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そんな、一日。~二月、某日。~

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そんな、一日。~二月、某日。~

リアクション



10


 シャワーのコックを捻ってお湯を止めると、雷霆 リナリエッタ(らいてい・りなりえった)は自分の右手を鼻先に近付けた。
「……もう、血の匂い、してないよね」
 少なくとも、右手からはボディソープの香りしかしない。が、自分が血の匂いに慣れすぎて気付いていないだけなのでは、と考えると怖くて、もう一度念入りに身体を洗った。
 いつもなら、朝のシャワーで気分がすっきりするはずなのに、ここのところそうはならなかった。ずっと、テンションは低いままだ。ため息の数も多く、そのことにもうんざりする。
 デパートで会った紡界 紺侍(つむがい・こんじ)の表情が、忘れられない。血塗れになって兎を屠るリナリエッタのことを、驚いた顔をしてみていた。
 普通の人は、ああなのだ。血に塗れることはないし、手を汚すこともない。それが普通だから、驚いた。
 別に、自分が普通から少し外れた部分にいることが嫌なわけではない。その道を選んだのはリナリエッタ自身だし、まして『ああいう私は私じゃない!』なんて否定する気もさらさらなかった。
 あれが私だ。力を持ち、行使することを選んだ私。
 わかっていても、気分は低迷したままなのだが。
「……ま、落ち込んでもいられないんだけど」
 敢えて口に出し、髪の毛を束ねる。何せ、やらなきゃならないことが山積みだ。卒業したらすぐ引越しなのに、ろくに荷物整理もしていない。
 せっかくの休日なのだから出かけたい、とは思ったが、これを終わらせないことにはどうにもならない。
 一度大きく伸びをして、リナリエッタは引越しの作業を進めることにした。


 引越しを決めたのは、少し前のことだった。
 リナリエッタは、とある事件で大切な人を守ることができなかった。それどころか、ミスを犯して多くの被害を出してしまった。
 自分では最善を尽くしたはずなのに、力が及ばなかった――その結果を受けて、リナリエッタは決意する。春になり、百合園の短大を卒業したら自分を鍛えなおすためにエリュシオンへ移住しようと。
「エリュシオン、ですかー」
 話を聞いて、アドラマリア・ジャバウォック(あどらまりあ・じゃばうぉっく)が呆けたような声を出した。いまひとつ実感がない、そんな感じだ。
「駄目かしら」
「いいえ。リナ様が新しい道を歩まれるのであれば、私は勿論それを応援いたします。それに、向こうではどんなお洋服がトレンドなのか気になりますしね」
「……ありがとう」
 明るく言ってくれると、いくらか気持ちが楽になった。
「ベファーナは?」
 視線を、窓際に立っていたベファーナ・ディ・カルボーネ(べふぁーな・でぃかるぼーね)に向ける。ベファーナはリナリエッタをちらりと見て、小さく頷いた。
「弱さを克服しようとする人間は、好きだよ」
「……どーも」
 ふっと意味ありげに笑われたが、特に悪い意味ではないだろう。肯定してくれているのだと受け取って、今度は南西風 こち(やまじ・こち)の方を見た。一番心配なのは、この子だった。
「お引越し、ですか」
 感情のこもっていない声で、ぽつりとこちは言う。
「もう、工房には、遊びに行けないの、ですか」
「…………」
 こちは、工房にいる人形たちを弟妹と呼び、かけがえのない存在として接してきた。クロエとも見てて微笑ましくなる関係を築いていたし、それをリナリエッタの都合で引き離してしまうのは申し訳ない気持ちになる。
「妹や弟、それにクロエに会えなくなるのは残念です。クロエはこちの妹ですから」
「こち……ごめんね」
「マスター? 何を謝るのですか。マスターが望む場所に、こちはいるのです。ですからマスター、大丈夫です。こちは、マスターと共にいます」
 不覚にも、涙腺が緩みそうになった。こちをぎゅっと抱き締めることで誤魔化して、「まだみんなには言っちゃ駄目よ」と耳元で囁く。
「ふたりもね。……別れを意識して付き合うなんて、嫌でしょう?」
「……ああ、そうだね」
 ベファーナが首肯した。次いでアドラマリアもはいと短く返事をする。
「内緒なのですね」
「ええ。内緒よ」
「お別れは、また別に、きちんとするということですか」
「そうよ」
「では、その時までこちは喋りません」
「良い子ね」
 こちの頭を撫でてやり、リナリエッタは立ち上がる。
「この家ともさよならね……」
 慣れ親しんだ部屋ともお別れだ。家具も持って行くつもりはないから、やはり同じくお別れである。
 立つ鳥跡を濁さず、といくように、早め早めに準備しておかなければ。


