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あなたに届け、この想い!

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いつまでも一緒に

 建物に入ったリュースは、用意された料理もおまじないにも目もくれず、人気のないテラスへやってきた。
 心を洗い流すように見上げた月は薔薇園を照らしていて、色んな思い出が蘇ってくる。
 どんなときも一緒だった。傷つけてしまったこともあったけれど、どうにか修復して壁は2人で乗り越えてきた。
 だけど今日、彼が持参したグラスは1つだけ。持って来たワインを注ぎ、1人でその香りを楽しむ。
(こことは違うけれど、あれも薔薇学の薔薇園だったけ。彼女の誕生石色のリボンを結んだ薔薇を差しだしたのも)
 そのときの驚いた顔も、改めて告白した時の嬉しそうな笑みも。お正月にデートした時の照れた顔だって、全部覚えてる。
(思い出をありがとう。どうかあなたは、オレが好きだったあなたのままで……)
 未練があるとか、後悔しているとかではなく、今でも大切な彼女の幸せを遠くから願い、純粋に出逢いを感謝したかった。
「リュース兄様、こちらにいらしたのですね。お月見しましょう?」
 突然やってきたシーナがトレイを抱えてテラスにやってきた。
 よく食べるリュースのために沢山料理をとってきてはいるが、どれも冷めかけてしまっている。
「ああ、構わないけど、今日はデート……」
「私、リュース兄様とお出かけしたかったんです。それとも、室内プールへ連れて行ってくれますか?」
 クスクスと笑うシーナに負けて、リュースはワインを飲みつつ兄妹で過ごす。
 ありがとうと伝えたい相手がもう1人増えたことに幸せを感じながら、遅くまで他愛ない話をするのだった。
 そして、その建物の裏手。ひっそりとした場所で1人庭園を眺め座っているのは白波 理沙(しらなみ・りさ)
 互いに近くにいることは気付かず、彼女もまた同じように月を眺めていた。
 合間を縫って、共に過ごしてくれた時間は今でも色あせない宝物だし、変わらず好きだ。
 ずっと一緒にいたいと願ってた。けれど、好きだからこその寂しさに耐えられなかった。
(大事な場所があるなら、それを奪うことなんて出来ない。寂しいなんて言えないよね)
 リュースを嫌いにならないための方法。これは、互いが好きなままでいられるように、2人で決めた距離だ。
「……よっし! 恋愛運アップのおまじないでもしに行こうかな!」
「うわ……っ!?」
 気合いを入れて立ち上がると、物静かな場所を探していた鬼院 尋人(きいん・ひろと)が思わず悲鳴を飲み込む。
 いつもの笑顔で謝ると、理沙はそのまま駆け出した。
 吹っ切るための出逢いなんて求めてないけれど、初詣デートでも恋愛運上昇を願った自分らしく。
 それが、彼も望んでくれている自分だと信じて、心からのありがとうを伝えてくれるように月に願いながら立ち去るのだった。

 尋人は暫し理沙の背を見送っていた。
 彼女の金色の髪尾が月明かりの下に踊って薔薇園の向こうへ消えていく。尋人は軽く辺りを確かめてから、小さく息をついた。彼女の足音は遠ざかり、向こうの方で慎ましく盛り上がる楽しそうな気配も遠い。
 どこからか弦の調べがうっすらと聞こえていた。風が、髪先を揺らし、目元を撫でていく。小波のような薔薇と葉々の囁き。
 静けさの中へ放り込まれたような気持ちになる。
 花香の中で、尋人はぼんやりと夜空を見上げた。
 お月見とか、そんな情緒的な行事に関心を持った事はなかった。今日だって、ただ賑やかな様子に惹かれて足を運んだだけだったが――
「月、か」
 知らず零れた。
 夜の闇に、ほつりと白く在る。
 手が届かない、暗がりの中の孤高の光。
 それは、手に入れたいと口に出し、そう望むだけで、手に入るような、並び立てるような、そういうものではない。
「……あの人と似ている」
 呟きをさらった地上の風が、また薔薇に囁きを促す。尋人は空を映す瞳をわずかに細めた。
 大切にしている人がいる。
 恋人でもなんでもないし、約束を交わしているわけでもない。
 ただ、己がこの胸の内で大切にしている人――
「あの人のライバルになりたい……」
 小さく零した言葉。
 それは、誰にも告げたことのない密やかな決意。「でも」と紡ぎ、遥かな高みの光を見詰める目をわずかに強める。
「同じ月は二つはいらない。オレはオレらしいイエニチェリを目指す」
 尋人は、彼の人の薔薇園に降り落ちる月光の中で、静かに誓った。


