の声。何を話しているかまでは聞こえないが、聞いている者まで知らぬうち、微笑を浮かべてしまうような声だった。
 そういったものを横目に、ゆったりとした足取りで人波を泳ぐように歩いていると。
(あれは…)
 向かい側の歩道に博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)はありえない存在――いや、それは言い過ぎか。そうと言い切れないほどには、生粋の吸血鬼である博季はその長い生においてスポット的に幾度か彼らを目撃してきている――めずらしい存在を見つけて、前に出していた足を引き戻した。
 見間違いなどではない。間違いなくあれは悪魔だ。
 姿かたちは人間と全く同じだが、周囲の人間たちと違って彼にはあるモノが欠けていた。幾度か見かけるうち、それは博季と同じで「寿命」と呼ばれるモノなのかもしれないと思うようになった。博季の目にはあきらかな違和感を、人間たちは感じとることができないようだから。
 めずらしい存在を目にしたことに対するふとした思いつきで、博季は彼のあとをつけることにした。
 悪魔はコートのポケットに手を突っ込み、少し背を丸めて向かい風のなかを歩いていく。博季に気付いた様子はない。というか、すさんだ目をして、何か深刻な考えにふけっているように見える。
 そして悪魔はリージェント・ストリートに入り、そこを抜け、ウエストエンドに入った。
(これは)
 と、博季はあごを引く。
 ウエストエンドは先までいたイーストエンドと違って、庶民のうろつく場所ではなかった。
 水を吸った豆のように急激にふくれ上がる大都市にありがちで、この街にもまた境界が生まれていた。富を持たない庶民、平民はイーストエンドに追いやられ、発展していくウエストエンドは上流階級のお楽しみの場となる。リージェント・ストリートはそれを別つ川、境界線でもあった。
 ストリートからあきらかに人の姿が消えていた。貴族は下々の者のように、夜ストリートを歩いてうろついたりなどしない。
 かといってひと気がないわけでもない。イーストエンドとは違う、静かで、優雅さをまとった人の気配が周囲の建物から感じ取れる。
(こんな所で一体…)
 きょろきょろと周囲に目を配っていると、前を行く悪魔はいかにも会員制といったクラブの入り口をくぐった。
「えっ?」
 驚く博季の前、悪魔が数歩と歩かないうちに店の用心棒らしき男が前をふさぐ。
「お客さま。失礼ですが、店をお間違えになって――」
 男はそこで言葉を止めた。ぽっかりと開いた口、まばたきをしない目がとろんとなる。悪魔は足を止めず、そのまま男の横をすり抜けて入って行った。
「……ああ。これは何やら面白そうですね」
 くすり。笑って、博季もまた男の横をすり抜けた。



 ここまでくれば知り合いに出くわすこともなく、だれにも声をかけられずにすむと思っていたのに、そうもいかなかったらしい。
「ここ、いいですか?」
 そう言って、返事も待たず隣の椅子にかけた男をはうさんくさげに見た。
 だれかと思えば、全く見知らぬ男だ。人違いだ、そう言おうとして、初めてそれが「何か」に気付いた。
「……なんだ、吸血鬼か」
「ひどいですね。僕は【誇り高き紅】です」
 【誇り高き紅】それは純血の吸血鬼を表す言葉だった。生まれながらの吸血鬼。血を吸われて末席につくことを許可されたような下位の者たちとは違う。この呼び名が博季は好きだった。とても高潔で、ハイソな響きがする。
 しかし悪魔の某はそこに何の関心も感じられなかったようで、すぐ手元のグラスに目を落とした。
「お客さま。何をお求めですか?」
 品のいいウエイトレスが――博季や某の格好に驚いたにしろ、それを面に出さないマナーを備えていた――にこやかに注文をとりに現れる。
「あ、僕も彼と同じ物を――それ、何ですか?」
「酒じゃない」
 どんなに飲みたくても、酒のにおいをさせて綾耶の病室へ戻るわけにはいかない。
 しかしその事情を知らない博季は、某の愛想もない返答に少し眉をひそめつつ、ブランデーを注文した。
「それで、俺に何の用だ」
「うーん。何か用というわけではないんですが……言ってみれば、悪魔であるあなたがなぜここにいるのか興味が沸いたのと、その暗い目ですかねえ」
