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リアクション
【一 微かなる暗雲】
午後の昼下がり。
タシガン郊外に位置する飛空船ドックにて。
イコン用キャビンから上部デッキに至るまでの広範囲に亘って、ライブ用ステージと観客席、及び観覧スタンドへと換装を終えた大型飛空船月の宮殿は、中天をやや過ぎた位置から降り注ぐ陽光を艦全体に浴びて、堂々たる威風の中に、幻想的な光を紡ぐシルエットを蒼天の中に浮かび上がらせていた。
この規模の飛空船なら、通常であれば1000人程度の収容人数が限度であったが、観客席と観覧スタンドを設置したことで、搭乗可能人数は3000人程度にまで膨れ上がっている。
勿論、これだけの人数を乗船させて離陸するには、それなりの馬力が必要となる。当然ながら機晶エンジンもイコン輸送用大型空母並みの排水量規模相当に積み変えられており、速度こそ出ないものの、積載量に対する浮揚力は以前の数倍程度にまで引き上げられていた。
それだけの機関部改造を経ても尚、外観的な美しさを損なっていないのは、朝野 未沙(あさの・みさ)を筆頭とする優秀な整備士達が、心血を注いで工夫に工夫を重ねた結果に因る。
「何だ……集中してやれば、出来るじゃないか」
アルジャンヌ・クリスタリア(あるじゃんぬ・くりすたりあ)が、意味ありげに笑った。
未沙の付き添いとして同行していたアルジャンヌだが、今回に限っていえば、未沙の目に留まりそうな可愛い女の子がドック内にほとんど姿を見せなかったのも大きい。
いや、厳密にいえばフレイ・アスク(ふれい・あすく)やアポロン・サン(あぽろん・さん)、或いはサクラ・アーヴィング(さくら・あーう゛ぃんぐ)、更にはミレリア・ファウェイといった面々が、この飛空船ドック内に全く姿を見せなかった訳ではないのだが、ほとんど奇跡的に、未沙とは顔を合わせることが無かったのである。
もしかすると彼女達は、未沙の性格を知った上で、敢えてこの飛空船ドックを避けていたのではないか……思わずそう推測したくなる程、とにかく未沙と彼女達の接点はこの換装作業中は皆無だった。
ともあれ、未沙は自分の仕事ぶりに満足しているのか、乗船用タラップ脇で月の宮殿の威容を見上げながら、鼻を鳴らして小さく笑った。
「ま、天学のドックからここまで、じっくり時間をかけて換装してきたからね。これで下手な仕事だっていわれたらもう、どうしようもないよ」
そうはいいつつも、勿論ながら未沙ひとりの力でここまで辿り着いた、などとは当人も思っていない。
多くのひとびとの協力があったからこそ為しえた結果であり、今回の換装は、各専門分野のエキスパート達の力無くして完了は有り得なかった。つまり、それ程の難作業が幾つも立ちはだかっていたのである。
「後は、S@MPメンバーがきっちりライブを成功させてくれれば、いうこと無しだね」
幾分悦に入った表情で、ふたり揃って月の宮殿を仰け反るように見上げていると、不意に背後から、静かな声が呼びかけてきた。
「お取り込み中……かどうかは分からないが、少し、宜しいか」
振り向いてみると、薔薇の花束を抱えた青年と、名物タシガンコーヒーの焙煎済みの豆を麻袋に詰め込んで抱えているドラゴニュートという妙な組み合わせのふたり組が、そこに漫然と佇んでいた。
* * *
黒崎 天音(くろさき・あまね)は薔薇の花束を抱えて、そしてブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)は麻袋を右の肩に担ぎ上げて、サンドラ・キャッツアイ(さんどら・きゃっつあい)の案内を受けていた。
サンドラもまた未沙と同じく、月の宮殿を整備していたひとりである。その為、月の宮殿船内については恐らく最も詳しい人員のひとりであったといって良い。
天音がフレイとアポロンの居る船室への案内を求めた際、サンドラが率先して天音とブルーズを乗船用タラップ上から手招きして、ふたりを船内に招きいれた。
正直なところ、船体整備ばかりで他の仕事がほとんど無く、フレイやアポロンといったS@MP主要メンバーと接する機会が得られなかったサンドラにしてみれば、こういう仕事を引き受けない限り、中々アーティスト達と目通りすることも叶わなかった。
「お客さん方、フレイさんかアポロンさんのお知り合い? 今回初めて地方巡業に来たのに、S@MPのマネージャーが誰かって把握してるひとなんて、そうそう居ないと思うんだけど」
「いや、まぁ、色々知識欲の旺盛な、にわかアイドルファン、とでも思ってくれれば良いかな」
一瞬どう答えようか迷った天音だが、敢えてミーハーな追っかけを演ずることで場を凌いだ。こういうところの対応力は、流石である。
サンドラは気づいていなかったのだが、天音の傍らで、ブルーズが竜族特有の鋭い歯列が並ぶ口元に苦笑を浮かべ、小さく肩を竦めていた。
やがて三人は、フレイとアポロンが詰める船室前へと辿り着いた。馬鹿正直に案内標識を信じると大回りになってしまうところであったが、サンドラの案内で経路を短縮し、ものの数分で到着したのである。
サンドラが船室の金属製扉をノックすると、出てきたのは、何故かアレックス・キャッツアイ(あれっくす・きゃっつあい)だった。
