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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●現代アメリカ 7

「社長、お時間です」
 机上のインターホンから秘書の声がして、アルテッツァは読んでいた報告書を机上に戻した。
 デジタル時計は18時を指している。そろそろ出る時刻だ。きちんと時間どおりにつかないと、すばるにいらぬ心配をさせてしまう。
「出ます。車を回してくれませんか」
「分かりました」
 コートをはおり、ドアへと向かう。しかし彼が伸ばした手の先でドアノブが回り、第一秘書のセシリア・ノーバディ(せしりあ・のおばでぃ)が飛び込んできた。
「アルト、大変よ」
「何ですか? シシィ。キミがそんなにあわてるなんてめずらしいですね」
「スバルがいなくなったの。どうやらバイト先であなたと彼女の母親との関係を知らされたらしいわ。相手はチェリー・ウィルソン」
「ウィルソン。……アデア・ウィルソンか」
 思い当たって、ち、と舌打ちをもらす。すばるとの婚約にあたり、関係を清算した相手だった。
 しかし最初からお互い了承済みだったはずだ。これまでの相手のようにはじめにそう言ってあったし、彼女が誤解するような思わせぶりな行動は何もとらなかったはず。
「……こちらはそうでも向こうは違ったというわけですか」
 だが今はそんなことを考えているひまはない。
「シシィ、スバルを捜しますよ。じき雪が降りそうです。彼女が凍えてしまう」
「ちょっと待って、アルト。まだあるのよ」
 エレベーターへ向かう彼を再びセシリアが止める。アルテッツァは目にいら立ちの光を浮かべて振り返った。
「なんですか」
「ここ数日、彼女の周辺で見られた車も消えているの。もしかしたらブラックウッド財閥が動いたのかもしれないわ」
 それを聞いてアルテッツァの表情があきらかに強張った。
「ついにあの老人も彼女の所在を探り当てたというわけですか」
 いつかはそうなると思っていた。あの老人が自分の死期を悟るにあたり、昔放蕩の末に彼と仲違いして飛び出した孫娘の行方を捜させているのは聞いていたから。彼女の娘であるすばるにたどり着くのは時間の問題だった。
 それにしても、どちらも一度に起きるとは。
「アルト?」
 数分思考した末、アルテッツァは結論を出した。
「ブラックウッドへ行きます。どうやら彼に話をつけるのが一番の早道のようだ。いずれは話し合わなくてはならないと思っていた相手ですし。もしスバルが彼の元へすでに連れて行かれているなら連れ戻してきましょう」
「念のため、ワタシは周辺を見回って彼女を捜してみるわ」
「頼みます」
 アルテッツァは硬い表情でうなずき、エレベーターが地階へ着くやまっすぐ自分の車へ乗り込み去って行った。彼の車が見えなくなるまで見送ってから、セシリアはおもむろにポケットから計器を取り出す。
「ああは言ったけど、ワタシ実はすばるの居場所、把握してるのよね」
 いつかはこんなこともあろうかと思い、彼女にプレゼントした携帯ストラップに発信機を仕込んであった。もちろんそれをアルテッツァに隠すつもりは毛頭なく、彼女を捜す方を選択したのであれば教えるつもりだったのだが。
「あらら」
 光点の場所を見て、セシリアは目を丸くした。よりによってイースト・ハーレム。
「これはアルトに言わなくて正解かしら」
 事態は思ったより切迫していたようだ。
 大急ぎ自分の車へ向かう。アクセルを踏み込み、セシリアの運転する車は小雪のちらつき始めた外へとうなりを上げて飛び出した。



 ニューヨークはアメリカで最大の都市だが、想像するほど危険な都市ではない。
 警戒しなくていいというわけではないが、夜中でも地下鉄に乗れるし、外を歩いていても危険度は少ない。
 しかしそんなニューヨーク市のなかにもやはり治安の悪い場所はあって、それがイースト・ハーレムだった。ハーレム地区のなかでも最悪の治安と言われる、犯罪者のたまり場所。そこへすばるは迷い込んでいた。
