シャンバラ教導団へ

百合園女学院

校長室

薔薇の学舎へ

Buch der Lieder: 夢見る人

リアクション公開中!

Buch der Lieder: 夢見る人

リアクション

「フレイが本気で逃げに徹すると追いかけるのが大変なんだよな……」
 パートナーがそうぼやいた通り、段差を軽々と飛び越え、遮蔽物を見つければ壁を蹴り、ジブリールの潜在解放のお陰もあって尋常では無い機動力のよさをみせるフレンディスに抱かれ、ジゼルは彼女と劇場までやってきていた。
「ジゼル、こっちだ!」
 出入り口で待っていた陣は、ジゼルが来る事を見込んでそこを開けてくれていたらしい。フレンディスから下ろされ、ジゼルは彼に引っ張られるように、扉から駆けて行く。
 劇場は凍り付いたままで、椅子に座らされたハインリヒは歌菜に回復を施されていた。
「ハインツ――!」
 駆け寄って来たジゼルとフレンディスを視界の端に見つけ、ハインリヒは椅子の背に手をつきながらも立ち上がった。
「ジゼル、ツライッツは?」
「無事よ。今こっち向かってる」
「……そう」
 壁と椅子を伝うように、ハインリヒは階段を昇り始めた。
「ねえ、ツライッツなら大丈夫だから」
 肩を掴んで彼の無茶な行動を止めようとするジゼルに、ハインリヒはそうじゃないと首を振る。
「彼に、渡していたものがあるんだ。返して貰わないと……」
 言って、顔を上げた先には、肩で息をするベルクとジブリールの間に立って、硬直しているツライッツが居た。
「――お返しできません。条件は満たされていません……そうでしょう」
「ツライッツ、お願いだから――」
 懇願するハインリヒの声に、ツライッツの中で何かが爆発する。
「お返しできると思ってるんですか? これであなたが何をしようとしてるかわかっていて!」
 声を荒げたツライッツは指輪の嵌る左手をきつく握り締めると、その宝石を軽くかざして見せながら、笑うのに失敗したような奇妙な顔で、ハインツをじっと見つめる。
「ローゼマリーと共にこの中に閉じこもるつもりなんでしょう。そうなったら、意識が溶けて、自分が判らなくなってしまう可能性も、あなたはわかっていたんでしょう? 戻って来れないかもしれないって、判っているんでしょう? ふざけないでくださいよ。あなた、俺に、自殺の手伝いしろって……その口で、言うんですか。
 俺を、いらないと、そう、言うんですか……」
 声のトーンを落とし、淡々と語られる言葉は、だからこそその中に、抑えようとしているツライッツの激昂が滲んでいる。
「言ったはずです。俺は、俺が壊れるまで、指輪をお返しするつもりはありません……ッ!」