「兄貴……いつからストーカーやめて不法侵入者にまで落ちぶれちゃったのさ」
「ひ、人聞きの悪いことをいわないでくれよっ。オレはただ、フレイさんの今後について、色々と一緒に考えようと思ってだな、至極真面目に相談をしてたんだよ!」
アレックスのいい分には、酷く胡散臭い雰囲気が漂う。
実際、船室内のソファーに腰を下ろして、扉口付近に視線を飛ばしてきているフレイとアポロンのきょとんとした表情には、アレックスのいう真面目な相談に顔を突っつき合わせていたというような色は、微塵にも見られない。
恐らくアレックス本人は真剣に『相談』していたと考えていたのだろうが、実際のところ、フレイとアポロンにはあまり重要な位置づけとして捉えられていなかった、というのが事実であろう。
それはサンドラのみならず、初対面である筈の天音やブルーズにも、手に取るようによく分かったというぐらいであるから、最早疑いようの余地も無かった。
「で、えーと……そちらのおふた方は、どちら様っスか?」
話を振られた天音は、フレイとアポロンに、S@MPのライブに関連する用件がある旨を告げると、その慎重な言葉の選び方や表情から何かを悟ったアポロンが、アレックスとサンドラに席を外すよう指示を出した。
「えー、オレって結局、その程度の存在だったんスかー……」
「あぁごめんごめん。別に君を軽んじてる訳じゃないんだけど、ちょっと、ね」
フレイが拝むような仕草で申し訳無さそうに笑うと、流石にアレックスもそれ以上はいえず、渋々ながらも引き下がる以外に無かった。
尤も、下手にごねるとフレイに必要外の悪印象を与えかねない、という打算が働いたのも事実ではあるが。
これに対し、天音はというと。
「やあ、噂に違わぬ美少女揃いだね……初めまして。黒崎天音です。タシガンへようこそ」
どこかわざとらしい色を含んだ笑みで、タシガン産の薔薇の花束を差し出した。
アレックスとサンドラが去り、船室内にはフレイとアポロン、天音、そしてブルーズの四者が残った。
ここで初めて天音は、自身がタシガン駐留武官である旨を告げた。
「これはこれは……駐留武官殿が態々、月の宮殿にまでご足労頂くとはね……それで、身分を隠してこっそり訪れたのには、何か特別な理由があるんだよね?」
フレイの指摘に、天音は小さく頷いた。応じるようにして、ブルーズが応接テーブル上に格式ばったフォーマットの文書を差し出すと、フレイとアポロンが思わず上体を乗り出して、食い入るような視線をその書面上に落とし込む。
そこには、天音とブルーズが調べ上げた、ジーハ空賊団保釈に関する調査結果が淡々と記されていた。
「気づいた時には、既に全員が保釈された後だった。保釈金の経路も調べたがね、随分と上手くカモフラージュされたダミー会社ってことは分かったが、一度スイス銀行経由で資金洗浄してあるようだ。足がついているのは分かったが、途中で撒かれてしまったよ」
天音がお手上げだといわんばかりに両手を挙げて、呆れたようにかぶりを振った。
対するフレイとアポロンの表情は、酷く深刻である。この保釈金で身柄が解放されたのは、先日S@MPが引導を渡したジーハ空賊団なのである。このまま何も無く終わる、と考える方が楽観に過ぎるであろう。
しかも、時期が時期だ。示し合わせたような都合の良いタイミングに、フレイやアポロンでなくとも嫌な予感を覚えるのが当然といえよう。
「初の地方巡業ライブを台無しにするつもりはないけどね……可能なら、私服軍人をいざという時の避難誘導に配備しても良いかな? 観客に何かあれば、巡業どころじゃなくなるでしょ」
ところが意外にも、アポロンは否、と答えた。流石に予想外の回答だったらしく、天音とブルーズは顔を見合わせたのだが、続けて為されたアポロンからの説明には、納得せざるを得ない。
「その申し出はありがたいんだけど……駐留武官殿の権威はあくまで、タシガンに対してのみ通用するものだから、月の宮殿上ではコリマ校長の許可無しに、勝手に国軍を警備に就けることは出来ないんだ」
曰く、単純な手続き上の問題に過ぎないのだが、これが案外馬鹿に出来ないものなのだという。つまり、六首長家の独立性を損ねる可能性を少しでも孕んでいる場合は、例えそれが好意に因るものであっても、おいそれと受けることが出来ない、というのである。
この辺の機微は、制度や規律に煩い教導団の一員たる天音にも、痛い程、よく分かった。
「ま……月の宮殿はある種の治外法権に当たるからな。他地方への旅行に出かけたタシガン民が事故に遭ったからといって、駐留武官が態々出張してまで救護に出ることが出来ないのと同義って訳だ」
それが、国際法の難しいところである。天音は渋い表情で頭を掻いたが、こればっかりは納得して、引き下がる以外に無い。
フレイとアポロンも申し訳無さそうな面を向けるばかりであったが、この時ブルーズが、重たい空気をひっくり返すように、妙に明るい調子で話題を変えた。
「ところでだな……タシガンコーヒーは上物中の上物だ。苦味とコクには、特に定評があるぞ。だが、苦い物が苦手ならカフェオレにしても良いだろう。我がお勧めするミルクとの比率は、7対3が黄金比だ」
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