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69


 工房で、こうして祭りの音を聞いていると去年のことを思い出す。
 ――私の人形を作るっていう約束、まだ覚えてくれているのかな。
 机に頬杖をついて、家主の帰りを待ちながらテスラ・マグメル(てすら・まぐめる)はぼんやりと考える。
 ――まだまだ楽しみにしてていいのかな。
 待つのが楽しかった。
 それを彼に言ったら、彼は笑うだろうか。
 変なの、なんて。
 急かしてもいいんだよ? なんて。
 でも、そんなことをしなくても彼は変わっていく。
 口数も増えたし、遠出することもあるし、笑う回数だって格段に増えた。
 ――リンス君が、私のことを人形にしてくれるなら。
 ――いつか、私もリンス君を歌にしてみたい、……かな。
 勿論、それを公表するつもりなんてないけれど。
 恐らく本人にすらも教えない。
 恥ずかしいというか。
 ……独り占め、するというか。
 ――そもそも、リンス君は私の歌、あまり聴いてないでしょ。
 俗世に疎い人だもの。
 ――……聴いてくれたら、嬉しいけれど。
 でも、歌で集中を乱すようなことはしたくないし。
 そこには触れないでおこう。
「……ところで、貴方は何をやっているの?」
 ウルスが工房の周りをうろうろしていることに気付かないほどテスラは鈍くない。
 工房のドアを開けて、そう問い掛けると。
「あ」
 ウルスの隣に居た女性を見て、硬直。
 ――『見た目とか結構似ててさ。あ、でもいつも笑ってた。眼鏡もかけてた。黒ぶちの、ちょっと野暮ったいやつ』。
 春にウルスから話を聞いた、リンスの姉の容貌を思い出す。
 だって、目の前の彼女はその人にしか見えないから。
「どうも、初めまして」
 固まったままのテスラに、彼女は頭を下げた。
「リンスの姉のリィナです」
 ああ、やっぱりそうだった。
 今、リンスが出掛けていてよかったと思う。だって、確か昨日電話でこの異常現象について話した時、リンスは姉に逢いたくないと言っていたから。
「……ようこそ、おね……いえ、リィナさん」
 一瞬、『おねえさん』と言いかけて、やめた。……別に深い意味なんて、ない。
 工房に招き入れた。……思えば変な構図だ。だってこの人形工房は、本来リィナが初代主として活動拠点にしていたのに、そこに招かれているなんて。
 けれどリィナはそんな些細なことを気にかけてはいないようだった。テスラに笑顔で迎え入れられると、素直に従う。
 入ってきたリィナに、「お客様?」と衿栖が問う。
「リンスくんのお姉さんです」
「えっ!?」
「初めまして」
 ぺこり。丁寧過ぎるほどのリィナの礼に、衿栖が戸惑った。リィナはやはり気にした様子もなく工房を見渡して。
「うん。変わってない、なあ。リンス、ちゃんとやってくれてるんだね」
 独り言のように、呟いた。
「だから、大丈夫だろ?」
「うん。大丈夫だった」
 ウルスと短いやり取りをしてから、リィナが再び工房を見渡す。
「リンスは、お出かけ中ですか?」
「ええ。友人の寄席を見に行きました。直に戻ってくると思います」
 だから。
「その間に決めて下さい」
 言葉を交わしたいのか。
 それとも、その言葉も思いつかないのか。
 ならばせめて、一目でも、一秒でも、彼の姿を見るべきか。
 それとも帰るのか。
「……私としては、逢ってほしいですけど」
 リンスの居る空気を、感じてほしい。
 彼の歩んできた道を、少しでもいいから、見てあげてほしい。
 変わったんですよ。
 ――私も、そのお手伝いをした……のかも、しれません。
 なんて。
 言えやしないけど。
 ――思うくらいなら。うん。
「私。リィナさんに、逢いたかったんです」
「え?」
「だって、リンス君のお姉さんですもの」
「……あ。テスラさんって、もしかして」
「…………」
 どうやら姉の方は、弟と違って鋭いらしい。
「……今、絶賛後悔中です」
 もう少し綺麗にしてくればよかった、とか。
 このサングラスじゃなくて、もっと別のものにすればよかった、とか。
 いや、そもそもサングラスを掛けて逢うのは失礼だっただろうか。
 急に緊張してきた。おろおろしだすテスラを見て、リィナがくすくすと笑う。
「あ。……笑わなくてもいいじゃないですか」
「あはは。ごめんなさい。可愛くって、つい」
「……恥ずかしい」
 はふ、と顔を覆うと同時に。
 ばたん、と工房のドアが開き。
「……おかえり」
 息を切らせたリンスが、リィナに向かって声を掛けた。
「うん。ただいま、リンス」
 リィナの笑顔に、ふっとリンスが笑った。
 ――ああ、すごく自然で綺麗な笑顔。
 あんな笑みを、彼女は向けてもらえるんだと思ったら。
 ――やだな、私。おねえさんに嫉妬してるのかな。
 ちょっとだけ、黒い気持ちが湧いたから。
「残された時間はあまりありませんから。リンス君、リィナさん、お二人でお話を」
 敢えて、場を作ることにした。


