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ピラー(前)

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【九 ナラカ・ピット】

 ピラーに巻き込まれぬよう、ブリル集落から南側のルートに迂回しながら、シャディン集落を目指すバンホーン調査団。
 本来の目的はピラーに関する調査のみであったが、この段に至っては、急を要する。
 調査に使用する五台のジープや二台のキャンピングカーには、まだ相当に人員輸送の余裕がある為、一時的に調査活動を中断し、避難支援に回ろうというバンホーン博士の指揮の下、調査団はシャディン集落に向けて猛スピードで大地を駆け抜けていた。
「ミネルバちゃんね、先に行ってくるよー!」
 力仕事は大の得意であるミネルバが、羅儀の運転する軍用バイクのサイドカーに陣取り、調査団に先行してシャディン集落に向かう運びとなった。
 ミネルバと入れ替わる形で二番目のジープに乗り込んだ白竜が、表情を引き締めて羅儀に敬礼を贈る。
「気をつけて」
「あぁ、任せな」
 白竜との短いやり取りの後、羅儀はアクセルを切り替え、ミネルバともども豪風吹き荒れるシャディン集落へと急いだ。
 一方、三番目を走るジープでは、後部シートに並んで席を取っているエースとメシエが、ふたりして眉間に皺を寄せている。
 どういう訳か、シャディン集落に近づくにつれ、妙な警戒心が自ずと湧き起こってきているのだ。
 エース達の様子がおかしいことに、カイは助手席からバックミラー越しに気づくと、上体を背もたれの上から乗り出す格好で、後部シートに向けて身をよじった。
「どうした? 何か、あったのか?」
 カイに呼びかけられ、一瞬エースはメシエを顔を見合わせ、どう答えたものかと迷ったのだが、抱え込んでいても仕方が無いので、思い切って訊いてみることにした。
「ん? あぁ、いや……あのさ、オブジェクティブって知ってるかい?」
 エースにそう問いかけられた瞬間、カイの表情が戦慄に凍りついた。
 歩やザカコといった面々からの連絡で、マーダーブレイン出現の疑いあり、との報告は聞いていたのだが、まさかこのふたりからオブジェクティブの名を聞くことになろうとは、思っても見なかった。
「何故、オブジェクティブを知っているんだ? 俺は話した記憶が無いが……」
「それがさぁ、変な話なんだけど、勝手にこう、何ていうかなぁ……頭の中に思い浮かんできたんだ。バスターフィストがどうのこうのっていう思念がね、映像のような音声のような、よく分からない情報として流れ込んできたって感じかなぁ」
 エースの要領を得ない説明に、隣のメシエも曖昧に頷くばかりである。
 オブジェクティブの何たるかを知らないエースにとっては、何とも表現のしようが無く、もどかしげに表情を歪めるばかりであったが、カイにとっては冗談事では済まない話であった。
 マーダーブレインのみならず、バスターフィストの名まで出てくるとは、完全に予想外だった。
 自分では測り知れないところで、何かが起きている。
 カイの胸中に、焦燥の念がにわかに湧き起こってきた。

 一方、一台目のキャンピングカー内では、ノートパソコン前でひとり唸っているバンホーン博士の左右から、ロザリンドと円、そしてオリヴィアといった面々が、不安げな面持ちで覗き込んできている。
 猛スピードで疾走している為、キャビン内は酷く揺れており、足場が不安定だった。
 オリヴィアは比較的足腰の強い方であったが、ロザリンドと円は何度もバランスを崩しかけ、その都度、オリヴィアに助けられるということを繰り返していた。
 そうまでして、彼女達がバンホーン博士が示すノートパソコン上の動画データに見入るには、それなりの訳があった。
 この動画は、実はリリィが愛馬を駆けさせながら、その鞍上で撮影したものを、携帯での通信で送ってきた物である。
 多少画面がぶれていたり、時折リリィの声で、
『うわぁー……うわぁー!』
 などという感嘆の声が混ざっているのはご愛嬌ではあったが、しかしそこに映し出されている映像は洒落でも何でもなく、大地を抉りながら突き進む破壊神そのものの姿であった。
 だが、バンホーン博士が注目しているのは、ピラーそのものではない。
 一瞬ではあったが、リリィの送ってきた動画の中に、絶対に見落としてはならないシーンが映り込んでいたのである。
 それは、シャディン集落方面に携帯カメラのレンズが偶然向けられた瞬間だったが、明らかに、異様だといい切れる光景がはっきりと記録されていた。
「博士、これは……この光は……」
 円が息を呑みながら、ノートパソコン上で一時停止している動画の、その部分を指差す。
 その傍らではロザリンドが、旧キマク管掌モルガディノ書庫で入手してきた一冊の文献を広げ、そこに記されている文言にじっと視線を落としている。
 リリィの携帯が一瞬だけ映し出していたのは、シャディン集落内のある一点から、上空に向かって噴き出ている、淡い紫色の光柱であった。
 ロザリンドが広げている文献のある項に、ナラカ・ピットに関する記述が残されている。その記述によれば、ナラカ・ピット出現に際して、その上空に淡い紫色の光柱がそそり立つ、という現象が付随するらしい。
 ピラーはナラカ・ピットを終着点として、シャンバラ大荒野内を彷徨いながら、破壊の嵐を撒き散らす。そして、そのナラカ・ピットへピラーを誘う役割を果たすのが、クロスアメジストである。
 これまでの調査でそこまでは分かっているのだが、問題は、柱の奏女なる存在の役割が、未だ不明のままだという点であった。
 まだ何か、決定的な情報が不足しているように感じられてならない。
 更にいえば、そもそも何故ナラカ・ピットがシャディン集落に出現したのか。その理由が、皆目分からなかった。