 瞬間劇場の中がしんと静まり返ったように、彼等には思えた。
 ツライッツが感情ごと言葉を吐き出した瞬間に、沼の主たる女王ミルタが――ローゼマリー・ディーツゲンが幕が落ちる前に凍りついた彼女のステージに現れたのだ。
「ハインツ…………」
 裏切り者のアルブレヒトでは無く、彼女を残して去ったアロイスでもなく、遂に自分の名を呼んでくれた姉の声に、ハインリヒの俯いていた顔が弾かれたように上がる。
「アクアマリーン、失くしちゃったの。
 私、アロイスに嫌われた。置いていかれた。
 ひとりぼっちは嫌。
 一緒に居てハインツ。私、一人は嫌よ……!」
 ローゼマリーは、ハインリヒを導くようにゆるりと手を伸ばす。
「返せ」
 呟くトーンで一度言って、相手の反応がないのに、ハインリヒは後ろを振り返り、顔を見て、手を差し出した。
「指環を返せ、ツライッツ」
「…………わかりました」
 一瞬、身体を硬直させはしたものの、ツライッツは自ら認める相手の命令には逆らえないように出来ている機晶姫だ。反論も反抗もなく、ツライッツは指輪を抜き取ってハインリヒの手へとそれを載せる。抜き取る際に指が震えたのも、どんな顔をしていたのかも、ツライッツ自身にはもう判っていないようで、機械的に指輪から指を離すと「俺は」とぽつりと口にした。
「こんな形で『いらない』と言われるくらいなら、壊された方がよほどマシでした」
 そんな声も、届いていないのだろう。
 一歩ずつ近付いてくるローゼマリーにまるで操られるように、ハインリヒの足が沼へと向かう。フランツィスカが弟を止めようと腕を伸ばすが、ハインリヒはそれに気付いていないのか動きを止めない。
「お願いです、彼を、ハインツさんを連れて行かないで! 彼には大切な人達が居るんです!」
 歌菜の悲鳴のような声での訴えが、ハインリヒに届かないように、ローゼマリーは言葉を重ねた。
「ハインツ、約束したよね?
 いつも一緒だって、僕だけは一緒に居るって言ってくれたでしょ?」
「もうやめろ!」
「弟を、俺達を置いていったのは……おまえだろうローゼマリー!」
 バルコニーに乗り出したカイとコンラートの声が響くが、ローゼマリーの腕はハインリヒに伸ばされたまま、他には何も見ていなかった。
「行こうハインツ。
 沼の底で、私と二人っきりで永遠に過ごすの。昔みたいに笑って歌って、きっと楽しいわ」
 ハインリヒを突き動かすのは同情や、姉に対する思慕だけではない。
「駄目!!」
 と、鋭い音が場内に居た契約者達の耳を貫く。
 魔力を持ち甘く誘う声に無意識に対抗したのは、セイレーンの――ジゼルの叫び声だった。
「行っちゃ駄目。やだ…………」
 皮肉な事にアロイスを恨むウィリの魔力を、アロイスが作り出したセイレーン持つ力が殺すと、ハインリヒの意識は急激に現実へと引き戻された。彼の足がそこでぴたりと止まる。
「ハインツは、だって……今は、私のお兄ちゃんなんでしょ? だから、やだ。いかないで…………」
 ジゼルが嗚咽を上げるのにハインリヒがみせた迷いの瞬間、舞花が口を開いた。
「ハインリヒさんには大切な人達が沢山いる筈です。どうかこの世界に踏み留まってください!」 
 彼女の裂くような声に、託は淡々とした声で続く。
「ねえ、ハインツさんの今一番大切なものはなんだい? それがはっきりしてるなら簡単だねぇ」
 ――ローゼマリーを一人にはしたくない。そんな事は出来ない。だってそれが、姉と弟、二人でした約束なのだ。
 けれども、今大切にしている人達は、此処に居る――。
 聞こえて来た言葉を頭の中で繰り返し、ハインリヒは後ろを振り返る。
 と、彼の目に烈火の如く怒るユピリアの赤い顔が目に入った。
 ユピリアはツライッツの肩を抱いて、怒号を吐き出した。
「あなたが魂を預ける相手は彼女じゃないでしょ!」
 その声に、肩に篭った力に背を押されるようにして、出来の悪い人形のように固まって諦めに俯いていたツライッツが、縋るように声を絞り出した。
「ハインツ――俺は、ほんとうに、いらないんですか?」
 そんな声を出すだけでも、ツライッツにとっては自身の機能に反する重労働だったのだが、じれったい! とばかりにユピリアの掌はどんっとツライッツの背中を今度こそ本当に、押した。たたらを踏むツライッツに「何してるの!」と更に声は続く。
「あなたが行かないで、どうするの!」
 その言葉に弾かれるように、ツライッツは一歩、二歩とふらふらと、けれど最後には駆け寄るようにしてハインリヒまでの距離を詰めた。どんな顔をすればいいのか、どんな声を出せばいいのか、全く判らないままなのに、その手だけが勝手に伸びて、ハインリヒの袖口に指先を引っ掛け、言葉は唇から突いて出た。
「…………傍に、いて欲しいって、言ってくれたじゃ……ないですか。今は違うんですか? 俺はもう、いらないんですか? あなたが本当に、欲しかったものが、手に入ったから……? 俺では、その代わりに、なれないから……?」
 そのことに自分自身で驚きながら、けれど一度走った足が止まらなかったように「それでも」と言葉もまた止まらなかった。
「俺は、傍に居たいです。あなたのそばに居……、たいで、す。誰でも、なくて、あなたの、ことが――、好き、だ……ら、……」
 口にするたび大きくなっていく自己矛盾に、機能同士が抵抗しあって声が切れがちになる。ツライッツの目がリミッター解除の赤い光を帯びていたが、構わずにハインリヒの袖口をぎゅうと握り締め、泣いているかのような音声で続けた。
「……だから……行くのなら、俺も、連れて行ってくれなきゃ、いやです……」
 どうしても伝えなければならないとツライッツが無理に吐き出した言葉は、ツライッツがこれを言う為に侵している危険と重大さを誰よりも認識しているハインリヒの中へことりと落ちる。
 と、そこでハインリヒは以前歌菜にかけられた言葉を思い出した。

“ハインツさんにもしもの事があったら、一番悲しんで傷付くのはツライッツさんなんですからね”

 実はそれが意味するところを、ハインリヒは未だに理解していなかった。しようとしなかった。だが、今伝えられた言葉で漸く彼女の警告を受け入れる事が出来たのだ。
 それが分かった途端に、ジゼルの涙の理由も、ユピリアや託が言った言葉の一つ一つが意味を持って頭の中を駆け巡る。
 すっと顔を上げ、改めてローゼマリーの姿を見ても、先程のように彼を引き上げる魔力は感じられなかった。
 今度こそ、自分自身の思いで、弟は姉と対峙していたのだ。
 そうして彼は口を開いた――。
「ごめん」
 ハインリヒが呟いた言葉に、ツライッツの体がびくっと強張った。

「ごめん、ローゼマリー。君とは一緒に行けない」

 パンッ――、と乾いた音が、ハインリヒの声に、間を置いて響いた。
 自分の身に起こった自体を理解していない様子のローゼマリーの瞳が、ハインリヒを捉える。
「――どうして?」
 悲しげな問いかけに、ハインリヒはツライッツの手を握り、姉へ向かって笑顔を向ける。その今にも泣き出してしまいそうな表情に、ツライッツは細い指で、震える掌をそっと握り返した。
「僕が皆を愛してるから。
 僕はまだ、この世界に居たいんだ」