リアクション
第1章 堕天使コカビエルの最期
「……ふっ、矮小な人々よ、私をそんなに長い間見つめると……目がつぶれるぞ」
そんなことを口の中で呟きながら。
自称堕天使コカビエルこと守護天使の青年アル何たらは、自身からまるで輝くように放射される邪悪な威光により人々の注目と畏怖を心地良く受け止めていた。
いや、本当はフツーの人の目には単に光翼が珍しいから注目されており、その自己陶酔の表情とモデルウォークっぽい歩きに引いているだけなのだが、罹患者の脳内で都合よく変換されているのである。
人々の欲望を具現化したような店の間を歩きながら、コカビエルはその中で一人、自分に近づいてくる青年に気が付いた。
「ほう、お前は……以前会ったのはつい30年と1ヶ月と26日前であったか」
「コカビエル、よく覚えてるたな。そうだ、俺こそが堕天使の長シェムハザ(小鳥遊 美羽(たかなし・みわ))、あの時の誓いをまさか忘れてはいないだろうな?」
その青年の顔立ちは整っていたが、人々はあまり近づかないだろう。鼻に付くような高慢さが表情にも言葉の端々にもあふれていた。
「ああ、ああ。そうだったな。グリゴリの長にして反乱の主導者、魔術師の育ての親のシェムハザよ。指導者コカビエルと共に今こそ行こう」
堕天使というからには彼らは罪を犯していることになるが、彼らの罪は人間の娘に惚れ、人々に神々の技術・知恵を教え、それによって争いをもたらしたことだろう。しかも彼らの子どもというのが身長が1300メートルを超えるという巨人だった。それはともかく、彼らの間の誓いとは――、
「じゃあ、早速人間のかわいい女の子をナンパしようぜ」
シェムハザは薄笑いを浮かべると、自信たっぷりに、ウィンドウショッピングを楽しむ二人組の女性に声をかけた。
「やあ、そこのお嬢さん方。俺たちと遊びに行こうよ」
彼の瞳が妖しい輝きを帯びる。それはシェムハザの誘惑の瞳――見詰めた相手を魅了する瞳。相手が同じ黒史病患者ならば、四肢がとろけ、うっとりとしてしまうだろう。しかし……。
断られることなど想像もせずに肩に手を回そうとする青年に、
「えっ、何こいつ、ウザッ!」
と女性は振り払った。しかしシェムハザも負けてはいない。彼の中ではそれは照れ隠しであり、魅力的にも見えたのである。
「恥ずかしがることはない、今まで俺たちは人間の娘たちを“見張って”いたのだから。気付かなかっただけだ、さあ一緒に――」
今度は手を握ろうとする青年。コカビエルも共に掴もうとし――その背中をたまたま通りがかった一人の女性が見とがめた。
「あれは私の宿敵、アル何とか、、、じゃなくアルカディア!」
笠置 生駒(かさぎ・いこま)は青年二人が嫌がる女性たちを強引にナンパしている姿に涙を禁じ得なかった。
(堕天使、いや駄天使になってまでそんなことをするんですか……情けないですね)
きょろきょろと周りを見回すと、近くの店に入って手頃なものを見付けて、お支払いを済ませる。
(厨2病ではなく黒史病のかっての友人今は宿敵(のはず)の守護天使アルカディア、私がなんとして止めてみせる、この光り輝く聖なるメイスで!)
生駒は病気に罹っていないが、それはそれとして、付き合ってあげる心算だったのだろう。
そこら辺から持ってきた一升瓶(中身入り)が彼女の手に握りしめられる。振り上げられたそれは、太陽の光を浴びて光り輝いた。
「今その苦しみから解放してあげるね!」
守護天使の背後に回って、聖なるメイスという名の一升瓶を思いっきり後頭部に叩きつける。
どがーん!