     * * *

 そのシャディン集落では、新たな展開が生じていた。
 ピラー接近による豪風のみならず、バスターフィストの規格外のスピードによる攻撃の嵐が、コントラクター達を一方的に苦しめていた。
 いや厳密にいえば、ルカルカ、理沙、セレスティアの三人はバスターフィストの肉弾戦にも適応し、何とか互角に凌いでいたのであるが、いかんせん、この豪風である。
 バランスを取って立ち続けるだけでも至難の技であるのに、マイクロ秒単位での攻撃速度を見せるバスターフィストを相手に回しては、ほとんど反撃に転ずる機会が得られず、防戦一方となってしまっていた。
 そんな中、突然市場全体が、見えない力によって一気に押し潰され、瓦礫もろとも、大地に巨大な穴を穿って擂り鉢状の窪みが発生していた。
 穴の深さは然程深くは無いが、その出現はあまりに急だった為、砂塵が濛々と舞い上がり、一瞬視界が完全に失われるという有様であった。
 だが不幸中の幸いで、この豪風によって砂塵はすぐに晴れた。
 その代わり、この巨大な擂り鉢状の窪みの縁に、いつの間にか複数の人影が現れていた。
 異様な光景であった。というのも、まだ五歳程の幼い少女が、これだけの豪風の中、まるで何事も無いかのように、ちょこんと佇んでいたのである。
 その周囲には、腰を抜かしたり、或いは豪風に煽られて転倒している男達の姿がある。後で知ったことだが、彼らはヴィーゴ・バスケスが派遣した遊撃守兵隊の隊員達であり、そして当然ながらその中には、フェルヴィル・ゾーデの姿もあった。
 しかしそれら男連中の顔はいずれも恐怖に歪んでおり、漫然と佇む幼女、即ちミリエルから、慌てて距離を取ろうとしている節すらあった。
 不意に、ミリエルの傍らで地面に頭から押さえつけられるような格好のネヴァンが、姿を現した。
 それまで隠れ身の術で姿を消していた筈の彼女だが、ミリエルに近づいたところで突然、目に見えぬ力に制圧されてしまい、首根っこを地面に押しつけられる形で動きを封じられてしまったのだ。
 ネヴァンの身に何が起こったのか、六黒と冴王にはすぐに理解出来た。
 今、目の前で猛威を振るうバスターフィストと同じく、姿を消しているオブジェクティブなる化け物が、そこに居るのであろうと推測したのである。
 そして更に、事態は混迷を極めようとしていた。

「ミリエルちゃん!」
 別の方角から、か細い声が精一杯の力を込めて、ミリエルの名を呼ぶ。
 見ると、ジュデット率いる視察団が、この豪風の中をおしてシャディン集落に到着していた。一行は、この巨大な擂り鉢状の窪みの縁の、別の位置に姿を見せている。
 その中からミリエルに呼びかけていたのは、歩だった。
「ミリエルちゃん……やっぱり、あの大きなひとと、一緒に居るんだ……?」
 豪風の爆音に掻き消されそうな程の小さな声音で、日奈々が悲しげに呟く。マーダーブレインの正体については、既に美羽やあゆみから聞かされており、危険な存在であることは重々承知している。
 それでもミリエルがマーダーブレインと一緒に居るということは、何かミリエルの心理に大きな影響を与えているからだと解釈していた日奈々だったが、今、この豪風の中で起きている事態から鑑みるに、矢張りマーダーブレインの存在そのものがミリエルにとって非常な脅威として立ちはだかろうとしているのは、火を見るより明らかであった。
「やっぱり、マーダーブレイン……何か企んでるんだね!?」
 美羽がジュデットの脇から顔を覗かせて吼えかかるも、ジュデットにはマーダーブレインの姿が見えていないらしく、美羽の獰猛な怒りの理由が全く分からない様子だった。
「どういうことですか? あの幼子の隣に、何かが見えているのですか?」
 ジュデットの問いかけに、一瞬美羽は答えに困った。
 正直にいってみたところで、信じてもらえるかどうか自信が無い。いや、それ以前に、今は呑気に説明を加えていられるような状況ではない。
 とにかく何か行動を起こさねばならないのだが、この豪風を前にして美羽の小さな体では、マーダーブレインの足元に接近することすら、困難を極めた。
 それは、あゆみも同様である。
 日頃は自分の体格や体重など、気にも留めたことが無かったのだが、この豪風の中では、小さな体格が如何に不利であるかということを、徹底的に思い知らされる格好となった。
 こうなるともう、誰かに頼るしかない。
 あゆみと美羽は慌てて左右を見渡した。
 が、その前に、動く者が居た。
 ザカコである。