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春待月・早緑月

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■1月3日

 朝。
 御神楽 陽太(みかぐら・ようた)はカチャカチャと陶器同士がこすれ合う、聞きなれた音で目を覚ました。
 だれかが食器を洗っている。寝ぼけた頭でぼんやり思う。目をしぱたき、だんだん頭のなかのもやが晴れて意識が覚醒するにしたがってあることを思い出し、パッと身を起こした。
 ベッドを飛び出し、スリッパをつっかけてあわてて階下へ下りる。ダイニングへ飛び込むと、思ったとおり妻の御神楽 環菜(みかぐら・かんな)がキッチンに立って洗い物をしていた。
「あら陽太、もう起きたの」
 環菜は肩越しに振り返る間も手を動かすのをやめず、慣れた手つきで皿を洗っている。
 御神楽家では大晦日の晩から年が明けて2日の昨夜まで、近所に住んでいる陽太のパートナーたちが泊まって連日賑やかに年末年始を祝っていた。昨夜は彼らが帰宅するということもあって大いに盛り上がり、夜中近くまで騒いでいたため、片付けは明日にしてもう寝てしまおうとベッドに入ったのだった。
 こんなことになるんだったら昨夜のうちに済ませておくべきだった!
「環菜、俺がやりますから! あなたはベッドに戻ってください!」
「あともう少しで終わるから、済ませちゃうわ」
「あなたは妊娠してるんですよ! しかも臨月なんです!」
 その言葉に、環菜は自分のおなかを見下ろした。マタニティドレスの下のおなかは足元も見えないくらい丸くふくらんでいる。バランスをとるため後ろに反って、見るからに腰に負担のかかる体勢を自分がとっているのは知っていたが、腰や足が我慢できないほど痛いわけでもなかった。むしろ、どちらかというと今日はなんだか調子がいい。
 環菜は肩をすくめた。
「大丈夫よ。この様子だと、今日明日って感じじゃないから」
「そんなことを言って、もしものことがあったらどうするんですか!」
 あせるあまり、陽太は半ば強引に環菜の手からスポンジと皿を奪い取ると懇願するように言った。
「安静にしていてください、お願いですから。俺の神経がもちません」
「……だって、ベッドにばかりいるのも飽きちゃったのよ」
 陽太が本気で心配してくれているのを見て、環菜はちょっと甘えるような拗ねた声で言う。
 陽太は少し思案したあと、妥協案を出した。
「リビングのソファで横になっていてください。
 ああ、そうだ。テレビのHDにいくつか年末特番や映画を録画してありますから、それを見てはどうですか?」


「陽太はかなり過保護なのよ」
 ソファのクッションを取り上げ、ぎゅっと抱きしめて腰を下ろす。後ろの方からはキッチンで洗い物をしている音が聞こえていた。
「出産予定は1月末で、まだひと月近く先だわ」
 それに、初めての子どもの出産は往々にして後ろへずれこむというし。そうしたら2月ということも十分考えられる。
 環菜は完璧に出産までの日々をコントロールしていると自負していた。妊婦として、どんなふうに体が変化し、いつ、何が起きるかも事前に本で学習していたし、体重が増えすぎないように、食事も気をつけてきた。そのため、妊婦がよく陥りがちな高血圧症とか深刻な妊娠トラブルも起きず、かなり理想的な妊婦の日々を送ってこれた。つわりも比較的軽めだったと思う。
 だけどそのどれもをとっても、陽太の不安を完全に解消するには至らなかった。
 陽太があんなにもやきもきしているのは、究極、出産するのが自分でないからだ。もしもつわりとか足のむくみとか腰痛とか頭痛とか、そういったもの全部ひっくるめて自分が負えるものだったら、陽太は喜んで負っただろう。苦しむのが環菜だけで、自分は見てることしかできないというのが陽太を不安にさせ、あんなにも過保護にさせている。
 それはつまり、ひっくり返せばそれだけ環菜と環菜のおなかにいる赤ちゃんを大切に思ってくれているという証でもあった。
 だから実を言うと、こんなふうに口では不満をつぶやいていても、胸のなかではうれしくてたまらない。くすぐったくて、なんとも言えない気持ちで満たされて、あったかくなる。
 世のなかには妊娠に無理解な夫もいるという。おなかが大きくなってアヒルのように歩く妻を女性と見られなくなって、無視したり、放置してたりとか。
 だけど陽太はよたよた歩く環菜をいつも気遣ってくれるし、手をつないで歩いてくれる。一緒に両親学級へ行ったり、沐浴練習とかにも参加してくれる。育児書を何冊も読んで、保育の勉強をしたりしてるのも知っている。
 帰り道に1度、それについて訊いたことがあった。
『何もかも、とっても楽しいですよ。いざというとき、何が起きても決してあなたを不安にさせたりしないようにすべて知っておきたいですからね。
 それに、赤ちゃんが生まれるまでの1分1秒を、あなたとともに感じたいんです。二度とない、特別な10カ月ですから』
 そう言って、少し照れた顔して笑った陽太を見て。
 環菜は、自分はどれだけ幸運な女性なんだろう、とあらためて思った。
 そしてきゅっと握った手の指の力を強めて、そっと答えた。
『不安になんか、なったりしないわ……陽太がそばにいて、こんなふうに手を握ってくれていたら』
 今だって、自分はリビングで彼はキッチンで。姿は見えないけれど、すぐ近くにいて、彼の気配を感じていられる。
 陽太のたてる音を聞きながら、環菜はゆっくりと目を閉じていった。


