百合園女学院へ

薔薇の学舎

校長室

波羅蜜多実業高等学校へ

【特別シナリオ】あの人と過ごす日

リアクション公開中!

【特別シナリオ】あの人と過ごす日
【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日 【特別シナリオ】あの人と過ごす日

リアクション


『エンド』と『グラキエス』の狭間で

 ゴルガイス・アラバンディット(ごるがいす・あらばんでぃっと)の前には薄い紙一枚の書き置きがあった。
 流麗な文字でしたためられている。
 筆跡には特徴的な癖があって、誰が書いたものであるかは一目瞭然だった。
 グラキエス・エンドロア(ぐらきえす・えんどろあ)の手によるものだ。
 出かけるということ、その場所、誰に会うかということ……そのすべてが端的に記されていた。
 ―――なんと無茶をする。もうすでに体は、限界に達しているであろうに……。
 ゴルガイスの手の中、つまり、乾いた大地のような鱗に覆われセラミック刀のように長く鋭い爪を有す掌で、書き置きはくしゃくしゃと丸められていた。
 本来であればゴルガイスはすぐにここを飛び出し、グラキエスの後を追うべきだろう。
 そうして、無謀ともいえるこの外出を止めさせ彼を家に連れ帰るべきだろう。
 それがゴルガイスの役割である。そうやってゴルガイスは、どう足掻いても絶望しか見えないところから必死に希望を求め、グラキエスを生きながらえさせてきたのだ。
 しかしゴルガイスは堪えた。せめて電話の一本でも入れようかという衝動を、みずからの内側に押さえ込んでいた。
 ――グラキエスがようやく、我等のためではなく己のために生きようとしている。……その糧となるなら、我はすべてを受け入れ見守ろう。手出しはするまい。グラキエスの選択を尊重せねば。
 ゴルガイスにとってはひどく苦しい決断だった。
 しかし同時に彼は、誇らしさも感じていた。
 それはまるで、二本の足で立ち上がり歩き始めた嬰児を眺めているような、そんな気持ちだった。
 それに――と、ゴルガイスは思った。
 ――会う相手が彼女だというのであれば、信用していい。
 生きる兵器としての『クランジ』には、グラキエスに通じるものがある。
 彼女の存在が、グラキエスに良好な変化を起こしていることはわかっていた。今日のことも結果はどうあれ、グラキエスの精神的な成長の糧になるのであれば歓迎したい。
 ゴルガイスは目を閉じた。
 今、ゴルガイスにできることは祈ることくらいだ。

