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夏の海と、地祇の島 前編

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夏の海と、地祇の島 前編

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 1/ ビーチの様相
 
 この島。正式な登記上は「クロム・パラディア島」というらしい。
 ……というのを、ガイドブックで読んだ。
「マスター、はやくはやく! もう皆さん、はじめてらっしゃいますよ!」
「お、おう」
 契約者の少女、フレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)にそう言われ、手を引かれながらもどこか、ベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)の心はこの海岸において上の空だった。
 この島の主、地祇に泳ぎを教える。それはいい、いいんだけれど。
 せっかく南の島、バカンスにきているのだ。できたらもっと、ふたりきりであれこれしたいなぁという下心が先立つのが正直なところであり。
 フレンディスの肢体に、それを包む水着はよく似合っていた。彼女は、その上からパーカーを羽織ってはいるけれど。その彼女を、ぶっちゃけ独り占めしたい。

 いや、ほんと。
 だって。夏じゃない。他に理由がいるか? ここ、大事よ。

「マスター?」
「あ、悪い」
 きょとんとしたあどけない表情で、フレンディスがこちらを振り返っている。
 ほのかに、肌には汗が浮いていて──どきりとしつつ、ベルクは彼女の背中を押し、そのあとに続く。まだだ。まだ、強く出なくていい。
「ほら、行くんだろ。泳ぎ、教えに」
「あ、はい」
 バカンスはまだ、はじまったばかりだ。時間はたっぷりあるし、ふたりきりになるチャンスも、いくらでもある。
 慌てることはないさ。
 踏み出した素足が波打ち際の濡れた砂を踏んで、そしてさざなみを浴びる。
 その冷たさが、照りつける太陽の暑さと対照的で、心地よかった。
 ベルクは、ひとまず待つ。大切な人と、ふたりっきりで過ごすことのできるチャンスを。

 待っている。

  *   *   *
 
 冷たい舌触りが、ヒンヤリとしていて爽快だった。
 スチロールの、ペンギンのイラストの描かれたカップに盛られているテーブルサイズの雪山には、緑色の素敵な装飾が施されている。
「あ、おにーさん。やきそばひとつー」
 ああ、やきそば。それもいいですね。実に海の家らしい。素晴らしい。
 ラーメンとか、カレーとか。たこ焼きとか。畳敷きの、純和風のまさしく海の家。その座敷で扇風機の風に吹かれながら、御凪 真人(みなぎ・まこと)はそこでメロン味のかき氷をぱくついている。
 隣に座るは、引率者。真人とそのパートナーらをこのバカンス旅行へと連れてきた張本人、卜部 泪(うらべ・るい)先生である。
 泪先生の握ったオレンジジュースの缶が、暑さで表面に汗をかいている。直射日光の下は、もっとすごい暑さに違いない。

「あっちは、なかなか苦戦してるようですねぇ」
 
 うん、自分はこっちでいいなぁ。心から、真人は思う。
 練乳のかかったところを、スプーンで掬ってぱくり。
 運動、というか体育会系でない自分には泳ぎより、やっぱりこのほうがそれらしい。思いつつ、真人は冷たい刺激に目を細める。
 冷たい。うまい。
「まあ、上達なんて人それぞれですしねぇ」
 泪先生の肩越しに、パートナーたちのいる海のほうを見て、真人はそう呟いたのだった。

*   *   *

 うーん、これはわりと重症かもしんない。

「あ、彩夜ちゃん!?」
 その背中を支えて、仰向けに浮かせていた山葉 加夜(やまは・かや)の手が離れた瞬間、少女の身体は浅瀬の水の中に沈んでいく。その様子に、頬を掻きながらセルファ・オルドリン(せるふぁ・おるどりん)は思う。
 すぐ立ち上がれば、水位そのものは腰くらいまでしかないのに。
 パニックになってじたばたもがいて、水の中で転んで余計に混乱をして。セルファと加夜に両腕を掴んで引き上げられて、涙目で咳き込んでいる水着の少女──詩壇 彩夜(しだん・あや)
「まさか、ここまで重症とはね……」

 うーん、この。どうしたもんか。こうも浮かないとは。

「やっぱり、無理ですよぅ……けほっ」
 本来、自らが教える側となるべくこの島を訪れたはずの少女はしょげかえって言った。
「そんなことないって。できるできる絶対出来る! だから、もっかい!」
「そんなこと言ったって、先輩。人間って陸の生き物なんですよ、本質的にー……」
 ああもう、ネガティブになっちゃってまぁ。
 彼女たちと一緒になって教えている小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)の励ましにも、彩夜はどんよりとしたまんま。
 こうなるとこのコもマイナス思考というか、先入観で妙に頑固になっちゃうところ、あるからなぁ。
「そう言わずに。もう一度、ね?」
 加夜もまた、彼女の肩を叩く。
「そーだ、やればできる!」
 が、同じような意味合いで向けられたはずの大谷地 康之(おおやち・やすゆき)の言葉は、むしろ逆効果と言えた。
 いや、言葉自体はいいのだけれど。