後頭部をかち割って病気から解放する、確かに解放はされるけど、一緒に人生から解放されそうなんですけれど……。
見事に一升瓶は後頭部にヒットし、堕天使コカビエルはカエルのような格好で、見事にばたん、と突っ伏した。
「コカビエルを一撃で倒すとは……何者だ!?」
振り返ったシェムハザに問われるも、生駒は頭を思わせぶりに振って立ち去った。
目的は達成したのである。あとはこの一升瓶の中身をどうするか、が当面の課題であった……。
*
「新緑の眩しい季節――木漏れ日が美しく、爽やかな風が吹き抜けるこんな休日は、外出したくなりますね」
百合園生徒の一団から少し遅れてやって来た
村上 琴理(むらかみ・ことり)は少し腕を開くと、両手に日差しを受けた。ちなみにこの時期から強くなる紫外線対策はばっちりだ。
「日本の初夏に相応しい、とっても清々しい朝……」
にこやかな笑顔でくるりと振り向き、それから、不満げな目で“上司”を見た。
「……だったはずでしたのにね。会長」
「それどころじゃありませんわ! それに私のせいではありません!」
アナスタシア・ヤグディン(あなすたしあ・やぐでぃん)は、ほとんど叫ぶように言った。
堕天使コカビエルと名乗る守護天使の青年――名前は忘れたから本当にコカビエルなのかも知れないが――少なくともそのパラミタ産の光翼で堕天使とか名乗るのはおかしい、と彼女は思った。
が、おかしいのはそれ以上に彼の態度だった。
彼は間違いなく黒死病に罹患したのである。そのまま一般人と妄想ごっこをすれば、間違いなく怪我人が出る。
けれど追いかけて他の患者がこの場所を確保した場合、演奏会ができないどころか、百合園の生徒たちに何かないとも限らない。会長らしく逡巡していた時に琴理がやって来た、というわけだった。
「どうしますか?」
「一般人よりも先に彼を止めなくては……最悪でも、百合園の最後の演奏が始まるまでにこの“妄想”に結末を与えるために、私は天使側の人間になって追いかけたいのです。……けれど、どうすれば……」
「これをどうぞ」
戸惑うアナスタシアに、
フェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)は一冊の文庫を手渡す。
「地球の宗教や、天使や堕天使の紹介の本です。お役に立つと思います。でも……くれぐれも深入りはしないでくださいね、ご自身も罹患されないように」
「ありがとうございますわ。……それで、お二人は? ここをお任せして宜しいのかしら?」
琴理はフェルナンと顔を見合わせると、口を開く。
「実は、私の実家の家族が演奏を見に来るそうなんです。ですから話をして、安全を確保しまして……それから無事に演奏会が開催できるように努力します」
「私は混乱が起きないように店舗側に話を通してきます。何とかイベントだと誤魔化せればいいのですが」
「お願いいたしますわ」
三人は頷き合うと、正気の百合園生たちと手分けして散り散りになる。
時計は、9時を少し過ぎていた。
琴理が向かったのは、並木道の中に立つ和モダンの建物――和カフェだった。
中では和服を着た二人の青年がお抹茶と和菓子を囲んで談笑している。同じ髪と瞳の色、それに目元の辺りがそこはかとなく彼女に似ていた。
「……お父様とお母様は?」
「今度の祭りの打ち合わせが入ってね。早く終われば、顔を出すと思うよ」
「お前がいなくなってからうちの家も忙しくなったけど、やっと慣れてきたかな」
琴理はそりゃあ雑用係がいなくなったから……と思うが、逆に何年も経っているんだからもういい加減にうまくやってほしい、とも思った。正確にはいてもいなくてもいいのだが、いたら便利だからやってもらう、といったところだろうが。
「……いえ、本題はそうではないんです。実は……」
琴理は黒史病のことを話しながら、彼らに避難を求めた。
「……そんな病気があるなんて、パラミタは危険なところなんだな」
「この病気のことが可愛く思えるくらい危険なこともありますよ。それでも私にとっては第二の故郷です」
言い切った琴理の真面目な表情に、二人の兄は意外そうな顔をした。
「それでは、会場の安全の確保がありますからこれで。くれぐれも気を付けてください」
言って、カフェを出て――琴理は外に出ると、すっきりしたように空を見上げ、微笑した。