 グラキエスは木漏れ日に目を細めた。
 春も半ばを過ぎた。もう夏の足音が聞こえている。
 夏はグラキエスの天敵だ。死の季節。
 今年も盛夏と聞いている。夏になれば今より動けなくなるだろう。
 ――いや、『今までよりも』と言ったほうがいいか。
 次の夏は、グラキエスの迎える最後の夏になるかもしれなかった。
 だが、現在のグラキエスは決して、体調が悪いわけではない。むしろ良好といっていい。
 とはいえ間違っても『健康』とは言えない。そればかりか肉体という意味では、良好とは正反対の状態だ。体はとうに限界を過ぎ、もはや魔力でかろうじて生きているような状態である。誇張でもなんでもなく、危篤が服を着て歩いているようなものだ。
 なのに彼の精神状態は良好だった。少なくとも気分だけは高揚している。
 生きたい――そう思えるようになったからだ。
 皆と生きたい。
 もっともっと深く人を想いたい。
 傷付けるのを恐れて逃げるのではなく、守る為に側にいたい。
 そう考えるだけで、血潮が熱くなる。
 ――きっかけは、彼女だったのかもしれない。
「来たよ」
 と声をかけられ、グラキエスは振り返った。
 大柄な少女が手を振っている。すらりと伸びた脚、長い腕、カフェオレ色の綺麗な肌、ファッションモデル並のプロポーションだが、童顔なのでどこかアンバランスな印象があった。
 クランジ ロー(くらんじ・ろー)ことローラ・ブラウアヒメルだ。彼女の笑顔は、グラキエスの唇にも笑みをもたらす。
「待った?」
「いや、俺も来たばかりだ」
 少し歩かないか、というその一言だけで、本日グラキエスは彼女をこの場所に誘っていた。
 しばらく、言葉もなく並んで歩く。
 ローラは明るい性格で、始終しゃべって笑顔を振りまいている……というイメージがある。少なくとも、その周囲の人間には。ところがグラキエスのそばでは違う。彼女は穏やかな表情ながら口を閉ざし、静かに春を味わっているように見えた。
 ローラにとっては心地良い春の午後かもしれない。
 しかしグラキエスにとっては、違う。
 陽差しは少し強すぎ、気温は少し、高すぎた。
 数百の青い種火で、じりじりと炙られているような気持ちがする。意識すら青白く燃え尽きてしまいそうだ。それでもローラに心配をかけるまいと、グラキエスは木陰まで歩みを進めた。
 そして唐突に、口を開いたのである。
「覚えているかい、ローラさん? この場所を」
 もちろん、とローラは言った。
 大規模プール施設『スプラッシュヘブン』からほんの少し離れた場所だ。
 未開発の緑地が広がる、どちらかといえば殺風景な一帯だった。
 突き抜けるように青い上空を、一機の飛空艇が横切っていくのが見えた。
「前にグラキエスが、新しい自分になったと言った場所ね(※参照)。それ以前の記憶は消えてしまったと」
「そう……あのときは、あなたを悲しませてしまった」
「気にしてないよ。もう過ぎたことね」
「……あなたは嘘が下手だな。Ρ(ロー)」
 だしぬけに彼が使う呼称が『ローラさん』から『ロー(Ρ)』へと変化した。
 ローラは彼の顔を見上げた。
 少し前まで柔和な顔つきだったグラキエスだったが、今は陰を帯び、いくらか年輪を重ねたように見えた。
 まるでこの場所には二人グラキエスがいて、あるきっかけで入れ替わったかのようだった。
 問いかけるようなローラの視線を受けて、
「驚かせたのなら、すまない」
 しばしグラキエスは沈黙した。言うべきか、多少逡巡したがやがて彼は口を開いた。ローラには話しておくべきと思ったのだ。そのために
「経緯は複雑だが、俺のなかには二つの精神がある。苦痛と絶望の果てに暴走し記憶を放棄した『エンド』と……」
 このときまた、グラキエスの中で切り替えが発生したようだ。ふたたび若返った様子があった。
「エンドが残したものを胸に抱きつづけている『グラキエス』」
 そのどちらかに固定されているわけではない。交互にどちらかが顔を出すというわけでもない。いうなれば、『エンド』のほうが『グラキエス』に混じっている状態である。
 また、そのどちらが正でどちらが邪というわけでもないのだ。
 彼の中にある『エンド』は確かに暴走し、表舞台から立ち去った。しかし『エンド』は『グラキエス』に希望を託していた。
 同じく『グラキエス』も、『エンド』を否定したりはしない。むしろ、『エンド』が紡いでくれたゴルガイスたちとの絆を大切にしている。
 魔力の核という拠り所と記憶を喪いながらも、彼は『エンド』と『グラキエス』の両者を自分の中に統合しつつあった。
 以上のことを簡単に伝えて、グラキエスは息をついた。
「現在の俺の状態について、知っていてもらいたかった。気味の悪い話だったとしたら、すまない……」
「悪いこと、ないよ」
 しかしローラは、にこりと笑ったのである。
「グラキエス、その話するの、勇気、必要だったと思う。話してくれたこと、ワタシ、嬉しい。それに、前のグラキエス……『エンド』? が、まだグラキエスの中にいて……つまり、完全に消えてしまったわけじゃないって、わかったことも嬉しいよ」
「ああ」
「今になってわかったのだけど」
 と告げたローラの頬に赤みがさしていた。
「前のグラキエス……つまり『エンド』は、ワタシの初恋の人、だったと思う」
 ローラは恥じらってうつむきながら、それでも夢見るような口調で言う。
「憧れたし、そばにいたかった。彼のこと考えて、胸がキューッと痛くなること、あったね」
 背中を見せるローラの過多に、グラキエスは手を伸ばしかけた。
 捕まえて抱きしめたいという衝動に駆られた。
 けれど彼はその手を止めて薄笑みを浮かべた。
「『エンド』なら、こう言うだろう。
『Ρはずっと、俺の想いの中にいた。
 Ρの中にも俺がいればいい。
 Ρの笑顔と幸福を見守り、俺の手でそれを作りたい』……と」
「ありがとう。……直接、聞きたかったね」
 風が吹いた。
 音もなく風は、ふたりの間を通り抜けた。
 グラキエスの赤い前髪が揺れ、ローラの長い睫毛も揺れた。
 ふたりは見つめ合っていた。
 ローラは胸の前で手を組み、グラキエスは、片手をローラのほうに伸ばす姿勢のままだった。
 数秒の沈黙ののち、グラキエスは手を下ろした。
 もしグラキエスがもう一歩踏み出せば、あるいは、手を伸ばしきれば、彼女に届いたかもしれない。
 だが彼はそうしなかったし、自分がそうしなかったことに、どこか安堵していた。
 やがて、ローラが告げた。
「今日は、話せて良かったよ」
「ああ」
「戻るね?」
「そうしよう」

 帰路、陽差しは和らぐことはなかったが、それでもグラキエスは、不思議と穏やかな心で道をたどることができた。
 ――俺には破壊の力がある。いや、破壊の力しかない。
 しかしその力は、守るために使うこともできよう。
 ――願わくばそれを、ローラさんのために使うことができれば……。
 ゴルガイスにこの考えを話せば、なんと言われることだろう。
 過去の『エンド』に話せば、
 『エンド』と混じっていない純粋な『グラキエス』に話せば、
 どんな反応があるだろう。
 ふと、そんなことを彼は考えた。