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リアクション
●誕生
リンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)の枕元で、博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)はひたすら、逸る気持ちを抑えていた。
――僕はしっかりしなきゃ。彼女を安心させてあげなきゃ。
あれから二年、時間はまたたく間に過ぎた。
本日、リンネは予定通り出産日を迎えていた。
ここは病院の産室。リンネはすでに破水している。
立ち会いの博季が見守る中、いよいよの瞬間が迫っており、助産師らが忙しく作業を行っていた。
奥さんを力づけてあげて下さい、と言われ、博季はリンネのそばにいる。
でももどかしい。出産に際し、夫ができることはあまりにも少ない。
ぎゅっと手を握り締め、頭を撫でて、少しでもリラックスできるよう心がけるだけだった。
何度か目の波がやってきたようだ。それまで落ち着いていたリンネが、苦悶に顔を歪めた。
「痛っ……痛い!」
博季の手に力がこもった。
「大丈夫。大丈夫だよ。僕が付いてるから。ね、もう少し。もう少しだから」
言い聞かせる。リンネに言い聞かせるのと同時に、自分にも言い聞かせている。
「大丈夫だよ。力抜いて……。もうすぐ、もうすぐだよ」
そう声をかけているうち、リンネは痛みが引いたようで、
「収まったよ……」
と彼を見上げて力なく微笑んだ。
つまり、まだ赤ちゃんは出てこないということだ。気が気でない。
――見てて、凄く苦しいんだって、辛いんだっていうのがわかる。
だというのに、博季にはそばについていることしかできないのだ。今さらかもしれないが、無力感がこみ上げてくる。
だけど博季はうちひしがれたりしない。
一緒に頑張るって約束したんだ。僕も頑張る――その決意に揺るぎはない。
このとき、
「また……!」
リンネが呻き声を上げた。必死でこらえていたが耐えらなくなり、絞り出すような声で痛みを訴える。
「大丈夫だよ。もうすぐ。大丈夫。ね?」
握り返すリンネの力は驚くほどだ。爪が立ち、博季の手は傷ついて血がにじんだ。
でもそのことを、むしろ博季は嬉しく思う。
ほんの少し、一万分の一にも満たないだろうが、彼女の痛みがわかったような気がしたのだ。
にっこりと笑顔を見せた。リンネが少しでも安心できるように。
ついに、
「いよいよですね」
年配の助産師がうなずいた。産科医の女性も早足でリンネの元に来る。
リンネが絶叫した。額は汗びっしょりだ。博季はその汗をガーゼで拭いながら、ひたすら「頑張って!」と声を上げた。
息が苦しい。目眩がしそうだ。血の臭いがする。
でも博季は意志を保ち、とうとう聞いたのだ。
産声を。
「わあ、産まれた、産まれたよ、リンネさん!」
「うん……うんっ!」
リンネは涙ぐんでいた。
ヘソの緒が切られると、助産師がふたりに、小さな女の赤ちゃんを見せてくれる。
長い間水の中にいたせいか、赤ちゃんはなんだかふやけた感じだ。
でも丸い目を開いて、ついにやってきたこの世界をよく見ようとしているようである。
小さな小さな手を、開いて閉じてしている。足もばたばたとしている。
「僕らの赤ちゃんだよ!! 可愛いなぁ……。ね、見て。可愛い……本当に、宝物だよね……」
これほど可愛らしいものが他にあるだろうか。
「リンネさん、頑張ってくれてありがう。僕、色々勉強したけど、何もできなかった……。本当にありがとう。僕の幸せは、いつもリンネさんのおかげですね……」
「そんなことないよ。ふたりいたからこその、幸せだよ……」
このとき助産師が、
「さあ、パパはこちらへ」
と、隣室を案内した。これから赤ちゃんの体重と身長を調べ、体を拭くのである。
耳慣れぬ呼び名、でも嬉しいひびきに、博季は思わず笑ってしまった。
「ふふ、僕がパパ。そして、この美人さんが……」
とリンネを指して、彼は娘に告げる。
「君のために一生懸命頑張ってくれたこの美人さんが、ママですよ」
体重は2500グラム、けっして大きな赤ちゃんではなかった。しかし健康状態はすこぶる良好だ。
眠る前、もう一度だけリンネに対面したとき、赤ちゃんは意図してか偶然か、ちょんとリンネの手を握った。そうして、新生児室に去って行った。
こうして、博季とリンネは分娩室にふたりきりとなった。
どちらからともなく、おめでとう、を交換する。良かったね、と微笑みあった。
「リンネさん。少し、眠ります?」
「……そうしようかな……疲れたよ」
なんだか切なげに、リンネは自分の腹部に手を当てた。
「お腹……ぺったんこに戻っちゃった。明日また赤ちゃんに会えるってわかってるけど……ちょっと寂しいな」
リンネは博季を見上げる。
「眠るまで、一緒にいてくれる?」
「大丈夫」
と、彼女の額に口づけて博季は言うのだった。
「僕はずっと一緒ですよ。今日も、明日も、明後日も……ずっと、ずっと」
そうして彼は、リンネが眠るまでずっと、いや、眠ってからも囁き続けるのだった。
愛してるよ、と。
大好きです、と。