 生前リィナの部屋として使っていた部屋。
 二人並んで座り、ぽつりぽつりを言葉を交わした。
「元気にしてるみたいだね。ずっと塞ぎこんだままだったらどうしようかと思ってたんだよ」
「あー。うん。ごめん、死んでからも心配かけるなんて、ひどいよね」
「ううん。いいの、心配してるのは私の勝手だし。それより、嬉しいな。逢えたこと」
 リンスは逢ってくれないと思っていたから。
 そうリィナが言うので、ああ見透かされていた、とリンスは思った。
「逢うべきだって、友達に言われた」
「寄席の子?」
「そこまで聞いたの。……うん、そう。その子。若松っていうんだけど。逢って、ちゃんと話をするべきだって。伝えたいことを伝えるべきだって。何もしないで後悔してほしくないって、言われて」
「伝えたいこと?」
「……っていうか、訊きたかったこと」
 答えが怖くて、恐る恐る。
「姉さんは、辛くなかったの」
 小さな声で、リンスは問う。
 周りのみんなが、楽しそうに遊んでいる時。
 幼い弟の面倒をみるために、働いて。
 おまけに奇妙な能力も持っていて。
 知るために遠く離れた学校に通わざるを得なくなって、離れて暮らして。
 その間は、連絡もあまり取れなかったし。
 ようやく帰省した次の日に、姉は死んでしまって。
 ――姉さんの人生は、なんのためにあったの。
 ――俺なんかに使ってよかったの?
 そこまでは、答えが怖くて聞けないけれど。
「リンスは相変わらず、お馬鹿さんなんだねぇ」
 くすくすと、リィナが笑った。
「……うん。ばかだよ、俺」
「私、リンスと居て辛そうだった? 苦しそうだった?
 違うよ? 私はリンスのことが好きだったから、一緒に居るのが嬉しかったよ。リンスが笑うのが、好きだったよ。
 だからね、自分のせいだと思わないで。
 さっきも言ったでしょう? 私の勝手だって。
 ……むしろ、ブラコンなんじゃないのって言って笑ってもいいんだよ」
「……ブラコンなんじゃないの」
「うーん、そこで鸚鵡返しにされても困っちゃうけどな」
 言ってから、リィナがリンスの頭を撫でた。
「早くに一人ぼっちにさせて、ごめんね。でも、いつでも見守ってるから」
 じゃあ私、帰るね。
 リィナが立ち上がり、ドアに向かった。
「姉さん」
「うん?」
「……またね」
「……うん。またね」
 軽く手を振って。
 部屋を出る姉を、見送った。
 ――俺はもう少し、ここに居よう。
 そう、もう少しだけ、浸っていたかった。


