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リアクション
●Prologue
「お母さん………………!」
白い光。
厚い雲の向こうに彼女は太陽を見た、気がした。
白い光。
太陽はその絹のような腕を伸ばして彼女の、つまりクランジσ(シグマ)ことアイビス・グラスの体を抱きとめてくれるように見えた。少なくともアイビスにはそう思えた。
白い光は、
しかし届かない。『エデン』の裂け目より突き落とされ、緑の髪をはためかせ、天より放たれた弾丸のように地表に迫りゆくアイビスには。
――まぶしい。
これが彼女が、最後に思ったことだ。
あまりのまぶしさに、瞼を震わせながらアイビスは目を開けた。
背中に感触がある。
寝かされていた。
今、まぶしいのはあの日の陽光ではなかった。すす色に濁った白色の電灯が彼女を見下ろしているのだ。
――夢?
自分の頬に触れてアイビスは知った。
さっきまで自分がいた世界は夢である。過去の記憶だ。
されど今、自分がいるのは現実の世界だ。いかにそれが薄汚く、憎しみに満ちたものだとしても。
あの日、つまりレジスタンスの急襲があった日、空中要塞エデンから落下した数秒後にアイビスの意識は暗転した。
そこから自分がどうなったのかはわからない。だが目を覚ます直前まで、何の夢を見ていたかはわかる。
夢、それは記憶の蘇りだった。
もう何度目だろうか。目の前で大切な人を失う夢を見たのは。
鮮明な再現映像ではなく、かといって映画のような劇的なものでもなく、ただ、断片的なイメージが繰り返し明滅するという性質の夢だった。
登場するのは銃弾。そして血。遅れて銃声。硝煙。人間の倒れる音。
あとは死。死。死。
ひたすらに死。
夢に過ぎないのに、今なお鼻には火薬と血の匂いがこびりついているように感じる。
――お母さんも、私を助けてくれた人たちも殺され奪われる。こんな夢はもう見たくないのに……。
しかしアイビスのこの想いは、現れると同時に消えていた。
身を起こすと同時にアイビスは、転がってベッドから脱する。冷たい床には膝から着地した。引きずられてシーツが彼女の身を、ウェディングドレスのように飾っていた。今、アイビスが着ているのは、この白い布一枚きりだ。
ほとんど反射的に腰に手を伸ばし、銃がないことを悟って内心舌打ちする。それでも彼女は壁を背にするよう意識しつつ、猫のように素早く相手と距離を取った。
「ここはどこだ!?」
――少なくとも、総督府のメディカルルームではない!
見知らぬ狭い部屋だ。ほぼ白一色、手術台や器具が並んでいるところからして医療に用いられる部屋であることは瞭然だ。機晶姫専用の治療器具、すなわち調律師(クランジに対する医師。技術研究者でもある)専用品も目に入った。
そして部屋には彼女のほかに、一人の男の姿があった。
男は、白衣の両ポケットに手を突っ込んだまま黙っていた。おそらくはずっと、アイビスの寝姿を観察していたものだろう。
――本当に人間か!?
アイビスが彼に抱いた第一印象はこれだ。なぜなら彼はアイビスの動きを見ても、いささかも動じた風を見せなかったから。呼吸のリズム一つ、鼓動の間隔一つすら乱してはいないだろう。まるでマネキンだ。機晶姫のアイビスのほうが、よほど人間じみている。
「ここはどこだ、と言った!」
彼はアイビスの質問には答えなかった。
ただしこう言った。
「俺はダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)。レジスタンスだ」
彼は無造作に伸ばした青い髪を背で束ね、黒いゴーグル状の大仰な眼鏡で目元を隠している。いい加減に剃ったと思わしき顎に、うっすらと無精髭が生えていた。
「よくもぬけぬけと……」
ダリルがわざわざ、「レジスタンスだ」と名乗ったところが癇に障った。
『ダリル・ガイザック』は有名人である。抵抗組織(レジスタンス)の幹部格だ。実質、組織の頭脳であるとも言われている。彼の写真データはアイビスのメモリ内にも残っているが、その頃の姿と現在のそれは大きく変貌していた。とはいえその名前が持つインパクトは大きい。
同時に、ダリルの一言だけでアイビスは状況を理解していた。
エデンの淵から滑り落ちたアイビスは、内臓のフライトユニットを起動させた。といってもあくまで簡易の装備だ。ユニットが着陸まで保つはずはなかった。空中で翼が折れる音を聞くと同時に、一直線で彼女は落ちていった。
あの高さから落ちてはいかなクランジとてひとたまりもなかったはずだが、幸運な(あるいは不幸な)偶然が働いたに違いない。一命は取り留めたようだ。
そうして、レジスタンス側に回収されたのだろう。
「拾って私の体を調べ上げて、あげくお人好しにも修理まで施したとはな」
アイビスがコンマ数秒前までいた場所にはシーツだけが残されていた。
「その甘さがお前の死を招いた、ダリル・ガイザック!」
床を蹴ってアイビスは跳躍していた。
両腕を伸ばしてダリルの喉を狙う。武器はない。だが首を絞めることくらいならばできる……!
