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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●中世ヨーロッパ 9

 アルスター伯爵令嬢加夜は今、花嫁衣装をまとって、静かに式が始まるのを待っていた。
 相手はアイルランドのほぼ全域を掌握している、アイルランド王と言ってもおかしくないキルデア伯爵の息子だ。
 そこに弟のが近付く。2人は互いに視線をかわし合い、申し合わせたように一緒に頭を下げた。
「「姉さん、ごめん!」」
 練習していたのか、息もぴったりに2人の声が重なる。
「まあ。いきなりどうしたんですか?」
「俺様たちのせいでカーライル滞在を切り上げて帰らなくちゃいけなくなったんだろ」
「正直そこまで頭が回ってなかったんだ。あれが姉さんにとってどんなに大切な旅行か知ってたのに……ごめん」
「ああ、そのこと」
 心からすまなく思っているのはあきらかだった。表情を暗くしている2人に、加夜はくすりと笑って見せる。なんでもないことのように。
「いいんです。あなたたちが無事で帰ってきてくれたんですから。それに、あれ以上あそこにいてもどうしようも…」
 ある男性の面影が胸に浮かび上がってきて、加夜は一瞬息を詰めた。しかしこれまでのように、痛みに耐えようとするかのように無意識に入っていた力をそっと緩ませて、あの日々の思い出を胸によみがえらせる。
 決して押しつぶしたりはしない。彼と過ごした時間は何にもかえがたいほどすばらしくて大切な宝物だから。何度も思い返して、一瞬一瞬すべてを刻み込んで。いつまでも覚えていたい。
 それで十分、自分は満たされる。
「それより、あなたたちの方が心配です。特に光」
 名指しされ、反応すまいと思うより早く光の体がびくっと小さく跳ねる。
「あなた、何か悩みがあるんじゃないですか? 戻ってからときどき何か考え込んでいますよね?」
「べつに…」
「何を悩んでいるかは分かりませんが、いつまでもうつうつとしているなんて光らしくないですよ。何があろうとも私や陣はあなたの味方です。……たとえお父さまが相手でもね?」
「姉さん……でも…」
「いいから行きなさい。私は大丈夫です。式やその後の披露宴で手がいっぱいで、だれもあなたの不在に気付く人はいませんよ」
「……ありがとう」
 光は感謝するようにうなずいて、部屋から飛び出して行った。
 その様子に、ふふっと笑う。
「さあ陣、あなたも」
「俺?」
 自分を指差す陣に、加夜は頭を振る。
「ごまかしても駄目です。あなたも何か心に引っかかることがあるんでしょう?」
「あー……まあ、あると言えばあるかな?」
 島に残してきたユピリアの姿が浮かんだ。陣を嘘つきと罵った彼女は、最後まで陣と口をきこうとしなかった。心配しているという両親や加夜を安心させるためにも陣は一度屋敷に帰らねばならず、帰ったら帰ったで加夜の結婚式への出席があり、なんやかやと日ばかりが過ぎてしまっている。
「絶対戻るって言ったけど、どうかな? あいつ何考えてるか全然分かんねーし。案外もう俺のことなんか忘れちまってるかも――」
「めずらしいですね、陣が自信を持てないなんて。いつも「女なんてただヘラヘラ笑ってるだけで、頭のなかには何も詰まっちゃいねーよ」って言っていたでしょう?」
「それがさ、あいつ俺にだけは笑わないんだよ。いつも俺の何かに腹を立ててて」
 ポケットに手を突っ込み、陣は窓に近寄る。
「だから俺が戻ったからって笑顔で迎えてくれるとはとても思えねーな」
「迎えてくれます。きっとね」
「うーん。ま、それを確認するためだけでも、戻る価値はあるよな」
 だけどもし本当にあいつが笑顔で出迎えてくれたら。抱き上げて、その足でさらってきてしまうのもアリかもしれない。俺に腹を立てて帰りたがってもどうしようもない、アルスターへ。
 そのとき、ドアがコツコツとノックされた。
「加夜さま、お時間です」
「分かりました」
 立ち上がり、部屋から出ようとする加夜に陣が声をかける。
「姉さん、幸せになれよ」
「まあ陣。私はもうとっくに幸せなのよ」