 言い放つなり、クロールで猛然と彼は「実演して」みせたから。
 全力全開のスピードで。辺りに激しく水しぶきを散らしながら、右へ左へ。

 いきなりそんなもの見せられたって、カナヅチがそこまでの同じことをやれるわけもなく。
 案の定、その様子に彩夜は硬い表情で、ぶんぶん首を左右に振っている。
 無理無理無理。……まあ、無理だろうなぁ。セルファだってそう思う。
「……まあ、康之のことは放っておいていいから。もう少し、頑張ってみようじゃないの?」
 あっけにとられる一同と、俯く彩夜とに、康之のパートナーである匿名 某(とくな・なにがし)がフォローを入れる。
 手始めにまず浮くことすらまだ出来ていないのに、あんなところまで誰も求めやしない。
「なかなか浮かないのは、やっぱり水を怖がって身体に力が入ってるからだと思う。全身から、力を抜かないと」
「……頭ではわかってるし、自分なりにやってはいるんですけど……すいません」
 ま、そりゃそうだ。感覚を掴まないと。まず話はそれからだ。
「大丈夫だって! みんなできちんと支えてるから! それにここなら沈んだって足がつくんだし! もっかい! もっかいやろ!」
「美羽先輩……」
「それに」
 加夜が、人差し指を立てて、ちょっといたずらっぽく笑い、告げる。

「『蒼の月』さん……蒼ちゃんはなかなか、順調みたいですよ?」
「えっ?」

 きょろきょろと、彩夜が胸まで水に浸かったまま辺りを見回す。
 探すのは、本来自分が水泳を教えるはずだった相手。彼女をこの島へと呼んだ依頼者の姿。

 いない。
 いない。
 いな──いや、いた。

 海辺の砂浜のような、きれいな白いサンドカラーの長い髪。
 何人かに、入れ代わり立ち代わり補助を受けながら、バタ足の練習に勤しんでいる。
 少なくとも、彩夜から見てその姿は、浮くことすらできない彩夜よりも遥かにずっと、泳ぎとしてさまになっているように見えたし、思えた。
「ほーら。彩夜だって、負けてらんないよね」
 セルファが、手を差し伸べる。その手を受け取って、小さな水音とともに彩夜は立ち上がる。
「教えに来た側が教わるはずだった側から逆に置いてけぼりじゃ、恰好つかないでしょ?」
 ベアトリーチェが、浜で飲み物用意して待ってくれてるよ。
 美羽の言葉に、彩夜は自分にとってはやはり先輩である彼女の相棒、ベアトリーチェ・アイブリンガー(べあとりーちぇ・あいぶりんがー)の穏やかな表情を想像する。
「もう少し。もう一度、がんばりましょう?」

 最後に、加夜。数瞬遅れてこくりと彩夜は頷いて、セルファに手を引かれていく。
 空いたもう一方の手を、ガッツポーズ気味にぎゅっと握って、気合いを入れている。やっぱりおいてけぼりと言われたのが、悔しいらしい。そういう負けず嫌いな一面も意外にも、あったようだ。
 そして。ちらと、セルファが残るふたりを──そして、某のほうにさりげなく振り返る。
 やったね。その意を含んだ微笑。
 顔を見合わせて笑いあう、美羽に加夜。

 ああ、なるほど。三人の見せ合うその様相に、ひとり某は合点が行ってぽんと手を叩いた。
 なるほど──うまくノせたものだ。

「う、おおおぉぉっ!! どうだ!! こう泳ぐんだ、わかったか!?」
 その点、よくもわるくもうちのパートナーは対照的だな、と思う。
「……ま、しょうがないか」
 そういうやつだものな。
 そこらじゅうを泳いで一周してきて、ばしゃりと水面から顔を上げた康之の、鼻息荒いその様子に某は苦笑する。
「って、あれ? どこいった?」
「あっち。もう一回、最初から。練習するんだってさ」
 まず、浮くところから。
 地道な練習に戻っていった彩夜たちのもとに、某も康之を連れ、合流していく。
 大きく息を吸い込んで、緊張の面持ちで再び、彩夜が水に身を任せようとしていた。
 がんばれ、がんばれ。