「ああ、甘かったな」
ダリルは、それが日常会話であるかのように言った。一糸まとわぬアイビスの躰を見ても平然としている。
アイビスの白い腕がダリルに届くかと思われたそのとき、
「甘かった。ボルトの締め方が」
ぼとりと音がしてアイビスの白い右腕が外れた。腕だけではない。左腕は肩から、両膝から下も外れて垂れ下がった。当然、アイビスは立っていられるはずもなく床に這いつくばる格好となる。まるで芋虫だ。
そんな彼女の姿を、ダリルは冷ややかに見おろしている。
「機晶姫にはボルトやナットというパーツはないから、正確には『関節接合部』とでも言うべきだが、そのあたりはわかりやすさを優先した。……まだ君は『仮組み』の段階だ。今動くとバラバラになるぞ――と言うのが遅れた。その点は謝罪する」
「馬鹿に……して……」
「馬鹿になどしていない」
ダリルの口調はやはり静かだったが、そこに嘘がないことだけはアイビスにも判った。
「クランジσ……いや、内部に記されていた個体名で『アイビス』と呼ぼう。アイビス、君に問う」
アイビスは俯いたまま返答しなかった。
「アイビス、君は生きたいか? 生きることを願うか?」
やはりアイビスは俯いたままだった。
やがて屈み込んで彼女を背負うと、ダリルはアイビスを寝台に戻した。
彼は館内放送らしき壁のスイッチを押す。
「ダリルだ。シグマに不具合が生じた。手伝ってくれ」
やがて部屋に新たな訪問者があった。アイビスも知った顔だった。
スカサハ・オイフェウス(すかさは・おいふぇうす)。機晶姫で調律師だ。
「こっちも忙しいのであります」
と、見かけ上は不満を言っているようだが、やけに嬉しそうな口調とともに彼女は入ってきた。忙しいは事実にしても、楽しい用事のように思われた。
「お前は……!」
アイビスにとっては『味方』側の機晶姫だったはずである。そんなスカサハがレジスタンスに通じていたことには驚きを禁じ得ない。
――誰も信じられないということか……。
「それではシグマ様、また動けるようにするでありますよ」
「気安く触るな。私はお前たちと馴れ合う気はない」
その言葉を無視してスカサハは作業を始めた。てきぱきした動きは、彼女がこの作業に慣れているという何よりの証拠だ。しかもスカサハは、思わず口笛でも吹きはじめそうな表情をしている。
一方でダリルは、アイビスの顔を上からのぞき込んでいた。
「見えるか? 俺のこの顔が」
「……見えるに決まっている」
「こいつを含めての『顔』だ」
ダリルは自分の目のゴーグルを指でコツコツと叩いて見せた。
「俺の体は半ば機械、ナノマシン製みたいなものだ。先日、傷ついていた生身の眼球も視神経も入れ替えて、今はサイバーアイの組み込まれたこのゴーグルが俺の目だ」
作業用にかけているゴーグルではないのだ。彼と不可分の『目』なのである。
「けれど俺はこれを醜いとは思わない。機能的で美しいと思う。同様に、君も美しいと思う」
「私が……」
アイビスのイメージしていた『ダリル・ガイザック』らしくない言葉だった。
「アイビス、初期型の宿命か機械が露出している部分が君の体には多い。それについては可能な限り変形して体内格納できるように改良した。隠しきれない部分もあるが、それはむしろ機能美だ。個性として尊重したい」
「結構手を加えたのでありますよ」
スカサハが得意げに説明を引き継いだ。
「シグマ様……いや、アイビス様とお呼びするべきでありますか? もともとは銃器主体の武装だったものを、『レゾナント・テンション』による格闘主体に変更させていただいたであります。これから腕は『マキシマムアーム』、腕は『機晶ブースター』へと変更する予定であります。といっても、まだ他の部位の修復も完全ではありませんので、しばしお待ちいただきたいところであります」
「結構なことだな」
首だけしか動かない状態ながら、アイビスは毒づくように言った。
「それで? 総督府に仕える『クランジσ』たる私を改良して、敵に塩を送るつもりか?」
「違う。君はもうクランジではない。『アイビス・グラス』として我々に……レジスタンスに加われ」
「寝言だな」
「これを読んでから決めろ。それでも向こうに行くというのなら、止めはしない。特に力に制御を設けるつもりはないから、その能力をレジスタンスを殺すのに振るうんだな」
えっ、というような顔をスカサハは見せたが、ダリルは片眉を上げることすらしなかった。
「ルカも承知の上だ」
と言って彼は、自由を取り戻したアイビスの手にプリントアウトした紙を手渡したのである。
「アイビス、これは君の中に残されていたメッセージだ。暗号の処置が施してあったが可読化した。いままで誰も……総督府のクランジも、君自身も、これに気がついたものはいなかっただろう」
それは母親から娘に遺したメッセージだった。
母親の名は、アデット・グラス。
娘の名は、アイビス。
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