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35


 『ノイン』。
 それが、クド・ストレイフ(くど・すとれいふ)の二つめの名前である。
 一つめの名前は、忘れた。戦災に於いて、両親共々なくしてしまった。そういうことにしてある。
 今の名前は三つめのもので、まあ、それなりに気に入ってはいる。
 さて話を戻すと、そのノインという名前はクドの育ての親であり、母で、姉で、同業者で、先輩で、そして――初恋だったビャンカ・ミーテルーチェがつけてくれた名前だ。
 彼女に話しかけられ、名前なんてないと言ったら、
 ――『ああじゃあこれでいいね』。
 これって何、と疑問符を浮かべるクドに、ビャンカは笑ってカレンダーを指差し、言った。
 ――『九って、ドイツ語でノインっていうんだよ。あ、結構いい響きじゃない? うん、決まりね、決まり』。
 底抜けに明るい声で、彼女はクドの頭を撫でながら。
 カレンダーには九月とあった。日本を例として喩えるなら、三月に会ったからみづきちゃん。そんなところか。
 とまあ、適当につけられた感じの名前ではあったが、クドはノインという名前を気に入っていた。
 ――なんてね。
 過去に馳せていた思いを現実に引き戻し、クドは小さく笑った。
 ――お兄さんはどうしてこうもセンチメンタルノスタルジィな気分になっているんでしょうかね。
 原因はわかっているけれど、敢えての自問自答。そうすることによって、寂しさに引っ張られそうな気持ちを押し止めていた。
 今日は、一日限りで死んだ人に会える日らしくて。
 それで、彼女のことを思い出してしまって。
 ――だからです、だから。
 何も、深い意味はないのだと。
 ふと、思い出の一ページをめくってしまっただけにすぎないと。
 ――だってお兄さん、彼女に会う気、ないですしね。
 ビャンカは死の間際に言った。
 『叶うものなら、君にはせめて自由に生きて欲しい』。
 ――その遺言をこれでもかというほど忠実に守り、自由に生きているお兄さんは過去にも縛られたりはしないのです。
 ――……過去に縛られない男。お兄さんかっこいい!!
 ぐっ、と意味無くガッツポーズをしてみるものの、心のどこかは冷めたままだった。
 その冷めた自分が、ぼそりと低く言う。
 ――……本音を言えば、一日だけしか会えないんなら会わない方がマシ。
「クド公」
 不意に、ハンニバル・バルカ(はんにばる・ばるか)が声をかけてきた。
「はいはい?」
 いつも通りの笑みで、クドはハンニバルに向き直る。
「会ったらどうなのだ」
 その一言は、核心を抉るには十分な一言で。
「やめときます」
 返すのが、いつもよりコンマ二秒ほど遅れてしまったじゃないか。
「そうか」
 しかしハンニバルは、案外すんなり引き下がった。これは予想外の反応だ。もう少し粘るものかと思っていたが。
 まあ、言われないならそれでいい。
「会わないなら会わないで、祭りにでも連れて行けなのだ」
「ああ。今日はお盆祭りですもんね。いいですよ。誰か誘います?」
「ボク的にはコンきちがいいのだ」
「ハンニバルさんったらキツネ君のことが好きですね、っと」
 うむ! と元気よく頷くハンニバルの声を背に、紺侍に電話をかける。
 どうやらすでに祭り会場にいるらしい彼に会いに行くため、クドとハンニバルは家を出た。