 さすがに本人を前に「すさんだ」と口にしない処世はあった。
「目?」
「よかったら話してみませんか? 悪魔であるあなたの話を聞いてあげられる相手なんて、そうそういないでしょう?」
 この提案に、某は少し考え込んだ。自分が限界に近付いているのは分かっていた。この数カ月、出口の見えない真っ暗な水の中でもがいているようだった。だれにも相談できない孤独と、綾耶への罪悪感とできりきり締め付けられながら…。
 某はとなりの博季にだけ聞こえるよう落とした声で、ぽつりぽつり話し始めた。
 半年前、某は大けがを負って雨の中さすらい、アパートの前で動けなくなっているところを綾耶に拾われた。もちろんそれは綾耶の魂を狙う策だった。しかし綾耶はそんなことなど知らず、ただ純粋に彼を心配し、唯一のベッドを彼に提供した上、自分の食費を削って彼の治療費をねん出して、某には早くけがが治るようにと食事を提供してくれたのだ。
 天使のように純粋で、美しい心の持ち主。
(まあ、当然でしょうね。だからこそ悪魔には価値が生じるわけですから)
 それこそ薬や酒に溺れた宿なしを殺しても価値がないのと同じだ。
 博季は納得し、ブランデーグラスを揺らした。
 某は「明日」と思った。「明日にしよう」と。
 その明日は、いつまで経っても今日になることはなかった。彼女に愛させるのは計算のうちだった。もっと安心させてから、もっと自分に気を許してから。その方が正体をあかしたとき、裏切られたと思う彼女の絶望と恐怖は深くなる。その頂点で命を奪うのだと、自分に言い聞かせていた。――彼女を本気で愛してしまったことだけが、計算外だった。
「なら命を取らないで、そのまま一緒にいればいいじゃありませんか」
「悪魔と人間が?」
「いけませんか? 僕は【誇り高き紅】ですが、僕の愛するリンネさまは人間です。時間という鎖につながれた彼女はいずれ老いて僕より先に死ぬでしょう。でも仕方ないことです。僕は人間であるリンネさまが好きなんですから。あの方を、血を求めてさすらう下位の者どもの一員にしたくはありません。
 それにね、リンネさまはきっと、おばあちゃんになってもとってもとってもかわいいと思うんですよ!」
 にっこり笑ってのろける姿に「綾耶だってかわいいに決まってる」と言い返しそうになって、某は苦笑した。
「無駄だ。期限は今夜で、もうどうしようもない」
「本当に? 人間ならともかく、魂をやりとりできる悪魔のあなたにできないことなんて、そうそうないと思いますが」
「たとえ俺が奪わなくったって――」
 そのとき、稲妻のように某の脳裏をある考えが閃いた。
「……そうか」
 できるかもしれない。あるいは。今夜なら。
 唐突に某は立ち上がった。勢い余って転がった椅子にも気づかず、入り口へ向かって駆けだしていく。ドア近くで入ってきただれかとぶつかったのを見て、博季はくつくつと笑った。
「あの様子じゃ、僕のことなんかすっかり頭から飛んでますね」
 愉快な気分で財布から某の分と自分の分、そしてチップをテーブルの上に置いた。正確な料金は分からないが、こういう高級なクラブでも十分おつりが出るくらいの額だ。
「あんなにおいしいお酒とお話をごちそうしていただいて、術で消えるだけというのはあんまりですからね」



*            *            *



 夢うつつのなか、リンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)は前髪を分けられ、何かが額に押しつけられたのを感じて、ぱちっと目を開いた。
 ベッドで寝ている自分の枕元に立つ人影を見ても、特に驚きもしない。それどころか。
「もう! 遅いよ、博季くん!」
 怒りながら上半身を起こした。
「あんまり遅いから、先に寝ちゃってたじゃない」
「ごめん。ごめんなさい、リンネさま」
 ぽかぽか小さなこぶしで胸を打たれて、博季はあっけなく降参と手を挙げる。
「予定どおり部屋を出たんですが、こちらへ向かっている途中で少し想定外の出来事が起きてしまいまして」
「想定外の出来事?」
「ええ。
