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第5章 言葉の呪縛 2

「へへ……やっぱり来やがったか」
 大木に阻まれて断絶された空間で、飛び降りてきたガウルを見て羽皇 冴王(うおう・さおう)がにたつきながら言った。トラッパーを利用して大木を崩していた張本人である彼は、その腕に年端もいかない少女を抱えている。
 彼らの後ろでは、六黒と冷ややかな目をしているヘキサデ・ゴルディウス(へきさで・ごるでぃうす)が待ち構えていた。
「ダンナ、上手くいったぜ」
 ガウルと同じ狼の耳と尻尾を生やしている獣人は、愉快な顔で六黒のもとに近寄った。そして腕に抱えていた少女を離し、それに眉をひそめるガウルを小悪党さながらに呵々と笑う。
「以前のガオルヴならこんな子供見捨てたはずだが、今なら効くだろうよ。にわか正義の味方さんにはよー」
 ガウルの掌が怒りに震えたようにぐっと握られた。だが、その前に彼の怒りの矛先を遮ったのは、六黒の巨腕だった。
「な、なにすんだよ、ダンナっ」
「女を捕えてもて遊ぶな。……かつて、同じことをした殺人鬼がいた」
「それがどうしたってんだよ」
「……そいつの終わりは処刑だ。おぬしも同じように死にたくはなかろう?」
 声はゆっくりと穏やかだが、腕を掴む巨腕の力と見る者を恐怖に奮わせる殺気が、冴王の身の毛をよだたせた。
「ちっ……わかったぜ」
 不満げに冴王は少女を放したが、少女――九段 沙酉(くだん・さとり)はと言えば逃げることもせずに六黒たちと同じように佇んだ。なるほど、トラッパーだけではあの大木を崩すことはできまい。
「貴様とこうして相見えることを楽しみにしていたぞ」
「…………」
「だが……些か残念と言わざるを得まい。魔獣ガオルヴと誉れ高かったときの姿はどこに消えたか? 今のおぬしはただの獣人にしか見えぬ」
「……私はガオルヴではない、ガウルだ。貴様の言うとおり、ただの獣人、そして、ただの行き倒れだ」
 睨み据えるお互いの視線がぶつかり合う。
「はっ……行き倒れ、そして少女のために花を摘みにやって来るか」
 六黒はからかうように哄笑した。
 だが、哄笑も僅かな間だけだ。歪んだ笑みは崩さないものの、彼は凝縮した邪気を高めて戦闘体勢をとった。赤黒く紅に染まる双眸がガウルを捉え、闇の瘴気が炎のように身体全体から溢れ出ていた。拳が軋んだ音を立てて握られる。そして――
「ならば……その行き倒れがどこまでもつか。試させてもらおうか!」
「…………!」
 ――悪鬼が、弾丸のようにガウルへと突貫した。
 しかし、それに怯むだけのガウルではない。退ることは隙を生むことに繋がる。彼はあえて悪鬼の肩口を狙った。前進したガウルの拳が直線を走り、六黒の肩口を叩いた――だが、恐るべきことは敵が避けるということを捨てていることだった。
「……っ!」
 拳ごと突き崩されたガウルを見計らって、奈落の鉄鎖が彼の動きを鈍らせた。刹那、間合いが一気に詰められる。
「!」
 瞬間に、血が見えた。幻か、幻覚か。それは過去の記憶に他ならない。鮮明に蘇ったそれは、人を蹂躙する魔獣の姿だった。邪悪な魔獣が自分と重なったとき、歪んだ殺気がガウルの心臓を鼓動させた。
 反応している。忘れえぬ過去の力が、闇の瘴気が殺気が連動するかのように脈打っていた。まるで闇が襲ってくるかのような世界に引きずり込まれていくのを、ガウルは必死で食い止める。額に浮かぶ汗と荒い呼吸が、彼の苦しみを如実に現していた。
「……抗うことはない。それがおぬしの中に眠る真実の力だ。いや、眠らされた、というべきか。くだらない親切や愛情を覚え、正義と献身に眠らされた魔獣の力。おぬしの望むべき全てがそこにあるのだ」
「……くだらなくなど、ない」
 脈打つ瘴気を必死で押さえつけながら、ガウルはかすれたような声をしぼり出した。
「人の愛情も、正義も、信念も、愛情も、友情さえも……くだらないものなど、ない」
「ふん……。それで何を成し得ようというのだ。愛情や正義や信念が、目の前の敵を滅する力でも持っていると言うのか! 力を捨てて、人の感情に溺れるのがおぬしの望みかっ! 力なき思いなどに、何も成し遂げられることなどない!」