 アルテッツァが彼女にプロポーズしたのは、すばるの亡き母親を愛していたから。チェリーはそう言った。でなかったらあなたみたいな孤児を引き取ったり、選んだりすると思うの? 周りにはもっとすてきな女性たちがいるというのに。
 胸を矢で射られたような気がした。それは一度ならずすばるも考えたことであり、そのたび無理やり押しつぶして考えないようにしていたことだった。
 思えば、彼は「結婚してください」とは言ったけれど、愛を口にしたことは一度もなかった。
「あんなすばらしい人がワタクシを選んだりするはずなんかなかったのです…」
 チェリーから知らされたことがショックで、はじめのうちすばるは自分がどこにいるのかも気にかけていなかった。彼女としてはアルテッツァのビルに向かっているつもりだったのだ。一刻も早く真相を知りたくて……彼から直接聞くのだと、それだけが彼女の正気を保つすべだった。
 すばるに自覚はなかったが、彼女の動揺は激しく、周囲から人の姿が消えていることに気付いたのは相当奥へ入り込んでからのことだった。
「ここは…」
 きょろきょろと周囲を見渡す。舗装の砕けた道や壁、悪臭がかすかに混じる空気。外階段に腰かけた少年が何の感情も映さない目でパーティードレス姿のすばるを見ている。そんな視線はあちこちからしていた。値踏みされているような気がして落ち着けない。ここが危険な場所であるのはあきらかで、それはぴりぴりと肌で感じられるほどだった。
 早く出よう、そう思って元来た道に走って引き返そうとする。しかし数歩行っただけで、2人の男に左右から捕まった。
「いやっ!」
「お嬢さま、暴れないでください。わたしたちは――」
「放して!」
 男たちは身なりこそカジュアルだったものの質の良い服で、清潔な格好をしていた。武器も持たず、言葉も丁寧だ。が、周囲におびえていたすばるにそれと気付く余裕はなかった。
「しかたない」
 目をぎゅっと閉じて遮二無二暴れるすばるを2人がかりで押さえ込む。そしてそのまま、自分たちの車へ連れて行こうとしたとき、1台の車がスピードを殺さず彼らに向かってまっすぐ突っ込んできた。
 急ブレーキ音がしてタイヤから煙が上がる。後輪がスリップし、半回転した車体は彼らにぶつかる手前で止まった。
「すばる、乗って!」
 運転席のセシリアが叫んだ。
 すばるを押さえていた2人はまだこの出来事に気を飲まれてしまっている。拘束が緩んでいるのを知って、すばるは彼らを突き飛ばした。
「いくわよ! シートベルトして!」
 すばるが乗り込むと同時にギアチェンジしアクセルを思い切り踏み込む。車は通常ならあり得ないエンジン音を上げ、まるでロケットのような瞬発力で走り出した。バックミラーのなか、男たちがあわてて自分たちの車に戻る姿が映る。同時に、セシリアの車はパトカーとすれ違った。
 少女誘拐犯がいると通報し、あらかじめ手配してあったものだ。彼らは職質を受けることになるから2人のあとは追えない。
 本道に合流したところでセシリアは通常運転に戻した。
「セ、セシリアさん、どうしてここに…」
「もう大丈夫よ、すばる。あなた、けがしてない?」
「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」
 ぺこっと頭を下げる。
「そう。よかった」
「あの……セシリアさん。ワタクシ、お聞きしたいことが…」
 セシリアの目が細く締まった。ミラーに映るすばるはうなだれ、見るからに憔悴している。
「だめよ。ワタシはそれに答えられない」
「セシリアさん?」
「アルトの元へ連れて行ってあげる。あなたの質問に答えられるのは、アルトだけだと思うわ」
 アルテッツァ自身のためにも。
 アルテッツァのペントハウスに向け、セシリアは車を操った。



 アルテッツァが自身のマンションへ戻ったのは深夜近くだった。
 ブラックウッドは老人らしく、かなり凝り固まった偏屈な老人だったが、それでも最後にはアルテッツァの言い分を認めてくれた。