 でもその前に、僕もベッドに入っていいですか? 冷え込んできたので」
 その言葉に、リンネは上掛けの一部をめくり上げた。
「ありがとうございます」
 するりとなかへすべり込んで、リンネの小さくて温かな体を腕のなかへ抱き込む。そうしてぴったりくっついて、やっと安心できたというように博季は大きくため息をつくと体の緊張を解いた。
「リンネさま」
 キスしようとした次の瞬間、リンネの手が彼の口元をぴたっとおおって押しのけた。
「博季くん、お酒くさい」
「ええ? それは……ですけど、ブランデーをほんの1口2口だけですよ?」
「だめ!
 それより、想定外の出来事って?」
「ええと…」
 少し残念に思いつつ、博季は某との話をかいつまんで話した。リンネにはすでに自分の正体をあかしている。だから話のなかで悪魔といった存在が出てきても、リンネは何の驚きもなく受け入れていた。
「ふうーん。それで、どうなったの?」
 リンネは俄然話に興味を持ったようで、両手をついて身を起こし、ぱっちりと眠気の覚めた目で博季を見下ろしている。
「さあ、そこまでは。彼は飛び出していってしまいましたから」
「むー。残念」
 そっと、いとおしい気持ちにあふれた仕草で、彼女の髪を指先にからめる。
「ですがリンネさま。彼と話していて、僕も思ったんです。僕とリンネさんの時間にも限りはあるのだと。そしてその時間を、もっと豊かですばらしいものにできるのに、それを怠っていたと…」
 自分でも驚くくらい、あまりに愛していて。彼女が愛を返してくれたことが奇跡に思えて。人知れぬ夜にこうして逢瀬を重ねる、それで十分だと思い込んでいた。
 でも本当は、ちっとも十分なんかじゃない。
「リンネさま。あなたも知っているとおり、僕は吸血鬼です。人間ではありません。それでもあなたに恋をしました。あなたをひと目見たその時から、ただいとおしくて仕方がないのです」
「……なに? 博季くん、あらたまっちゃって。なんだかくすぐったいよ」
 リンネはほのかにほほを染めた。軽くすぼめられた口元が、ちょっぴり恥ずかしく思いながらもうれしそうに笑んでいる。
 そんな、普通の人間なら暗がりにまぎれて気付けない表情も博季の目にははっきりと見える。博季は勇気づけられた思いでリンネを引き寄せ、胸に抱き込んだ。
「あなたの笑顔、あなたのふるまい、あなたのお考え。あなたの全てが、いとおしくて仕方がないのです。
 あなたはジェントリで、僕はただの平民……身分違いは十分存じております」
 それどころか、ただの化け物だ。――そんなことを言えばリンネはむきになって否定するから、決して口にはしないけれど。周囲の者はそう思うだろう。決して歳をとらない怪物。影でささやきあうに違いない。長く1カ所には住めず、もしかしたら両親や友人たちから彼女を引き離す結果になるかもしれない。
 けれど。
「それでもどうか、このまま僕をあなたのお傍に置いてください。命ある限り、必ずあなたを守ります。あなたを支えます。あなたのお力になります。あなただけを見て、あなただけを愛し続けます。ですからどうか、僕をあなたの夫として、受け入れてください」
 博季からの真剣な告白に、リンネは博季の胸からほおを引き離し、顔を上げると、そっと耳元に唇を近づけてささやいた。
「……はい」



*            *            *



「なぜおまえがここにいる…!」
 一心不乱に駆け戻った病室で綾耶を見下ろしているジョーカーの姿を見て、某は歯をきしらせた。眠る綾耶に気付かれないよう、声はひそめている。
「なぜも何も、きみの担当者だからね。きちんと職務を果たすかどうか見極めにきたんだよ。――というか、あとはきみだけなのさ、単純にね」
 そこで某はベッドの向こう側で床に倒れ伏している看護婦に気付いた。ひと目で魂がないことが分かる。
「ああ、これ?」某の視線を追って、ジョーカーは肩をすくめた。「彼女を殺すのに観客は不要だろうから片付けておいてあげたよ。まあ、これも不慣れな半人前悪魔くんへのサービスと思えばいい。ほかの者と違って、なかなか寛大な監視役だろう? 私は」
「くっ…」
 ――この髭野郎が…!