「綺麗なまんまるお月様です」
 薔薇園の隅のベンチに腰掛けたオルフェリア・クインレイナー(おるふぇりあ・くいんれいなー)が、空を見上げながらふくふくと笑む。
 ミリオン・アインカノック(みりおん・あいんかのっく)は、「はぁ」と生返事を返した。
 彼は目の前の路に置かれた一輪の黒薔薇を見ていた。月明かりに照らされたそれは、少々不自然なほど堂々と路の真ん中に横たわっている。
 先ほど、オルフェがおもむろに置いたものだ。
 あれは、一体……。
 何かしらの意味があるのだろうが、一向に思いつかず、ただじっと黒薔薇を見据えていたミリオンをよそに、オルフェが月を眺めたままのんびりと続ける。
「オルフェは、お月見をするのは初めてで、どうすれば良いか分からなかったですが……こうしてお月様を見上げながらおしゃべりをするのは、とっても素敵ですね」
 彼女はどうやら少しはしゃいでいるようだった。楽しそうだ。それは素晴らしい。ミリオンにとって崇拝し敬愛すべきオルフェリアが幸福であるということは何よりも重要なことだった。なにせ、彼にとって彼女は”神”なのだから。
 しかし、それはともかく、やっぱり路に置かれているアレのことが気になって仕方が無い。
「オルフェリア様……我も月見というものは初めてなので、よく分かりませんが――あの路に置かれた黒薔薇には何かの意味があるのでしょうか?」
 ミリオンの問いかけに、オルフェリアが月を見上げていた顔を下ろして彼の方へ向け、よくぞ聞いてくれたという風に顔を輝かせた。
「あれは恋のおまじないなのです。黒薔薇を置いておき、意中の方がそれを拾えばその恋は成就する、という――」
「意中の人っ……!?」
 思わず、ミリオンはガタッとベンチを立ち上がりかけた。はっ、と留まって無理やり咳払いをしてから、ベンチに腰を戻しつつ、
「オ、オルフェリア様に、意中の方がいらっしゃったというのは初耳でした……」
「居ないですよ?」
 オルフェリアが笑顔のままキョトンっと首を傾げてくる。
「は?」
 我ながら結構な間抜け面をさらしたかもしれない。が、オルフェリアの方はこちらの表情など気にもとめずに、機嫌良さそうに黒薔薇の方へと顔を向けていた。
 楽しそうに頭と足を揺らしている。
「誰が拾ってくださるか楽しみです!」
「……は、はぁ」
 いまいち彼女の考えは読み切れない。しかし、ふと――ミリオンは思い立って、そろりと尋ねてみた。
「あの、では、例えば……我が、あの黒薔薇を拾った場合――」
 オルフェリアが、はて、と「?」を浮かべながら小首を傾げる様を見て、ミリオンは心が折れた。
「い……いえ、んでもありません、忘れてください」
 自分のことは完全に眼中に無いというのは分かっていた。しかし、へこむ。
(……とはいえ、我は我が神の望むままにご一緒させて頂かなければ)
 例え誰が拾おうとオルフェリアの味方をする。そんな悲しい誓いを立てた矢先――

「……なぜ?」
 薔薇園を出ようとしていた尋人は、ぽつりと路の真ん中に堂々と落ちている黒薔薇を見下ろしながら、眉を潜めた。
 しばし、それを見つめ、どうすべきか逡巡してから、尋人はハッと視線に気づいて顔を巡らせた。
 少し離れたところでベンチに座っていたオルフェリアとミリオンが、何やら熱心にこちらを見ている。
 片方は妙に楽しそうで、片方は妙に切なさそうだ。
 正直、わけが分からない。
 わけが分からないながらも、なんとなく逃げてはいけないような気がして、拮抗状態になる。
 それは……結局、尋人が黒薔薇を拾うまでの間、しばし続いたのだった。