(スバルは彼のひ孫。会わせないわけにはいかないでしょうが…)
 それに付随する問題について考えるのは明日にしようと思った。すっかり疲れ切っていた。今はアルコールがほしい。
 真っ暗なリビングのあかりをつける。同時に中央に立つ人影にぎょっとしたが、それはすばるだった。
「スバル、どうしてここに? シシィは送り届けたと…」
 どことはワタシは言わなかったわよ――してやったりと舌を出す彼女の面が浮かんできて、アルテッツァは顔に手を当てた。
「アルテッツァさん……ワタクシ、どうしても聞きたいことがあります」
 それが何かは明白だった。
 明日にしてほしい、今は彼女の相手をするにはエネルギーが足りない。そう思った。だがそうもいかないのは彼女の思い詰めた目を見れば分かった。絶対に退かない覚悟をしている。
「少し待ってください」
 アルテッツァは重いコートを脱ぎ、暖炉の上のキャビネットへ向かった。グラスに3分の1ほどウイスキーをそそぎ、のどが燃えるようなひと口を飲む。その小さな燃えさしが腹に届くのを待って、すばるを振り返った。
 すばるはまだそこに立ち尽くしている。まるで置き去りにされてしまった人形のように。
「キミも何か飲みますか?」
 すばるは首を振った。今は何ものどを通らないのだろう。
「そうですか。でも、座ってください。ボクは座りたいし、キミを見上げながらするような話でもないでしょう」
「アルテッツァさん、ワタクシは母の身代わりなんでしょうか?」
 アルテッツァがソファに腰かけるやいなや、すばるは訊いた。アルテッツァは手のなかのウイスキーを回す。
 ごまかすべきか、真実を告げるべきか、いまだ揺れる彼の心のように。
 煙に巻くことは簡単だった。アルテッツァの手管をもってすれば、すばるなどわけもない。だが話すべきは真実だ。セシリアもそう思うから彼女をここへ運んだのだ。
「その前に、キミの母親シベールについて話しましょう」
 初めて彼女と出会ったのは、アルテッツァが11歳のときだった。シベールは18。まだ少女なのに、すでにその類いまれな美貌と妖艶な魅力で男たちをとりこにしていた。ブラックウッド財閥総帥の孫娘ということもある。彼女は大勢の男たちを取り巻きとして引き連れており、スキャンダルのうわさは絶えなかった。
「当時社交界にいて彼女に魅入られなかった男は1人もいなかったでしょう。ボクもひそかに熱をあげていた少年の1人でした。もちろん子どものボクなんか、視界にも入れてもらえていませんでしたけれどね」
 彼女とまともに言葉をかわしたのはたった1度だけ。男性との密会の場に間違って踏み込んでしまったときだ。アルテッツァに見られたことで男性はあわてて逃げ出して、その場にはソファに寝そべった半裸の彼女とアルテッツァだけになった。
『いけない坊やね』
 面白そうにくすくす笑って、さらに二言三言アルテッツァと会話したあとその場を去った。甘い香りとキスを彼の額に残して。
 多分あのとき、アルテッツァは本当に彼女に恋をしたのだ。
 そのすぐあとで彼女は祖父と大げんかをし、あのときの男と一緒に姿を消した。チンピラのような小者で、彼女が駆け落ちするほど本気で愛した男とは思えなかった。きっと売り言葉に買い言葉で家を飛び出した彼女に巻き込まれただけだ。
 すぐ戻ってくるだろう。みんなそう考えて彼女の家出を本気にしなかった。なんといっても財閥の娘なのだから、その莫大な資産をどぶに投げ捨てるような真似はすまいと。しかし大方の予想に反して彼女は戻らなかった。
「ボクは子どもでしたから、彼女を捜しには行けませんでした。6年後急死した父に代わって家督を継ぎましたが、今度は家の事情からボクがアメリカから動けなかった。それでも探偵を雇い、母親の親族を頼ってフランスへ渡ったといううわさを頼りに彼女を捜しました。そしてついに彼女を探し当てたとき、彼女は結核で病院のベッドの上でした」