 某は内心で毒づく。
「今の時刻は……ふむ。タイムリミットまであと10分というところか。さあ、早くこの娘を殺したまえ。そうすればきみの任務は完了する」
「待て! その前に確認しておきたい! 俺が今夜こいつを殺さなくても、こいつは半年の命、寿命は明日までということだな?」
「そうだよ。正確には明日の朝、あと数時間というところか」
「そしてその任務を完了させたら、1つだけ願いをかなえてくれると」
「そう。まあほとんどの半人前くんは力を望むね。あとは魔王たちへの紹介かな。翼下に入ればかなりの力が――」
「分かった。俺は、今からこいつを殺す。俺の願いは、こいつを生き返らせることだ」
 これにはさすがにジョーカーも度肝を抜かれ、絶句せざるを得なかった。半人前の監視役についてから数百年、何百と繰り返してきたがいまだかつてそんなことを言い出した者はいない。
「きみ…」
「できるんだろう? こいつに新しい命を――」
「ばか言わないで」
 答えたのは綾耶だった。しっかりと目を開けて、戸口に立つ某の方を見ている。
 その目は憎しみの光を放っていた。
「悪魔の命なんか、願い下げよ。そんなものいるものですか…! あなたなんかに殺されても……やらない」
「綾耶、聞いて…」
 はっとあることに気付いて某は壁のジョーカーを見た。ジョーカーはこの展開に驚く様子も見せず、くつくつと笑って、ねめつけるような目で某たちを見ている。
「おまえ、彼女が起きていることに気付いて――うわっ」
 某の目がそれた瞬間、綾耶はベッドを抜け出して某に駆け寄った。その手にはサイドテーブルに置かれていた果物ナイフが握り締められている。
「殺される前に、あなたを殺してやる!」
「よせ綾耶! やめろ!」
「この悪魔! よくもだましてくれたわね!」
 某は振り下ろされたナイフをかろうじて避け、その手首をとった。しかし綾耶はもう片方の手を添えて、さらに加重する。ナイフはもみあう2人の間で揺れ――綾耶の胸に突き立った。
「こんな……綾耶…」
 真っ赤に染まった某の手のなか、綾耶はひざから崩れた。脱力した体が某にぶつかり、ずるずると床へすべり落ちる。
「ふーむ。スマートさに欠けるが、半人前くんではこんなものか」
「綾耶……綾耶!」
 ひざに抱き上げ、揺さぶる某の腕のなか、綾耶がうっすらと目を開いた。ナイフはわずかに心臓をそれ、即死してはいなかったのだ。
「某…」
 死を目前にして。その目に苦痛はなかった。先までの憎しみの光もなく、ただ某への愛があった。
 お願い某、心で聞いてください…。
 最初から分かっていたんです、何もかも。あなたが何者で、どうして私の前に現れたのか…。
 それでもあなたを家に入れたのは、あの日の雨があまりにも冷たかったから。そして……さびしかったから。
 天使である私に残された猶予は半年。短い命と思うかもしれません。でも、独りでいるには耐えられないほど長すぎたんです。
 あなたと出会って、あなたを知って。あなたを愛して、愛されて。とてもすばらしい時間でした。
 私は満足です。これ以上は何もいりません。だからどうか、あなたもこれ以上苦しまないで。
「……ありが……とう…」