 
 書庫――
 ミヒャエル・ホルシュタイン(みひゃえる・ほるしゅたいん)は、床に広げた呪文書に囲まれながら、綴られた文字を熱心に目で追っていた。
 そばには神無月 勇(かんなづき・いさみ)が居た。彼は書棚に背を預けるように床へ力無く座らされ、光の無い瞳の先は虚空を漂っていた。
 彼は心が壊れてしまっている。
 唯一、反応を見せるのは抱いた時だけだが、そうした時であっても彼の心は”そこ”には無い。
「これも……」
 望む内容を見つけられず、ミヒャエルは書を閉じた。次の呪文書を探すために上げた視界へ勇の姿を掠め、彼は薄く歯を噛み擦った。
 と――人の気配を感じて振り返る。
「見つかったかい?」
 書庫の入り口に立っていたルドルフの問いかけに、ミヒャエルは首を振る代わりに薄く笑んだ。自虐だ。
「月明かりを利用しての『おまじない』……そんな子供騙しでも可能性があるのなら、と思っていたけれど。いささかもう馬鹿馬鹿しさに気づいてきたところだよ」
「彼の心はきっと取り戻せる」
 ルドルフが書庫の床を鳴らしながら勇の方へと歩み、彼の前に跪く。
 ミヒャエルはそんなルドルフの背へ目を細めた。
「精神の不安定な強化人間に対応する天御柱なら? 学舎は悪人を許したが、心を壊した者を救ってはくれない」
「強化人間の副作用と今の彼の状態は別物だよ。あちらでの治療に期待は持てない」
 ルドルフが振り返り、続ける。
「……ヘルの件は校長の決定だった。洞察力に優れた方だから、深いところで何か察するものがあってのことだと思う――……もちろん、その本意は校長のみが知るところだが」
「勇のことも?」
「見捨ててはいない。校長も学舎も、彼が美しい薔薇を咲かせると信じている。……君たちが彼らを信じられなくとも、だ」
 ルドルフの言葉に、ミヒャエルは感情の無い笑みを浮かべた。
「随分と勝手な話のように聞こえるよ」
「……そうだろうね」
 そう少し寂しげに言葉を解いたルドルフの横を、影が過ぎた。
 それは、勇で――彼は微笑みながらミヒャエルに近づき、愛しそうに”名前”を呼んだ。
 ミヒャエルは彼を見据えて、静かに告げた。
「違う。僕は君の死んだ彼女じゃない……」
 勇がミヒャエルに優しく腕を絡めて顔を寄せる。その瞳には、やはり光など無かった。
 冷えた唇の感触が離れ、ミヒャエルに寄り添ったままの勇の手がそばに散乱していた呪文書で戯れる。その呪文書はまだ確かめていない。
 ミヒャエルは勇の手の下から書を拾い、彼を片手に抱いたまま、それを確かめた。
 しばらくの間、ミヒャエルがページを捲る音だけが聞こえていた。
 一つ。見つけて、ミヒャエルはルドルフを見やった。ルドルフが仮面の下に真剣な表情を覗かせながら頷く。

 おまじないを終えた刹那、ミヒャエルは勇の瞳の中に、ほんの一瞬だけ、正気の光を見たような気がした。
 深い暗がりに仄めかされたのは、かすかな希望。


 呪文書の収められた建物から出たルドルフはヴィナ・アーダベルト(びな・あーだべると)に声をかけられた。
 そして、ふいにキスを。
 ルドルフはキスを受けたそこを指先で撫でながら、ヴィナを見やり、軽く首を傾げた。
「これは?」
「魔除けだ」
 ヴィナが悪戯気な表情を覗かせながら笑って、
「こんな月の綺麗な夜に君が他の誰かに口説かれるのは癪だからね」
「なるほど。それで君は――」
「これからテラスで妻と過ごす」
 ヴィナが悪びれ無くにこやかに言う。
 ルドルフは小さく口元を笑ませ、
「月が高くなり、少し冷えてきたようだね。持参するならホットワインを」
「そうしよう」
 そうして、ルドルフはヴィナがテラスへ向かう背を見送った。