「環菜、何かほしいものはありますか? ジュースとか――」
 洗い物を終え、1階の掃除機をかけ終わった陽太は2階の客間を掃除する前に、ふと思いたってリビングのドアを開けた。
 テレビはついておらず、しんと静まりかえったなか、ソファで横になっている環菜の姿を見つける。そっとそのまま出て行こうとして、環菜の手からはずれて転がったらしいクッションが目についた。それを持ち上げ、ぱんぱんたたいてふくらませると、そーっと環菜の両足の下に入れる。
 最近足のむくみがひどいと、よくもんでいるのを見ていた。これで少しでも解消されればいいのだけれど……。
「用事、終わったの?」
 環菜がぱちっと目を開いた。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか」
「うとうとしてただけ。最近眠りが浅いの。この子がよく動いて起こされるせいもあるかな。
 陽太、手を貸して」
 差し出された手を引っ張って身を起こす手伝いをする。
 ソファに横座りした環菜は、ふうと息をついて背もたれに背中を預けた。
「この子、まるでおなかのなかでサッカーでもしているみたい。きっとすごくおてんばな娘になるわよ」
「おてんばは大好きです!」
 思わずそう言ったあと、目を合わせて「ははっ」と照れたように笑う陽太がかわいく思えて。環菜はほほ笑むと小首を傾げて訊いた。
「名前、考えてくれた?」
「ええと……。蒼空学園の『蒼』の字と、娘だからきみから1文字とって、蒼菜(そうな)……っていうのはどうかと……。蒼学は、俺たちにとってたくさん思い出の詰まった場所で……それに、あなたの大切な場所でもあるから。
 あ、で、でも、環菜の意見も尊重したいので、聞かせてくれますか?」
 話しているうちになんだかものすごく照れくさくなってきて、陽太はあわてて話を環菜に振った。
「蒼菜。御神楽蒼菜ね」
 環菜は語感を確かめるように声に出してつぶやく。そして言った。
「いい名前ね。響きもきれい。でもこれだと、あなたの名前がどこにもないわ。私とあなた、2人の娘なのに」
「え? 俺……?」
「そうねぇ……陽太でしょ。陽太の娘だから陽子とか」
「それだと環菜の名前がどこにもないですよ」
 苦笑しながらの応酬に、環菜は「あら」と口元に手をあてた。
「いいのよ、娘は男親に似ると美人に育つっていうから。
 あとは……あなたの陽と私の菜で、陽菜(ひな)とかもいいかな」
「分かりました。もう一度考えてみます」
「あせらないでいいのよ。まだひと月あるんだから。もしかしたら、娘の顔を見たらインスピレーションでパッと頭にひらめくかもしれないわよ?」
 それを聞いた瞬間、陽太の両手に沐浴練習のときに抱いた3キロ弱の赤ちゃん人形の重みや感触がリアルによみがえってきた。しかもそれが本当に自分の娘で、向かい側にはそれを見守る環菜の姿まで浮かんできて――一瞬で赤面してしまったのだった。


「お茶を入れてきますから、ちょっと待っていてください」
「ありがとう」
 ローテーブルにティーカップを置くと、陽太は、先日東カナンへドラゴン・ウォッチング・ツアーに行った際に録画した映像を流した。旅行に来た高揚感からはしゃぐノーンやそれを諌めるエリシア、それに一緒にツアーに参加した面々の楽しげな姿が映っている。緑あふれる山々の景色を背景に、広げた食事を大口を開けてほおばるノーン。そしてビデオカメラを持つ陽太から、これはあとで環菜が見るのだと聞いたみんなが、とたんに環菜宛のメッセージをわれ先にと競いながら、そしてときには声を合わせて画面に向かって話すのを聞いて、環菜はくすくすと声をたてて笑った。
「楽しかったのね、みんな。あなたも?」
「ええ」
「そう。よかった」
「ですが、やはりあなたが一緒にいなくて、とても残念でした。
 ずっとあなたといたからかな。美しい景色を見ても、何をしても、あなたなら何を言うだろうと思い、あなたがここにいてくれたらと思わずにいられませんでした。だって、何年か経ってまたこうして映像を見ながら2人で思い出を語り合う日がきたとき、違う思い出を持っているって、悲しいじゃないですか。
 俺は、俺しか映っていない映像や写真は、やっぱり嫌です。あなたがとなりにいてくれないと……」
 そっと後ろから囲うように抱きしめて、陽太は環菜の肩に顔をうずめた。
「夜。あなたが横にいなくて、寂しかった。ベッドがとても広く感じられて」
 ぽつっと小さくつぶやく。
 耳元でささやかれた言葉と吐息に、環菜はほんのりと染まったほおを隠すように陽太の腕に押しつけた。
 夫に求められ、必要と思われるのは、いつだってうれしい。
「……私も……寂しかった……」
 横を向き、陽太の口元を見つめてささやく。
 どちらともなく口づけて。照れ隠しのように目を閉じたまま額を合わせた。あたたかな吐息をほおに感じる。
「今度は環菜も行きましょう。エリシアとノーンと、俺とあなた、それにこの子の5人で」
 そっと環菜の丸いおなかに手をあてる。
「ええ」
 その手を、環菜の両手が上からやさしく包んだ。