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第一章 あなたを丸洗い隊

 ヴラドを追った先で辿り着いた屋敷を見上げ、エメは絶句していた。
 錆びた門を抜けた先、庭らしき空間は周囲の森と同様に雑草が生い茂っている。その先に立つ大きな屋敷はと言えば見るも無残な姿で、薄汚れた建物のあちこちに傷や蜘蛛の巣が張っているのが見えた。無造作に転がる石の塊は、どうやら石像であったようだ。元は優雅であったのだろうその屋敷は、今やお化け屋敷と言われても遜色ない姿をしていた。
「……。有り得ません」
 怒りを滲ませて一言呟き、傍らで同じく言葉を失っている蒼を見遣りつつ、エメは徐に携帯電話を取り出した。手早く電話帳を呼び出し、瀬島 壮太(せじま・そうた)の名前をダイヤルする。
「瀬島君ですか? ええ、私です。急で申し訳ないのですが、少々手伝って頂きたいことがありまして。ええ、場所は――」
 電話口へ話すエメの背後から、不意にがさりと物音が立った。茂る葉を掻き分け姿を現した呼雪は、目の前に広がる惨状に暫し沈黙する。その隣でふるふると体を揺らして纏わり付く小枝や葉を払ったファルは、背伸びして呼雪に付いた葉っぱを払い落しつつ呟いた。
「すごいお屋敷だね〜……」
「すごく酷いお屋敷、ですね」
 その更に後ろからひょっこりと顔を出したアランが、気を取り直すように首を振りつつ頷く。口元に片手を当てたセスもまた言葉も無く首肯し、モップを固く握り締めた。
「これは流石に、掃除の必要がありそうですねぇ」
 少しずれた位置に茂る葉を避けて現れた弥十郎が同意を示し、共に姿を現した響もまた肩を落として頷く。
「では、折角です。皆さんでこの屋敷、丸洗いしてしまいましょうか」
 その間に通話を終えたエメが振り向き、眩いばかりに白を纏った彼の言葉に一同が重々しく頷く。誰もが思うことは同じであったらしい、丸くなって役割分担を話し合った頃、ようやく呼び出された壮太とそのパートナーであるミミ・マリー(みみ・まりー)が到着した。
「こりゃひでえな……」
 呆然と屋敷を見上げる壮太へ手を振って呼び掛け、エメはこの屋敷を掃除しようとしている事、そしてそれを手伝ってほしい旨を彼に伝えた。呆れた様子で頷く壮太の傍ら、ミミはと言えば心配そうに屋敷の外観を眺めていた。
「ご飯、食べられるのかなあ……」
 ぽつりと不安げに呟かれたエメの言葉に、笑顔の弥十郎が手荷物を軽く掲げて見せる。
「大丈夫、ワタシたちで支度するよ」
 ね、と彼の瞳が向けられた先、響は渋々と頷いた。それを見たミミは安心したように小さく頷く。
「では、屋敷の主に許可を頂きに参りましょうか」
 エメのその一言で、庭とも言えない庭に立ち竦んでいた一同は、屋敷の扉へと向かって行った。


「掃除?」
 埃まみれの玄関で怪訝と眉を顰め、ヴラドは問い返す。それは彼にとってはあまり聞き覚えの無い言葉だった。
「そう、お掃除! だってこのままじゃ、お屋敷もお庭もかわいそうだよ」
 元気よく言い切ったファルを腕組みしたままに一瞥し、ヴラドは困惑を瞳に浮かべる。どうしたものかと悩む彼が言葉を見付けだすよりも早く、呼雪が一歩を踏み出した。身構えるヴラドへ、呼雪はじっと鋭い視線を注ぐ。そして徐に彼の手を取ると、目を見開き僅かに牙を剥くヴラドへ低く語り掛けた。
「……爪が伸び過ぎているな」
「…………は?」
 予想外の一言にぽかんと口を開けたヴラドの様子を気にも留めず、呼雪は一人考え込む。
「とにかく、まずは風呂に入れ。話はそれから……ああ、いや……」
 屋敷の惨状を改めて思い返し、呼雪は言葉を切る。この様子では、浴室も悲惨なありさまであることは確実だろう。
「風呂掃除だ」
 悩む呼雪の様子を呆気に取られて見守っていたヴラドは、再び耳に入った掃除の単語にはっと我に返った。しかし彼が口を開くよりも早く、まあまあと宥めるように壮太が両手を上下させる。
「客を招くために掃除をするのも、お前が知りたがってる『美しさ』ってやつだぜ?」
「お願いします、お屋敷が綺麗になるようにお手伝いさせてください」
 更に隣で頭を下げるミミの姿に、ヴラドは暫し唸る。
「しかし、女性を屋敷に上げる趣味は……」
 偏った嗜好を述べるヴラドに、視線を向けられたミミは困ったように首を傾げた。
「僕は男だよ」
 ヴラドが驚愕を露にした隙を狙って、エメは畳み掛けるように口を開く。
「パートナーが女性の美しい男性がいらっしゃるかもしれませんよ?」
 暫し考え込むように腕組みしたヴラドは、後に渋々と頷いて一同を招き入れた。踏み締める度に廊下は軋み、昔は美しかったのであろう調度品の数々は埃に呑まれて光彩を失っている。
「薔薇の学舎は隅々まで清掃が行き届き、埃一つ見当たらないと言っても過言ではありません」
 掃除用具が置かれているらしい部屋へと向かう途中、エメはおもむろに切り出した。苦々しげに眉を寄せて黙り込むヴラドへ、いかに薔薇の学舎が美しいか、そして清掃の必要性を語り続ける。
「……ですから、清潔を保たなくては、薔薇の学舎の生徒たちには相手にされませんよ」
 やや厳しく言葉を締めたエメへ、ヴラドはぐったりと頷いた。無造作に掃除用具の転がる一室の扉を開き、あとは好きにして下さい、と言い残して背を向ける。
「浴室へ案内してくれ」
 当然の如くその後ろに続いた呼雪とファルにびくりと肩を跳ねさせ、ヴラドは苦渋の表情を浮かべる。
「……案内するだけで宜しいのですか?」
「主催者なんですから、協力してもらいましょう」
 持ち込んだ箒を片手にさらりとアランが提案し、一同が頷くと、ヴラドはがっくりと肩を落とした。