「それじゃあ私は帰ります」
 工房に居る面々へ、リィナはぺこりと頭を下げた。
 テスラが一歩近付いてきて、
「いつか、また」
 と言ってくれたので。
「はい、いつか」
 柔らかく微笑む。
 帰ろうと思ったけれど、
 ――やっぱり、言っておこうかな。
 思いとどまり、振り返り。
 ちょいちょい、とテスラに手招きした。
「?」
 近付いてきたテスラの耳元で、
「うちの弟のこと、よろしくお願いします」
 彼女にしか聞こえないように、囁く。
「……え。……それは、どういう意味で」
「うーん。それは、内緒です」
 悪戯っぽく笑って、「それでは今度こそ、さようなら」ひらりと手を振って、工房を出た。
 一緒に外に出たウルスが、「魔法の時間はもう終わり」と劇の台詞を読み上げるように呟いた。
「シンデレラはもう帰らないとな」
「……うん、そうだね」
「君に気付いて欲しかったことも。
 言いたいことも沢山あったけど、今はいいや。時間がない時焦って言うのも雰囲気がないしな」
 ――私の時間は、本当はあとほんの少し長いんだけど。
 ――みんなだって、我慢しているんだから。我儘言っちゃ、駄目よね。
 だから、リィナは微笑った。
「うん。そうだね」
「俺は、俺の勝手で生きていくよ」
 そうして欲しいと、思った。
 彼は自由な人だから。
 私みたいに、理から外れた人を想って縛られたりはしないでと。
「君のいない世界でも。君を想って」
 だけど、ウルスがそんな風に言うから。
「さよなら」
 リィナは別れの言葉を口にした。
 後はもう、振り返らない。
 静かに静かに、ひとり歩いて帰るのだ。あの場所へ。


*...***...*


 花火も終わり、人気もなくなり。
 衿栖が工房で後片付けをしていると、急にドアが開いた。
「すいませ〜ん。今日はもう閉店なんで……」
 言いながらドアの方に目をやる。
「って、レオンじゃないですか」
 そこに居たのは、今日は一日家に居ると言っていたレオンだった。レオンの長身に隠れ、誰かが立っているのも見える。
「どうしたんですか、こんな時間に?」
 遅くなったから迎えに、なんてことをするような人ではないし、そもそも別段遅い時間でもないし。
 疑問符を浮かべながら問い掛けると、
「衿栖の客だ」
 予想外の答え。
「え? 私にお客様?」
 誰が? と首を傾げたところで、レオンの後ろから人影が出てきた。
 見覚えのある懐かしい顔。だって彼は、衿栖の。
「お、おじいちゃん……?」
「久しぶりだな、衿栖」
 祖父が、セバスティアンが持っている人形を見て一瞬で悟る。あの人形が、生前のレオンが作ったアンティークドールが再び引き合わせてくれたのだと。
「今はここで働いているのかね」
「うん。ちょっとは名の知れた人形工房なんだ。店主は今席を外しているけど」
 花火が終わる間際、誘われて祭りへ出向いていったことを思い出す。
 ――もし居たら、紹介できたんだけどなぁ。
 少し残念に思いながらも、こればかりは仕方ない。
「衿栖」
「え?」
「いい人形師になったようだね」
 柔らかな笑みを浮かべたセバスティアンが持っていたのは、先ほど衿栖が完成させた人形。
「……うん!」
 褒めて、認めてもらえたことが素直に嬉しくて頷いた。
「あのね。私は最高の人形師になるよ! だって、私には最高の師匠と最高の先輩が居るんだから!」
 ね、とレオンを見る。レオンはふっと小さく笑っただけだった。
 リンスが居たらどんな反応をしたのだろう。困ったように笑うのか、それとも恥ずかしそうに顔を背けたのか。何食わぬ顔で、祖父に一礼していたかもしれない。
 ――……って、だからどうしてリンスのことを考えるのよ、私は。今ここに居ないんだから考えたって仕方ないでしょう?
 自分の考えに自分でツッコミを入れて。
「おじいちゃん」
 衿栖は、改めてセバスティアンに向き合った。
「あなたの孫は頑張ってます! これからも見守っていてね!」
「勿論だ。ひたむきな孫の様子を、どこからでも見ているよ」
 セバスティアンの目は、愛情に満ちていて。
 彼が亡くなってからも、ずっと自分は愛されていたんだな、と実感した。