 幸せそうにほほ笑んで、加夜は胸に手をあてた。



 召使いに先導され、式場へ続く廊下を歩きながら、加夜は思っていた。
 涼司くん、何も話せなくてごめんなさい。あんな別れ方をしてごめんなさい。もう二度と会えないし、手紙も出せないけれど、あなたのことは決して忘れません。
 結婚する以上、夫に忠実な、敬虔な妻となると決めていた。けれど心は……加夜だけのもの。
 そうして最後の扉が左右に引き開けられ、聖堂を見たとき。
 まっすぐ自分の前に開かれた道の向こうに涼司の姿を見つけて、加夜は駆け出していた。
 どこをどう走ったのか、周りでだれがどんな顔をしていたのかも覚えていない。まるで蜃気楼と化して次の瞬間消え去るのをおそれるように加夜はひたすら涼司だけを見つめ、すがりつくように両手でしがみつく。
「涼司くん、涼司くん、涼司くん…っ」
「うん」
「これは夢ですか? あなたがここにいるなんて……あなたは涼司くんですよね…?」
「そうだよ」
 涼司は楽しそうに笑って、頭のてっぺんにキスをした。
 幻じゃない、本物の涼司だと確信して、やっと加夜は涼司が全然驚いていないことに気付いた。それどころか加夜の反応を面白がって笑っている。
「加夜、ひさしぶりだな」
「……もしかして……知っていたんですか?」
 涼司、うなずく。
「あのときから?」
「名前聞いてすぐにピンときた。正直、どうしようか迷ったんだけどな、ありのままのおまえを知るチャンスだと思ったんだ」
 涼司の手が加夜のほおを両側からはさんだ。加夜の目には感極まった涙がにじんでいる。
「ひどいです、涼司くん…! そんなの……こんな……私ばっかり…っ」
「うん。でも説明しようと思ったらおまえ帰国してたじゃないか。待ち合わせにこなくて……何時間俺が待ったと思う?」
「それは…」
 こつん、と額が合わされる。
「あいこだ。けど、おかげで俺は本当のおまえを知ることができた。
 愛しているよ、加夜。伯爵令嬢なんかじゃない、本当の加夜を愛している」
 ずるいと思った。この数カ月、自分ばかりがこんなにキリキリさせられて。だけどこうしてやさしい眼差しで見つめられ、そんなことを言われると、全てが雪のように溶けて消え去って……残るのは、ただ目の前の男への愛だけだった。
「私もです、涼司くん。あなたを心から愛しています」
 そっと涼司の唇が加夜の唇をおおう。
 2人のやりとりの意味が全く見えないと周囲の者たちはざわつき始めていたのだが、陣の祝福の拍手につられるようにあちこちで拍手が起き始める。拍手の音はだんだんと広がって、やがて聖堂じゅうに広がっていく。
 まるで永遠に続く2人のこれからの日々を彩る輝きのように、それは2人を包み込んでいた。



*            *            *



 加夜たちと分かれた光はまっすぐアルスター家の者が割り当てられている宿舎へ向かった。加夜の結婚式への参列者として――もちろん聖堂内へは入れないが、聖堂の外と披露宴とに出席できる――数十人がここ、キルデア領へ来ている。そのうちの1人には当然、光の近衛隊長のラデルがいた。
 記憶を取り戻し、屋敷へ戻った当初、光はラデルを処罰してもらう気満々だった。
 長年の信頼を裏切られたくやしさと自分の弱さにつけこんだ卑怯ぶりに腹が立ち、もう顔も見たくないと思った。おそらくラデル本人も首を切られる覚悟をしていたと思う。なぜ自分たちは夫婦だという光の思い込みをそのままにしていたのか、一切説明も言い訳もしなかった。
 だけど結局、光はラデルを切り捨てる覚悟ができないまま、今日に至っている。
 ずっと家族同然と思ってきたやつだからだと自分に言い訳してきた。温情からだと。でも違う。自分は、彼に腹を立てていたかったのだ。怒りを保ち続けていたかった。そうしないと……。
「おまえのせいだ!」
 ラデルの部屋にドアを蹴破る勢いで入った光は、開口一番そう言った。
 ラデルは式への出席のため正装し、あとは外套をはおって出るだけの状態で、突然の光の乱入に驚き動きを止めている。
 それがすごく格好良くて、ラデルに似合っていて、光は思わず見惚れそうになってしまう。
(くそっ。初めて見たわけじゃないだろ、自分!)
