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若葉のころ~First of May

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若葉のころ~First of May
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●For you, for me

 窓は、大きく開けた。
 夏になればこうはいかない。虫が入ってくるからだ。寒い時期でもやはりこうはいかないだろう。
 だからこの、若葉のころが窓を開け放つ最良の時期と言えようか。
 窓際にロックチェアを置き、サイドテーブルからコーヒーカップを持ち上げる。
 一口含んで涼介・フォレスト(りょうすけ・ふぉれすと)は目を細めた。ほろりとした苦みと酸味、琥珀色の香ばしさが舌の上でまじりあう。
 肩の力が抜けていくようだ。
 自宅にまさる場所はなし、とはよく言ったものだ。
「そういえば、こんなゆっくりとした休日は久しぶりかもしれないなぁ」
 ぽつりと漏らすと、そうですねとミリア・フォレスト(みりあ・ふぉれすと)が応じた。
「ここのところ、研究論文の作成や魔術書解読で休日返上状態でしたから……」
「ああ、ごめん……寂しい思いをさせたかい」
 照れくさげに涼介が言うと、いいんです、とミリアはカップを置いて微笑した。
「紅茶、ありがとうございます。いい香りですね」
「喜んでもらえてよかった。先日出たファーストフラッシュなんだよ」
 ミリアに茶を淹れたのは涼介だった。自分用はコーヒー。先日買った豆を挽いた本格派だ。
「それにしても……ふふっ」
「どうかしたのかい?」
「いえ、大したことじゃありませんので……」
「言いかけてやめられると気になるなぁ。教えてよ」
「恥ずかしいな……笑わないで下さいよ」
「笑わないよ」
「ええと……最高の贅沢だな、って思ったんです。気持ちのいい風に吹かれながら、好きな人とお茶を楽しむのは」
 涼介は目を丸くした。
「驚いた。それ、私が思っていたこととまったく同じだよ」
「趣味が合いますね、私たち」
「だから結婚したのかも」
 返事の代わりに、ミリアはテーブルに身を乗り出して目を閉じた。
 彼女にしてはかなり大胆な行動だが、涼介も同じ気持ちだったのですぐに応じる。
 椅子から身を起こし自分の唇を彼女の唇に………………触れることはできなかった。
「お父様、お母様」
 なんというバッドタイミング、ミリィ・フォレスト(みりぃ・ふぉれすと)が居間に姿を見せたのである。
「今日は何をして過ごしましょうか」
 いささかばつの悪そうな顔をしている二人に気づく様子もなく、ミリィは利発そうな目をきょろきょろと動かした。
「特に何も予定のない天気の良いお休みなので、窓を開けて部屋の掃除をするのもいいのですが……」
 ここで、ぽん、と手を打って、
「ああそうだ、お父様。先日読んでいた魔道書の中にちょっと分からないところがあったので教えていただきたく思っていましたの。わたくしの場合、実践の中で覚えたものがほとんどなのできちんと基礎も覚えませんと、いざと言う時に応用ができず大変ですから……」
 いいよ、と得心したように涼介は言った。
「ミリィにはきちんと魔術の基礎を教えないといけないなと前から思ってたんだよね」
 涼介も、ミリィの言い分は理解していた。彼女に魔法の才能はある、と思う。しかし、仮に天才だとしても育てなければ伸びないだろう。魔道書の扱いといった基礎的なことはどうしても誰かが教えてあげなければならない。いい機会だ。
 椅子を持っておいで、と彼は言った。
「とりあえず、今日は基礎魔術の魔道書を使って魔道書の読み方を教えてあげよう。これを覚えておけばある程度の魔道書を読むことができるから」
 涼介は革張りの本を取り上げて開いた。ざらざらした手触りのページをたぐる。
 ――あの子にやる気があるなら、イルミンスールで学ぶ事も視野に入れてきちんとした環境で魔術を学ばせてあげたい。
 親心というのだろうか。ミリィの可能性を信じてあげたい。これが彼の素直な気持ちだった。
 やがて、
「お昼の準備をしますわ」
 乾いたスポンジのように知識を吸収すると、ミリィは一段落ついたところでポンと跳ねるようにして席を立ったのだ。
「それは嬉しいね。なにを作ってくれるのかな?」
「今日のお昼はわたくしの好きなタンポポオムライス。ふわふわオムレツを作りましょう」
 ヒバリが歌うようにしてミリィは、たたたとキッチンへ消えて行く。
「そうだミリアさん」
 ミリィの姿がないのを確認してから涼介は言った。
「クリスマスのとき話題にしましたね。赤ちゃんが、って話ですが……」
「えっ」
 ミリアもいきなりこの話が出るとは予想外していなかったようだ。ぽっと頬を染めた。
「そろそろほしいですね。私自身まだまだ未熟なところがあると思うけど、二人で協力していけばきっと良い家庭が築けると思うんだ」
 妻同様に頬を薄く紅潮させつつ、涼介は告げたのである。
「だからさ、子供作ろうか」
「……はい」
 これがミリアの返答。言葉はこれだけだ。気持ちを伝える手段は別にある。
 軽いけれど、情熱的な口づけ。

