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年の初めの『……』(カギカッコ)

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年の初めの『……』(カギカッコ)
年の初めの『……』(カギカッコ) 年の初めの『……』(カギカッコ)

リアクション


●prologue

 時計の針が、カチッ、と『12』の文字盤を指した。
 荒野で聞く遠雷のような、あるいは、年経た司祭が述べる教条のような、低く重々しい鐘の音が刻を告げる。
 日付が変わったのだ。
 2022年、1月1日。
「新年……?」
 鼈甲(べっこう)色の柱時計を蓮見 朱里(はすみ・しゅり)は見上げていた。
 あっという間だった。今日の一日も、2021年も。
 このところ癖になっていた仕草を、無意識のうちに朱里は成している。
 すなわち、すっかり大きくなった自身の腹部に掌をあてるという仕草を。
 そっと彼女は隣室をのぞき見た。彼女の二人の子ども――養子たちはいずれも、凪いだ海の小舟を思わせる静かな寝息を立てていた。年越し蕎麦を食べ、入浴してさらに数時間、「年の変わる瞬間を見たい」と言い張ってなかなかベッドに入らなかった二人だが、つい数分前にようやく寝入ったのだ。じゃれ合う仔猫より元気だったのがまるで砂男に眠り砂をかけられたかのように、二段ベッドの上下でひたすらに夢の世界に遊んでいるようだ。
「明けましておめでとう……」f
 母たる朱里は二人の子に告げた。いや、本当は三人だ。お腹に宿る命を含めて。
 子から返事があった。
 ベッドの二人ではない。腹部を強く蹴る反応。まだ外界を知らぬこの子も、「おめでとう」と言っているのだろうか。
 いや、違った。
 鋭く、締めつけられるような痛みが腹部にあった。
 これまで経験がなかったわけではない。予告するかのような陣痛なら、朱里はここまでの二週間ほどで何度か味わっている。しかしこれは、それまでが予行演習でしかなかったと言い切れる性質を備えていた。
 端的に言えば痛いのだ。
 それはもう、視界に黄色く稲妻が走るほどに。体が千切れるのではないかと思えた。
 予定日はもう少し先のはずだった。油断していたわけではないが朱里は漠然と『その日』はもう少し先だと思っていた。しかし多くの赤ん坊がそうであるように生まれ来たる存在は極めて気まぐれだ。カレンダーの読み方を知っているはずはないだろう。
 続けて何度も朱里の視界に雷光が走った。
 右腕を柱に付きよろめく体を支え朱里は這うようにしてリビングに入った。
 彼女の夫アイン・ブラウ(あいん・ぶらう)はすでに立ち上がっていた。彼の片手には電話がある。もう片方の手には冷蔵庫に貼り付けていた小さな黒板。顔を心配で一色にしてアインは問うた。
「ついに……!?」
 間抜けな質問に聞こえることを自覚しつつ彼は彼女の背に手を添える。
 締めつけるような激痛はさらに高まり朱里は首を縦に振るのがせいぜいだ。
(「ごめんね。私、いつもあなたに守られて、心配かけてばかり……」)
 と言いたいのだが歯を食いしばるあまり声は出ない。寒気がする。それなのに額から生ぬるい汗が噴き出す。
 必死で堪えているうち痛みは静かに引いた。だが気を緩める間もなく第二波が襲ってきた。
 さっきよりずっと痛い。
 瞬時気が遠のいたが朱里の意識が飛ぶことはなかった。彼女はただの女性から、本当の意味での母親に変貌しようとしているのだ。母親は強い。現実にしがみつくようにして痛みを乗り切った。
 第三波が来る前に朱里はアインに電話を頼んだ。受話器を握ったまま凍結していたアインの時間が、たちまちカウントを再開する。黒板に書いておいた電話番号はとうに記憶していた。聖アトラーテ病院、緊急外来の番号だ。
「妻が産気づいて……そう、住所は……」
 言葉をつっかえつつ職員と応対しながら、アインの胸もまた激しい鼓動を繰り返していた。足元が崩れ落ちそうなほど不安だった。
(「こんな時、男は無力だ……」)
 唇を噛みしめながら彼は彼女たち――そうまさしく彼女『たち』だ――の体を支えた。妻の背をさすり、落ち着いて、と繰り返す。真に落ち着くべきは自分だと知っているがそう言うほかない。
 どうか耐えてくれとアインは祈った。これほど必死で何かに祈ったのは初めてだ。
 彼の心の声が聞こえたのだろうか、朱里は薄く微笑みを浮かべて彼の手を握った。
「大丈夫。あなたがいれば、きっと耐えられる」
 右手をアインの手に固定しながら彼女は、左手で胸元より何かを取り出した。
 二人で作った安産祈願のお守りだ。震える手で首にかける。彼がいてお守りがあれば、恐れるものは何もない。