 現代において結核は必ずしも死ぬ病ではない。けれど彼女は病院へ運び込まれたとき、すでに手のつくしようがないほど病は彼女をむしばんでいた。
『あら、あなた』
 シベールはアルテッツァを覚えていた。骨と皮の手を持ち上げて、まるで親友に会えたような笑顔でベッドの横まで彼を手招きした。
「それからボクたちは1年半の間、一緒に過ごしました。彼女の病状は一進一退でほとんどが病室のベッドの上でしたが、具合のいいときは車イスを使って海を見に行ったりもして、とても穏やかで充実した日々でした」
 そしてある日、アルテッツァはシベールから彼女の娘、すばるのことを聞かされた。父親は駆け落ちした相手ではなく、フランスで知り合った日本人だったらしい。彼はすばるの存在を知らないまま日本へ帰った。それでもそのときは何とかなると思ったが、やがて病にかかり、貧困から子どもを育てられず、手放すしかなかった。
『施設の前に置き去りにしてしまったわ。わたしのスイートハート。きっと許してはもらえないわね』
 アルテッツァはすばるの行方を捜した。そのときすでにすばるは里子に出されていて、どうしても行方がつかめなかった。里親の事故死から再び施設へ戻された幼いすばるを捜しあてたのは、シベールの死から半年がすぎていた。
「あとはきみも知ってのとおりです。ボクはきみを引き取り、立派なレディに育てることをシベールに誓いました」
 それは彼女を救えなかった罪悪感からかもしれない。シベールのために、彼女にできなかったことを自分がするのだと。少なくともはじめのうちはそうだった。
「今までキミに話さなかったのは、シベールを誤解してほしくなかったからです。彼女は放埓でした。そのことを悪く言うひともいるでしょう。ですが決してひとをだましたり、盗んだりということはしませんでした。彼女を愛した責任は、男たちの方にあります。そして彼女が唯一愛した者がキミです。シベールはキミを心から愛していました。キミが幸せになることだけを望み、祈っていました」
「だから……ワタクシにプロポーズしたのですか…?」
「いいえ。なぜそんなことを? ボクがシベールに誓ったのはキミをレディにすることです。あのブラックウッドの老人が文句をつけようにもつけどころのない、完璧なレディにね」
 グラスを置き、すばるの手をとる。
「スバル。キミはシベールではない。全く、似ても似つかない。シベールはそこにいるだけでひとの目を引きつけてやまない大輪の薔薇でした。視線ひとつ、指先ひとつで男の意気を燃え立たせるファムファタル。でもキミは違います。マーガレットのように素朴で、純心で、愛らしい花。
 初めてでした。そばにいてくれるだけで嬉しいと思える存在は。キミはキミとして、ただそこにいてくれるだけで愛らしいのです。寒い冬の熾火のように、キミはボクの心をやわらかなぬくもりであたためてくれました。
 そんなキミをどうして愛さずにいられるでしょうか」
 親指がすばるの指にはまった婚約指輪をなでる。
「これがキミを不安にさせてしまったんですね。すみません。でもボクは怖かったんです。学園を卒業して、社会に出たキミがだれかと出会い、その相手に奪われてしまうのではないかと気が気でありませんでした。だって、ボクはキミからすればくたびれた年寄りも同然でしょう?」
「そんな……そんなこと…!」すばるは懸命に首を振った。「ワタクシはアルテッツァさんが好きです! 初めてお会いしたときからワタクシにはあなたしか見えませんでした」
「ありがとう、スバル」そっと指輪に口づけ、すばるの瞳を覗き込む。「もうキミを放したくはありません。今夜、ボクの妻になっていただけますか?」
 すばるはほほを染め、淑女らしく恥じらいながら小さくうなずいた。
「はい」
 アルテッツァの両腕が彼女をソファから抱き上げる。細身ながらたくましく、すばるを抱いていても微動だにしない。安定した足取りで彼女を寝室へと運んでいく。
 彼の腕のなかですばるはゆりかごのなかにいるような安心感を感じながら、何もかもゆだねるようにそっとほおを寄せた。