「……力も、得る」
 ガウルは六黒の吠えるような声を遮り、虚ろになりながらも決然とした瞳を見せた。
「……なに?」
「涙が……力になるときが……ある。思いが……誰かを、救うときも、ある……。私はそれを見た。この目でそれを見たのだ。だから私は……そう、なりたいと……」
「なんと醜悪。貴様はあれも欲しい、これも欲しいと駄々をこねる餓鬼ではないか。この世は何を捨て、何を得るか、だ。そしてこの世で力は心理、力無き者は害悪だ!」
 そう、それが心理。それが、絶対的な真実。ガウルはかつてそう信じていた。瘴気の力が、彼を徐々に蝕んでゆく。
「力が無ければ、勝ち続けねば、今まで踏みにじってきたものにどう顔を向けるのだ。貴様が歩んだ血の道は今さら意趣を変えたとて、消せるものではない!」
 悪鬼のような形相で、六黒が叫んでいた。それはどこか、自分にさえも告げるような言葉だ。ガウルの脳裏の中で、過去が、魔獣ガオルヴによって死んでいった者たちの姿が過ぎる。消せない罪がある。消せない傷がある。
「……それを人が赦すかな?」
 六黒の囁くような声が聞こえた。途端――ドクンと叩くような衝動が襲った。これは、かつて味わったことのある感覚だった。力を追い求めた末に得た、何者も寄せ付けない烈気。邪悪に染まった闇の瘴気が、内側から溢れ出そうになる。
 ――そのとき。
「また負けるのか?」
 声と、そして銃声が聞こえた。心の芯にまで伝わってくるような、澄んだ明瞭な声だった。
「ぐぁ……!」
 腕を押さえる六黒の姿がある。銃声の正体は、恐らく彼を穿ったそれだろう。同時に、過去の記憶はガウルの視界から失われる。
 見上げたその先に……そいつはいた。
「……レン・オズワルド」
「行いの意味を与えるのは自分自身だ。……過去の行いを恥じることもあるだろう」
 木の上に立っていたレンは、ガウルの前に降り立った。六黒を見逃さないように視線は正面を向いているが、声はガウルへと投げかけられる。
「……だが、過去の行いを恥じる今の自分を、どうか恥じないで欲しい。お前はもう……一人ではないのだから」
 ガウルの後ろから、たくさんの足音が聞こえた。はっとなって振り返えると、たくさんの仲間たちが彼を見守るように見つめている。
 すると、知らず知らずのうちに自我を失いかけていた彼に、菜織の拳骨が飛んだ。本来なら避けられるものを避けられずに直撃したのは、菜織のパートナーである有栖川 美幸(ありすがわ・みゆき)のサイコキネシスのせいだった。
「がっ……ぐ……」」
 意識が一瞬飛んだが、ガウルはいつの間にか自分を支配していた瘴気が消えていることに気づいた。
「男を御するのは女の役目なのだ。プリッツ君なら、しがみ付いてもこうすると考えたのでな」
 プリッツ……そう、彼女のために、いま自分はここにいる。そして、自分を信じてくれる仲間がここにいる。だからもう、道を見失いたくはなかった。
 ガウルが振り返ると、六黒が見下すようにして彼を見ていた。まるで自分を見ているような気分だ。ガウルは、決別するように言った。
「涙が力になるときもある。そして、思いが力になるときもある」
「……同じ戯言を」
「だから……いつか力も、思いになると信じたい。私は……信じてみせる」
 ガウルはそれ以上何も言わなかった。言葉は一つで良い。それだけで、人を縛り、人を変える力を持っている。かつて言葉が呪縛を持って己を蝕んだように、今は――
「ふん……やはり貴様は甘ちゃんだ。貴様にはあの仲間どもがお似合いよ。せいぜい群れて足掻いて俺を愉しませろ。そして俺を膝付かせて己の正しさを証明してみせろ!」
 六黒の声を皮切りに、ガウルと彼は再び戦った。それに邪魔をする者は、いない。そのことに不思議そうな顔をしている美幸だったが、菜織はこう言った。
「男子が『成す』と決めたのだ。見届けるも、女の役目というものだよ」
 菜織以外に、誰か気づいていたのだろうか。最後の言葉を紡いだ六黒の顔は、不思議と、どこか嬉しそうであった。