 そういうわけで今、リナリエッタは家具をリサイクルに出しに行ったりと奔走しているのだった。
「あーあ、この家具気に入ってたんだけどな……」
 家具の大半は、ヴァイシャリーで揃えた一品ものだ。正直手放すのは勿体無かったが、誰かに使ってもらった方がいいに決まっている。
「……にしても、動き回ってると暑いわね。汗ばんできたわ……」
「今日は暖かいですからね。外は春のような気温ですよ」
 アドラマリアに言われて、リナリエッタは窓の外に身を乗り出した。本当だ。気温も風も、温かい。
 春と違うのは緑の匂いが少ないくらいで、それ以外は春となんら遜色がなかった。気持ちのいい陽気だ。
「少し休憩して、お散歩にでも行きませんか?」
「ええ、マリア。私もそう思っていたのよ」
 行き先は、人形工房で。
 もうすぐこんな生活も終わってしまうから、せめて終わってしまう前に少しでも思い出を重ねておきたくて。
「こち。クロエちゃんのところへ行くわよ」
「本当ですか」
「ええ。ベファーナはどうする? 行く?」
「……そうだね、久しぶりだし顔を出しておこうか」
 こうして、リナリエッタたちは四人揃って工房へ出向くことになった。


 工房に入ると、いつものようにリンスとクロエが出迎えてくれた。
「あ……」
 紺侍もいたのは予想外で、思わず視線が泳ぐ。けれど紺侍は気にした風でもなく、「ちわ」と声をかけてくれた。たったそれだけで、ほっとする。
「リナおねぇちゃん、こんにちは。あのね、さっきみんなでケーキつくったの。じょうずにできたから、リナおねぇちゃんたちにもあげるわ、まってて!」
 クロエはそう言ってキッチンへ行き、リナリエッタたちにケーキとお茶を出してくれた。
 いつもと変わらぬ日常だ。ここには平和がある。
 お茶とお菓子と人形に囲まれた、夢のような世界。
 だけど、いつまでも夢を見てはいられないのだ。この日常は、もうすぐ終わる。
「…………」
 そう考えると寂しくなった。嫌だなあ、終わってほしくないなあ、と、少しだけ、思う。ほんの、少しだけだ。今更決意を揺らがせることはない。
 ただ本当に、ここは居心地がいいから。
「もうちょっと、いたいなあ……」
 ぽそりと呟くと、リンスがリナリエッタを見た。発言に食い下がられないよう、リナリエッタは笑顔を浮かべる。するとリンスも少しだけ、笑った。
 その笑みはいつもより哀しそうに見えたが、気のせいだったのだろうか。


 工房で紺侍の姿を見つけた時、さてどうしようかとベファーナは考えた。
 颯爽と離れていったわけだし、姿を眩ませようか。
 それとも何食わぬ顔をして話をしようか。
 前者は前者で寂しいし、後者はなんだかかっこ悪いような気もする。
 なので、何もしないことを選んだ。普段通りだ。適当に、少し離れた椅子に座ってクロエの淹れてくれたお茶を飲む。それだけにしようと。
 思って、いたのだが。
「やあ」
 口が先に動いていた。
 近くを通った紺侍に、軽く挨拶する。紺侍は微笑んで、「ちわ」と返した。微笑みは自然なもので、ベファーナはすぐに理解する。
 ああ、この男は幸せになれたんだな。
「いい天気だね」
「そっスね。春みてェ」
「きみ、春が好きそうだよね」
「好きスよ。一番好きなの夏っスけど」
「ああ。確かに、しっくりくる」
 他愛のない会話を少し交わすと、紺侍は手を振って去って行った。こちらもひらひらと手を振って返す。
「幸せそうで良かったよ」
 去り行く背中に向け、自分にしか聞き取れないくらいの小さな声をかけると、ベファーナは静かに目を閉じた。


「……サンタさんが、クロエにプレゼントを持ってきたのです」
 こちがクロエに手向けたのは、別珍のリボンだった。
 きょとんとした顔でこちの手元をじっと見るクロエに、「つけてあげます」と言ってこちはリボンを結んであげた。
 以前、クロエがこちのためにと用意してくれた青いリボンと対になるように作ったリボンだ。
 赤い生地に、白いレースとビーズで飾り付けをしてある。裁縫を教えてくれたのはアドラマリアだから、細部まできっちりこだわった。
「……よく似合っているのです」
「ほんとう?」
「こちは嘘をつきません」
「そうね。そのとおりだわ。……うれしい」
 クロエは、本当に嬉しそうに笑った。笑顔を見て、こちの胸に複雑な感情が生まれる。
 嬉しい。けれど、切ない。
 それはきっと、別れが近付いていることを知っているからだろう。
 でも、と思い直した。
 こちとクロエは、深いところで繋がっている。少なくともこちは、そう信じている。
 私たちは同じだ。
 同じだから、遠く離れてもわかり合える。
「クロエ」
「なぁに?」
「いつも一緒です」
「?」
 離れ離れになってしまっても、互いに贈り合ったリボンが傍にあるように、気持ちも傍にあるのだ。
 ――だから、哀しくないのです。