 クドは、相も変わらず道行くお姉さんやらお嬢さんやらに声をかけてはスルーされ、セクハラをしてはビンタされ、あるいはキックされ、あるいは鞄の角で殴られている。
 そんな様子を見る限りじゃ、いつも通りと変わりない。
 変わりないから、ハンニバルには思うところがあった。
 ――どうしてそんなに押し殺すのだ。
 会いたい人がクドには居て。
 会うきっかけもあって。
 そしてそれは奇跡的なものだから、次があるとも限らなくて。
 ――しかし本当に動こうとしなかったのだ。予想通りすぎるな。
 きっとクドは会いに行かないだろうとハンニバルは前日から踏んでいた。
 そして当日、実にその通りだったのでメロンパンを買いに行くという名目で家を抜け出し、既にナラカからパラミタへ渡ってきていたビャンカに接触した。
 自分がクドのパートナーであることを話し、クドのことを話し、会う気はあるかと尋ねて。
 頷かれたから、待ち合わせ場所に祭り会場を指定して、待機してもらって。
 ハンニバルは、適当なところで雲隠れするつもりだった。クドとビャンカを二人きりにさせるつもりで。
 そこに、誰か誘いますかとクドが言ってきたものだから好都合。
 ――二人が会ってる間、ボクはコンきちと遊んでいよう。
 ハンニバルは、結構紺侍のことを気に入っている。なんでかはよくわからない。一緒に居て楽しいからだと思う。だから今もちょっぴりご機嫌だ。
 それになにより、自分の張り巡らせた策がこう見事に嵌ると、なんというか。
 ――気持ちいいものがあるな、うん。
 さて、クドがセクハラに興じている間に撒くとするか。
 ハンニバルは、増えてきた人混みの中に身を投じた。


 気付けばハンニバルの姿がなかった。
 あら? と思いつつも、まあ待ち合わせ場所に行けば案外紺侍と二人で笑い合っているのではないかと暢気に構えて行ってみれば。
「……こりゃあ一本取られましたね」
 待ち合わせ場所には、ハンニバルも紺侍も居なかった。
 代わりに居たのは、セミロングの白髪を垂らした少女――に見えるが、実はれっきとしたアラサーである――ビャンカだった。
「ノイン」
 懐かしい声で、懐かしい名前を呼ぶ。
 それだけで、会わないと決めていた気持ちがぐしゃりと潰れた。
 会えて嬉しい。会えて良かった。許されるなら、抱きしめたいくらい。
「久しぶりだね。あと、すっごく変わったね」
 にこにこと笑いかけてくるビャンカに、クドは平常心を装って「そうですか? お兄さん、別に変わったつもりはないんですけどね」なんて返す。
 ビャンカは変わらず笑顔のままで、「そんなことないよ」と否定した。
「だって、昔は女の子みたいな顔で、感情の変化にも乏しくて、まるでお人形さんのようだったのに」
「あっちょ、なんか黒歴史暴露されてる気分。お兄さんすっごく恥ずかしいんですけど」
「それが今や道行く女性に片っ端から声をかけ、ビンタやキックで拒絶されるのをむしろ歓迎する勢いでありがとうございますと喜ぶ紳士さんに……」
「……って、ビャンカさん。いつから見ていたんですか」
「この変わり具合を喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか。お姉さん分かんないなぁ。
 ううん、あのノインがこんなに明るくなったんだから喜ぶべきだよね!」
 質問もはぐらかされたし、ゆるゆるとした彼女のペースに飲まれていく。
 それは心地よくて、でもこのままずっと流されてしまいそうで。
「ビャンカさんは変わりませんね。その年齢詐欺な顔とか、ちょっと抜けたところとか」
「抜けてなんかいないよー? お姉さんはいつだってお姉さんなんだからね?」
「ほほう。靴下が左右別々のものですよ、このドジっ子さん」
 ちょこっと反撃。
「あぇ!? ……こ、これはお洒落なんだよ。やだなあノイン、そんなこともわからないなんて女の子にモテないよ?」
 明らかにうろたえていたじゃないか、とは言わないでおく。
 顔を赤くしたビャンカと、くすくす笑うクドが並んだ。
 祭りに向かう人々を眺めながら、
「少しだけ、お話しようか」
 切り出された言葉に、はいと頷く。
 少しだけ。それでいい。
 だって、長く顔を合わせても、
「……お別れが辛くなっちゃうからね」
 ――……ああ。
 ――なんだ、ビャンカさんも、そう思ってくれていたんですねぇ。
 だとすると、今こうして二人のときを過ごせているのは、引き合わせてくれたのは、紛れも無くハンニバルのお陰だから。
 ――後で何かお礼でもしませんと。
 ――いやしかし、やる時はやりますね、ハンニバルさんったら。恐ろしい子っ。
「ノインの……ううん、クドのことを聞きたいな。どんな風に生きたらこんな紳士さんになったのか、教えてくれる?」
「えーと、ちょっと言葉にとげっぽいのが見えた気がするんですけど。
 いいでしょう、お兄さんの生き様をこれでもかとばかりにビャンカさんにお伝えしますよ」