 何を動揺しているんだ? 相手はラデルじゃないか、と光は自身を叱りつけた。
 だけど数カ月ぶりにラデルとこうして向き合って、やっぱり考えずにはいられない。彼と肌を触れ合わせて眠り、あの大きな手で体じゅうをくまなく探られ、触れられて……あの形の良い唇で全身にキスを受けたのだと。
「光……何かご用ですか」
 ラデルはまだ驚きが抜けないながらも幾分己を取り戻してベッドの上の外套を拾い上げる。
「じきに式が始まります。あなたも遅れるわけにはいかないでしょう。話は手短にお願いします」
 そのあきらかに距離をとった他人行儀な発言が、やっぱり無理だとこの場から逃げ出しかけていた光の怒りに薪をくべた。
「おまえのせいだと言ったんだ!」
「……ええ。それは分かっています。ですからどんな処罰をされても――」
「おまえのせいで俺様は1人で眠れなくなってしまった!」
 目を伏せ、光を見ないようにして横をすり抜けようとしていたラデルの動きがぴたりと止まった。
「ベッドに入ると何かが足りないような気がして! すぐ目が覚めるし! となりを手で探ってしまうし! おまえのせいだ!」
「光、それは――」
「どうして奪わなかった!」
 胸倉を掴み、引き寄せた。
「あんな中途半端なことしないで奪ってくれていたら! こんなに悩まなくてすんだんだ! おまえのものになる以外ないんだから!」
「それは…」
 光を破滅させないため、という大義名分があった。しかし本当の、根っこのところは違う。
「おまえに自分の意志で俺を求めてほしかったから」
 突然ラデルが変貌した。にやりと笑うや光を持ち上げる。
「なっ!?」
 目を瞠って絶句する光を軽々とベッドへ運び、腰かけさせた。そしてとまどっているうちにそのまま唇を奪う。
 傲慢なキスだった。彼に従うことを強いるような。
 でも心地よくて。ほっとできて。頭がくらくらする。
「光、決めてくれ」
 腕のなかに囲って、ラデルは懇願した。
「この先へ進めばもうあと戻りはできない。どんなにそうしたくても、絶対に手放してなんかやらない」
 必死に衝動を押しとどめているラデルの肩へ腕を回し、今度は光の方からキスをした。
「四の五の言ってないで、奪うならさっさと奪え」
「……やさしくはできないぞ。ずっと我慢していたんだ」
 背中に回った手が、するりとシャツの下に忍び込む。
「上等だ。そうしてほしいなんて……だれが…………んっ」
 はだけた胸元、鎖骨に押しつけられたラデルの唇と触れてくる手に泣き出してしまいそうなほど安堵を感じながらしがみついた。
「光、かわいい」
 途中、涙をにじませているのがバレて、耳元深くささやかれても、何も返せなかった。だから噛みつくようにキスをした。
 嵐のような時間が過ぎさり、何もかも終わって。2つのスプーンのように重なって、後ろから隙間なく抱き締められた状態でうとうとしながら光は確信していた。
 やっと取り戻すことができた。
 自分が戻りたかったのは、この腕のなかだったのだと……。