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あなたと私で天の河

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あなたと私で天の河
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リアクション


●間奏曲・3

 舞台変わって、鷹村 真一郎(たかむら・しんいちろう)の自宅。
「まだかな……まだかな……」
 不慣れで苦心惨憺したが一人で浴衣に着替え終わった。今日は七夕の祭、馬 岱(ば・たい)が楽しみにしていた特別な夜なのだ。
 準備に手間取ったもののなんとか出発には間に合いそうだ。
 あとはお声がかかるまで自室で待つだけである。
 それにしても、なんだか随分待たされている気がする。
 さすがに不安になって、馬岱は部屋から出てみた。
「あの……もうそろそろ出発……?」
 精神的ダメージは、後頭部を流星鎚で殴られたような大きな衝撃。
 ここで馬岱は視界が真っ暗になった。
「あれ? まだ居たの? もう真一郎たちは出かけたよ」
 留守番役の同居人たち(馬岱は彼女らを『姉者』と呼んでいる)が、テレビを見ながら振り返って言ったのである。
「え……!」
 そう、はっきりいって馬岱は存在を忘れられたのだ。
(「楽しみにしてたのに楽しみにしてたのにッ……!」)
 なんたること。馬岱の目に涙がにじんだ。置いてけぼり。なんという哀しみ。
 この哀しみをどうすればいい?
(「泣いちゃいけない、まだ泣く所じゃぁない……」)
 歯を食いしばって彼女は冷蔵庫を目指した。
 冷蔵庫に取っておいた姜維姉さん特製のプリンを食べよう。
 ぷるるん触感と甘いカラメルで癒されよう。プリンさえあれば、耐えられる。
 ところが、冷蔵庫に『ばたい』と書いて置いてあったプリンは消失していた。
 居間にダッシュで戻った馬岱は、姉の一人がテレビを見ながら、プリン最後の一口を口に運ぶところを目撃したのである。
「あんた祭に行くから要らないのかと思って」
 指摘された彼女は、さして悪びれもせず言ったのだった。
「ひどい……あまりにもひどいぃーーっ!」
 馬岱は飛び出した。玄関から外へ。
 もうこんな辛い日常は沢山、沢山だ。
 暗い道をひた走る。
(「……負けない…負けないから!」)
 こうなったら一人で会場まで行ってやる。
 会場でプリンを食べてやる。
 ゼリーも食べてやる。
 アイスも、
 ソフトクリームも、
 あと、なんだろう。
 ともかく食べてやる。
 絶対に、食べてやる。
 ところがまもなく道がわからなくなり、馬岱は街灯の下で途方に暮れた。
 誰か、いる。
 点滅している街灯の下、小さな椅子に腰掛けている姿があった。
 眼前にテーブルを置き、やや背を丸めてテーブル上のものを見ている。
 華奢な体つきだ。スーツ姿だが、アップにした髪型と、ゆるやかなボディラインから女性と思われた。
 馬岱には無関係な人物に思えるのだが、なぜか馬岱は、彼女の背中から目を離すことができない。
(「あの人、誰なんだろう」)
 無数の触手を持つ軟体動物に四肢を絡め取られたかのように、馬岱は意識を吸い寄せられ、ふらふらと彼女に近づいた。
 前方に回り込むと、彼女が前にしているのはチェス盤だとわかった。黒と白の駒が、幾何学模様を描くように配置されている。
 美女、ではある。
 しかし、ぞっとするような、氷を削って作ったような、冷たい美貌であった。
 限りなく赤に近い栗毛を後頭部で括っているが、解けばかなりの長さになるだろう。
 細いフレームの眼鏡をかけ、長い睫毛を伏せて盤に見入っている。
 血のような唇の赤が、脳に突き刺さるように印象的だった。
「1858年12月21日」
 突然、毅然としたテノールの声がした。
 馬岱は足がすくんで動けなくなった。「動くな」と命じられたわけでもないのに。
「その日、伝説のチェス王者ポール・モーフィが、鮮やかに逆転勝利したときの棋譜だよ」
 女性は、顔を上げた。
 怒っているわけではない――その事実がなぜか、馬岱を深く安堵させた――むしろ彼女は、ごく薄く微笑んでいた。
 眼鏡の奥の眼は翠色、猫の目のように縦長の瞳孔、虹彩の中に何か、黒いものが動いている。
 高級ブランドと思わしき細身のスーツ上下を着ており、首には蝶ネクタイを締めていた。
 なお、そのスーツは濃い紫色である。スーツの胸ポケットから、白いハンカチがのぞいていた。
 彼女は言った。
「チェスのルールは知っているね、馬岱くん。いま、黒が若干不利だ。きみの手番は黒、さあ次の一手は?」
 馬岱は、自分の名前が知られていることに驚かなかった。確かにチェスのルールなら、いくらか囓ってはいたものの、なぜそのことを初対面の彼女が知っているのかという疑問も感じなかった。
 理由はわからないのだが、彼女なら知っていて当然という気がした。
 魅入られたように近づき、数十秒考えると、馬岱はナイトの駒を一手指した。
 今はただ、この人の言う通りにしたかった。
「ほう」
 赤い唇が半月型になった。その人が笑ったのだ。
「面白い。そういう手はなかなか出てこないよ。たちまち逆転だ」
 馬岱は安堵の溜息を漏らした。その喜びもつかの間、
「しかしこのままだと七手先には再逆転され、十一手目でチェックメイトで敗れることになるね」
 こんな風に、と彼女は言い、盤を指した。
 いつの間にか駒が動いて、詰み(チェックメイト)の棋面ができあがっていた。
 馬岱の喉はカラカラに渇いていた。声がうまく出てこない。
「あ、あなたは……?」それでも何とか、これだけは言った。
「シータ」
 聞いたことのない名前であった。しかし、なぜか知っているような響きでもあった。
 シータは盤上の駒に一切手を触れない。触れないにもかかわらず、駒がカタカタと、意志を有しているかのように動き出した。
 盤に一瞬、Mの文字を横に倒したような駒の並びが出たかと思いきや、次の瞬間には全ての駒が蛙に変わっていた。本物の蛙ではなく、不気味な印象のある指人形のような蛙に。
「ひっ……!」
 驚いた馬岱が顔を上げたとき、クランジΘ(シータ)の姿は消えていた。
「どこへ……!?」
 見回して気づいた。
 チェス盤もどこかに消失していた。
 すべてが嘘だったのだろうか。夢だったのだろうか。
 背筋が寒くなる。
 それでも馬岱は、またあの人に逢いたい、と思ったのだった。