 月の下で交わしたキスは、暖かなワインの香りを持っていた。
 カシス・リリット(かしす・りりっと)は、にまにまと楽しそうに彼を見つめるヴィナの視線から逃れるように、円い月を見上げた。
 そして、色々と言いたいことを三つくらいすっ飛ばしてしまいながら、
「……恥ずかしいったらないな」
 カシスはボヤいた。なにせ彼は今、ヴィナの膝の上に座らされている。
 ヴィナの腕がカシスの腰を抱き寄せ、ヴィナの頬が耳元に寄った。耳を擽る気配に、彼もまた月を見上げたのだと分かる。
「ルドルフさんのことはね――」
 片耳だけに聞こえる、ヴィナの声。
「最初は父親のような気持ちで……つまり、どちらかというと父性愛だった。でも、今は恋愛感情で愛してる」
「ああ」
「君や、もう一人の奥さんの事も、彼の事も、全て本気なんだ。どれも選べない――ごめんね」
 その言葉に、カシスは小さく嘆息して身を捩った。ヴィナの肩に腕を回しながら彼の顔をじっと見つめる。
「謝る必要なんかないだろう。お前は俺達三人を選んで愛してくれているんだろう? それも三等分の愛じゃなく、三倍の愛でもって」
 カシスを見返すヴィナの金色の瞳の中には、カシスの真っ直ぐとした表情が映っていた。
「それを分かっているから、俺達もヴィナを愛してるんだ」
 カシスは「信じてるんだよ」と続け、ヴィナの頬に唇を掠めながら肩口に顔を寄せた。
「だからヴィナも、ごめん、なんて言わないで」
 囁くように言う。彼が、彼の愛する人皆で幸せになりたいと思っていることなんて知っている。知っていて、こうしている。都合の良い話だなんて思っていない。それを伝えておきたかった。
 ヴィナの手がカシスの頭を抱き、鼻先が彼の首元に押し付けられる。愛してる、と声は落とされた。
 それは、頭の芯を甘く痺れさせ、身体の深いところに届いた。


 薔薇園――
 ロザリンド・セリナ(ろざりんど・せりな)は花びらを一枚、小さく謝りながら摘んだ。そうして、近くに置かれた小さなテーブルへ呪文書を開き、紙に薔薇と同じ色のペンで呪文書にある文様と文字を書き込んでいく。
 この呪文書は先ほど訪れた書庫でミヒャエルに渡されたものだった。
 書庫を訪れた時、ロザリンドは彼に、おまじないを探しに来た、と告げた。恋の、勇気を持てるおまじないを。
「勇気、か」
 と、ミヒャエルは口の端を上げ、何処か複雑な表情で笑んだ。幾冊もの呪文書が広げられた書庫の床に腰を降ろしていた彼の背には、彩の無い瞳をした青年が寄り添っていた。
 ロザリンドが青年のことをミヒャエルに尋ねようとした時、ミヒャエルが一冊の呪文書を彼女に差し出した。
「この書に記されたものは、効果があるかもしれない。ほんの少しだけなら、保証してもいい」
 薔薇園に降る月灯りの下。
 呪文を映し終えて、ロザリンドは呪文書に従って花びらへ、自分の気持ちを伝えたあの人の名を書いた。
 後は誓いを添えるだけ。
 そこで、ロザリンドはペンを止め、小さく息を零した。
 頭にあったのは、好きなあの人と共にいることに伴なうだろう重圧や困難だった。
 今なら、それでも共に歩みたい、と心の底から言える。如何なることにも立ち向かってみせると……今なら。
 しかし、本当にその時――様々な出来事に打ちのめされ、立ち上がる暇も無くまた叩き潰されるようなことがあった時に――果たして自分は同じように思うことはできるだろうか。
 もし、ほんの少しでも自分の選んだ道を疑ってしまったら……。
 それは、とても恐ろしいことだった。そのことを想うと心がキリリと冷えて怯えてしまう。
 だからこそ、勇気が必要だった。
 この先に進むなら、もう後悔はできない。”今”の自分が決めた覚悟を信じて歩み続けなければいけない。欲しいのは、その一歩を踏み出すための、勇気。
 ロザリンドは名の書かれた薔薇のひとひらを持って、月にかざした。
 己の胸に触れる。
「何があろうとも、私は……今ここにある気持ちを信じ続けます」

 想いを込め、丁寧に呪文紙を折り、花びらをそれに包みこんでいく。
 包まれ、呪文と満月のかすかな魔力で、花弁はいつまでもその形と色を保ち続けるという。
 そうして、ロザリンドは、その小さなひとひらに込めた想いを手に、もう一度、月を見上げた。