 最後の息を吐き出して綾耶はこと切れた。某は嗚咽を噛み殺し、だんだん失われていくぬくもりをつなぎとめようとするかのように抱き締める。やがてその腕のなかで、綾耶は光に包まれた。そして綾耶自身光となって霧散していく。あとには血の一滴すら残さず、床にひざをついた某の傍らに果物ナイフが転がるだけだった。
 綾耶という者がたしかにそこにいたことを伝えるものは、ベッドに残されたくぼみだけ…。
「――おい、髭」
 感情の消えた某の呼びかけに、ジョーカーは気分を害したというようにむっと眉をひそめた。
「こいつが天使ってどういうことだ」
「ああ。たまにいるんだよ。天界で禁忌を犯して地上界へ追放され、人として生きなければならなくなった天使というのが。だけど天使は天上に住む者。拒絶反応みたいなものを起こして長く生きられないから、レア中のレアだ」
「おまえ、知っていたのか? ――知っていたんだよな。その上で、俺にこいつを殺せと言ったんだ」
「なに、落ち込むことはない。きみも経験を積めばすぐに分かるようになるさ。
 そして、おめでとう! これできみもはれて一人前の悪魔だ」
 ジョーカーはぱんぱんと手を叩いてねぎらった。壁に背をつけ、足を交差させてのその態度はどう見ても小ばかにしているようにしか見えなかったが。
「さあさっさと魔界へ帰――」
「まだだ。俺の願いをかなえていない」
「きみの願い? でも彼女は生き返らせてほしくないと言っていたよ? 肉体も消えたしね。あれをよみがえらせるのは――」
「それはキャンセルだ。もういい。
 俺を人間にして、人として生きさせろ」
 ジョーカーは驚きの表情を浮かべたが、先ほどではなかった。某のことだから、あるいはそう言い出すのではないかとうすうす予想してはいたのだろう。
「ふむ。その願い、偽りはないのだね? 一度人になってしまえばもうキャンセルはきかないよ?」
 某はうなずく。
「いいだろう。きみは務めを果たした。
 しかしせっかく手に入れた力を手放すとは、きみもなかなか酔狂だねぇ」
 そうしてジョーカーはあお向けにした手のなかに力を集積し、目にも止まらぬ速さでそれを某の体に突き込んだ。
「……!」
 突然の衝撃に息を詰まらせ、身を折った某の体から引き抜かれた手には、先の力の代わりとでもいうような黒いもやのようなものが握られている。ジョーカーは今まで一度も見せたことのない、冷徹な悪魔の目で床に這いつくばった人間・某を見下ろした。
「魔として生まれながら魔の因果にさからった愚者よ。きみが今生あるいは来世で彼女と再び出会う「時」がきたとしても、その代償は必ず重くのしかかるだろう。それに完膚なきまでにつぶされるか、乗り越え今度こそ幸福を手にするか。『今』から楽しみだよ…」
 冷笑を浮かべてジョーカーは去る。
 某は咳き込んでいた口元をぬぐって、よろよろと立ちあがった。
「ぬかせ……つぶされてなんか、たまるか…。俺は……今度こそ、綾耶を幸せにするんだ…」
 たとえ何十年、何百年かかろうと。世界じゅうをさまようことになろうとも。転生の果て、俺が某であったことを忘れ、彼女が綾耶であったことを忘れたとしても。
 「俺」はきっと彼女を見つけ出して、そして2人で幸せになるんだ。
「――綾耶…」
 某は生まれて初めて涙をこぼした。