 八岐大蛇とその眷属がツァンダ内外を荒らし回ったのは、遠い昔のことのように思える。
 実際はそれほど以前のことではない。むしろまだ、眷属が残した破壊の爪痕は生々しいほどである。
 けれど九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)は大蛇(おろち)のことを失念していた。
 このときまでは。
 ――あれ? どうして八岐大蛇のことなんか思い出したんだろう。
 そうだ。
 それどころじゃないんだ。
 ローズは歩いていた。
「話がある」
 そう言われて斑目 カンナ(まだらめ・かんな)に呼び出されたのである。小さな貸しスタジオに。
「スタジオ……っていうのがまたね」
 普通でないということだけはよくわかる。待ち合わせや談笑に向いた場所とは思えないから。
 防音ドアを開けたその場所に、カンナは単身でいた。
 スツールに腰掛けて、アコースティックギターを抱いて。
 もちろん彼女の指が、弦をはじいているのは言うまでもない。
「ギターの練習をしてるんだ」
 ここだと落ち着くもんでね、とだけ告げて、カンナは楽器に視線を復した。
「その辺に座ってくれればいいよ」
 言われるままにローズは座った。
 そして黙って、カンナのギター練習を眺めた。
 退屈ではなかった。
 流麗な弦楽曲をカンナは奏でている。ローズがタイトルを知らない曲だ。やわらかい曲調だが、心に染みるような旋律もある。
 すでに修得している曲であろうに、カンナは何度も繰り返し弾いており、実際そのたびに上達しているようにローズには聞こえた。
 なにか感想を言うべきだろうか――ローズがそう思ったときである。
「……今まで秘密にしていたことを話したい」
 やはり視線は弦に向けたまま、カンナは語りはじめたのだった。
 ギターを鳴らしながらカンナが語ったのは以下の内容となる。断片的なエピソードの積み重ねだったが、それはたしかに彼女の半生だ。
 実家が医者の家系であり、そこに生まれた子供は全員医療従事者になるべく小さい頃から教育を受けているということ。
 それなのにカンナは、幼いときエレクトーンの習い事を通して音楽の魅力につかれ、家の方針に反発しつづけてきたということ。
 しかし子どもの反発では大人を納得させることはできず、自分の望む将来に進むことはできないのではないか、そんな不安から今までずっと重いスランプに悩まされてきたということ。
 ……そして、何かをつかめるのではないかと家出をしてここにいるということ。
「この話は、夢にむかって進んでいるローズにだけは話したくなかった」
 それがどうして急に話す気になったのか、その理由まではカンナは明かしてはくれなかった。
 けれどローズも今、すぐにそれを知りたいと思っているわけではなかった。
 言いたいのは、別のこと。
 カンナの心に触れることができた、そんな気持ちに包まれながらローズは言ったのだ。
「医者の家系か……たしかに、カンナって妙に医学に詳しかったもんね。うーん……自分も上手く伝えられるかわからないけど」
 ぽりぽりと頭をかいてローズは続けた。私も家出をしてここに来てるんだよね、と。
「うちの実家も、後継ぎが必要な家だったり……だから家の人たちには悪いことをしたと思ってる」
 似たような境遇なんだ、とローズは微苦笑する。
「だけどね、そうしなかったら医者になるって夢も見つからなかった。そうなったらカンナたちが知ってる私は今いなかったと思うんだ。
 失うものがあっても、自分の決断を最後まで通したい。家に戻らないのは、つまりそういうことだと思うな」
 ローズらしくあっけらかんとした口ぶりだったが、それでもその言葉は、カンナの胸をとらえていた。
 ――自分の決断、か……。
 顧みるに、これまでカンナは自分について起こったことについてはすべて、周囲の環境や人間のせいにしていたように思う。
 ――わかってる。
 それは彼女が、まだ自分で何かをする自信がなかったということ。
 だからカンナは決めた。
 今すぐ自信を持て、というのは難しいし、なにより変だ。
 でもできることはある。今すぐにでも。
 それは、何かのせいにするのはやめるということ……ローズのように、良いことも悪いことも、まずは自分の責任だと思うということ。
 なんだかカンナは胸が軽くなった気がした。
「……カンナ。今弾いてる曲、すごく良い曲だね」
 ローズがそう言って微笑んでいる。
「良い曲……そうかな、じゃあもっと曲を作ろう。アイデアが浮かんできたことだし」
 言うなりカンナの左指は、ギターのコードを押さえたのだ。
「どんな曲を作るかって? 答えは風の中にあるんですって」
 美しい和音を響かせる。
 そしてカンナは、今日ずっと練習しているあの自作曲……実は、カンナからローズに贈る感謝の曲……をまた奏で始めたのである。
 ――ひょっとしたらあたしの曲を聞く皆の瞳に、あたしも知らない新しい自分を見つけられるのかもしれない。
 今日練習しているなかでも最良の演奏ができている――とカンナは感じていた。