「どこもひでえ有様だなぁ」
 ぎしぎしと軋む脚立に乗って天井の煤を払いながら、壮太は呟いた。脚立の脚を支えるミミもこくこくと頷き、あちこちに蜘蛛の巣の張った天井を見上げている。
 その近くでは、アランが箒で埃の塊を掃いていた。その後ろから、セスがモップで床を磨いていく。彼らの通る前と通った後とでは、目に見えて床の色が変わってしまっていた。
 庭で芝刈り機を走らせるエメは、呆然と屋敷を見上げる清泉 北都(いずみ・ほくと)クナイ・アヤシ(くない・あやし)の姿を見付けた。
「これは……執事として、見過ごせない状態だねぇ」
 呆れかえった様子で呟く北都に、並び立つクナイも無言のままに頷く。
「屋敷の掃除に手を貸して頂けませんか?」
「そうだねぇ、手分けしてやろうか」
 北都の発言を聞き留めたエメが呼び掛け、頷いた北都を加えて更に大掃除は続く。

 ぶいいん、ぶいいん。
 ぼうぼうと思うがままに伸びた雑草の海へ、縦横無尽に芝刈り機を走らせる。弾け飛ぶ草を北都とクナイが集め、蒼は自由気ままに立ち並ぶ木々の剪定をしていた。暫く順調に作業は続き、目に痛い程の純白姿で歩むエメの視界に、不意に影が落ちる。
「……どうかなさいましたか?」
 視界を上げると、眼前に立ち塞がる北都の姿があった。その傍らでは北都に袖の端を小さく掴まれたクナイが、メイスを振り被っている。芝刈り機を握り締めたまま、その緊迫した雰囲気にエメはごくりと喉を鳴らした。
 彼らは掃除を共にする仲間であった筈だ。出会ったばかりとはいえ、武器を振り上げるような関係に発展した覚えは無い。
「失礼いたします」
 困惑するエメの視線の先、ごく丁寧に言い放ったクナイが、躊躇いも無くメイスを振り抜く。回避するだけの暇は無い。反射的に身構えつつも決して瞼は閉じまいと見開いたエメの視界を、小さな蜘蛛が飛んでいった。
「さ、終わりましたよ」
 満足げにクナイが告げた時、北都は既に草を集める作業へ戻っていた。軽く肩を竦め、エメへ一礼を施して、クナイもまた同様の作業に戻る。
「…………」
 単純に虫を払うだけの目的であったことを知り、エメは再び芝刈り機を走らせ始めた。
 ぶいいん、ぶいいん。

 一人で暮らしているにしては広すぎる浴室の、これまた惨状に、呼雪は再びの沈黙を強いられた。森の中の小さな湖で体くらいは洗っていると胸を張るヴラドの脚を、ぺしりとファルの尻尾が叩く。
「早く掃除しちゃおうよ〜」
 新品のままに溜め込まれていたスポンジを手に、呼雪とファルは浴槽を磨き始めた。その様子をぽかんと見守るヴラドもまた見よう見まねでスポンジを手にし、教えられた洗剤を染み込ませる。
 ももも、と握り込んで立つ泡に興味をそそられたヴラドは、ひたすらにスポンジを擦り始めた。もうもうと泡を量産していくその足元が泡に支配された頃、異変に気付いたファルが振り返り声を上げる。
「な、何やってるの!」
「……先に爪を切っておくべきだったか」
 そんなヴラドの手元を見遣った呼雪は、鋭い爪に傷つけられたスポンジを目に留め呟いた。は、とヴラドは息を呑む。
「……伸びた爪は、美しくありませんか」
 恐る恐る尋ねるヴラドに、呼雪は重々しく頷いて見せた。
「そうじゃなくて、お掃除!」
 同じく泡まみれのスポンジを振り上げ、ファルは吼えるように叫んだ。


「そろそろお夜食にしないかい」
 元の輝きを取り戻したテーブルへと人数分の椀を運び、にこにこと笑顔で弥十郎は声を掛けた。主要な部分の清掃は終了の目処が立ち始めたものの、細かい所にまではまだまだ至らない。徹夜の雰囲気を醸し出した大掃除に備え、台所の掃除を終えた弥十郎と響は全員分の関西風うどんを作っていたのだった。
「わーい、ご飯だ!」
 ミミが目を輝かせて飛び付き、一歩遅れて一同がテーブルに着く。箸の扱いに苦戦しながらも麺の一本を口にしたヴラドは、何も言わないままに手の動きを加速させる。夜通し続くであろう作業について、そしてまた取り留めの無い歓談を挟み、一同は和気あいあいと食事を続けた。
「風呂の準備が出来ている」
 呼雪の言葉に、既に掃除の最中頭から丸ごと洗われたヴラドは彼からさっと視線を逸らした。浴室を洗う最中びしょ濡れになったついでにと一緒に浴槽に浸かっている間、落ち着かない様子でヴラドはちらちらと呼雪の繊細な体つきを窺っていたのだ。しかしその視線に呼雪が気付く様子は無く、それどころか間近で爪を切られてしまったヴラドは、何となくそわそわとした気分に陥っていた。