 ほどなくして朱里は病院に運び込まれた。
「さっそく始めよう」
 分娩室では、担当医となるダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)がゴム手袋を填めながら待っていた。彼も急報を受けて駆けつけたであろうに、その呼吸にはわずかな乱れ一つない。機晶姫の出産を扱った経験があるゆえか、マスクと帽子の間に見える蒼い目は落ち着き払っていた。
 アインは手早く緑の手術着を着せられ、顎まで隠すマスクを手渡された。
 てきぱきと看護師や助手に指示を出しつつ、ダリルは朱里の様子をさっと見て断じた。
 オペ室に『処置中』と書かれた赤ランプが灯る。最新鋭の設備が揃った未来的なデザインの病院だけに、その部分ばかりやけにレトロで生々しい。
「長くなりそうだな」
 一目見てダリルは言った。
 その言葉に間違いはなかった。
 難産だった。
 新たな生命は外の世界を怖がっているかのように、尻込みをくりかえした。
 母親、つまり朱里の側にも、子を導く力に不慣れなものがあった。
 出血が起こるたび、あるいは朱里が呻き声を発するたび、アインは息が詰まりそうになった。改めて自身の無力を感じる。それでもダリルは「安定している」「いい流れだ」と短く言葉を継いでくれた。恐らくダリルなりに、アインを気遣ってくれているのだろう。

 夜明けと共に、その子は誕生した。
 機晶姫の女の子だ。
 分娩室を埋め尽くすほどに大きな声で『彼女』は泣いた。
「肌の色と全体的な雰囲気は母親似だな」
 一仕事終えた充足感からか、ダリルの口調は穏やかだった。
 陽光のような金髪と海のような碧眼、そして所々に存在する金属部分は父親似といえよう。身体の大部分が有機パーツで構成されていて、成人するまでは人と同じように成長するタイプらしい。
「……紛れもない、僕の子…………紛れもない……」
 現実に圧倒され、アインは処理不能を起こしたように言葉を繰り返すほかなかった。
 なんと素晴らしいものか。生命というのは。赤ん坊というのは! 誕生したばかりなのに『彼女』は必死に、足をもぞもぞと動かし口をぱくぱくさせ、「生きているよ」とアピールしている!
 朱里の訴えからここまで、わずか数時間であったとはいえ、アインにとってはこれまでの生涯に匹敵するほど濃密な時間だった。
 女性看護師が、まだ湯気を上げている子を朱里に抱かせてくれた。
「元気な子です」
 看護師の言葉はお世辞ではない。鈴が詰まった鉄の籠を、壁に叩きつけ続けているような激しい泣き声だったから。きっとたくましく育ってくれるだろう。
「結乃(ゆの)……」
 すでに決めてあった名前で、朱里は娘に呼びかけた。
 日本名ならば蓮見結乃、戸籍上は『ユノ・H・ブラウ』とするつもりだ。
 ローマの結婚の女神ユノにあやかった名前だ。日本名に『結』の字を当てたのは、『人と人とを結ぶ絆』の意味を込めたかったからである。
 初めて呼びかけたのだが、ぴったりの名前のように朱里は思った。許されるのなら一日中でも呼びかけていたい。
 ――ユノ、待っていたよ。十ヶ月近く、この日を楽しみにしていたんだよ。
 ……自然に目頭が熱くなった。
 小さな命はいま、泣くのをやめて目を見開き、初めてじかに目にする親の姿に戸惑うように、あるいは好奇心に火が灯ったように、じっと朱里を見ている。
 アインはそっと手を伸ばし、まだふやけているユノの手に触れさせてもらった。赤くて、かすかに熱があって、小さい。本当に小さい。しかも、こんなに小さいというのにもう爪がある。触られて驚いたのか、ユノは手を握ってまた開いた。
「おはよう、そしてはじめまして、ユノ。……僕がきみの父親だよ」
 奇蹟とか命の喜びとか、そういった言葉は使い古されたものかもしれない。けれど今、アインの心を支配している感情を言い表すのに、これ以上のものがあるだろうか。畏敬の念を感じる。
 このとき朱里が言った。
「ごめんね」
「なぜ?」アインは驚いた表情になる。
「おうちで待ってる子供たちに謝らなくちゃ……せっかくのお正月なのに、一緒にお祝いできなくて。産後の一週間は入院してないといけないから」
「それなら大丈夫。みんなで毎日お見舞いに来るよ。二人に会いに来るよ」
 元旦の祝いと誕生の祝い、めでたさも二倍だとアインは笑った。
「さあ、ユノ……と呼んでいいな? 彼女を処置室に移すとしよう。身長も体重も測るし、体も洗うことになるだろう。アイン、手伝ってみないか?」
 ダリルの目に笑みがあった。
「父親として娘に果たす、最初の『仕事』だ」
「ありがとう」
 アインは感謝した。
 すべてに感謝した。朱里に、ダリルに、この病院に、家で待っている子らに、そしてもちろん、生まれたばかりのユノに。
 ありがとう。そしてもう一度、改めて愛する妻に誓う。
 僕は君を、この子を、家族を、ずっとずっと守り続けよう。