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夏の海と、地祇の島 前編

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夏の海と、地祇の島 前編

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5/ 月の洞窟

 そういえば、と某が、ふと思いついたように言った。
「今向かっている洞窟というのは、どういうところなんだ?」
 一同が、某のほうを向いていた。
 クルーザーの舵を握って、蒼の月もまた。

「……それを訊くか……」
「え」

 なにか、マズいことなのだろうか?
 康之とともに戸惑う、某。
「いや、な。私的になんとも気恥ずかしいというか……な」
 船の前方を見直して、蒼の月がややどもりがちに言葉を繋ぐ。
 数瞬、黙りこくって。その間、皆は彼女をじっと見つめている。
「……あ! オーナー!」
「む?」
「あそこ! クジラです!」
 と。郁乃が華やいだ興奮の声をあげ、やおらに水平線を指差す。

「おお。ほんとうだ」

 誰かさんよか、よっぽど泳ぎ上手だなー。
 恭也の言葉に、彩夜がどきりと肩を竦めて。
 クジラさんたちは、もとから泳ぐように身体ができてますから。構造上。そう、言い訳っぽく、やっぱりぎこちなく返す。
「それで、気恥ずかしいというのは?」
 終夏が、問いかける。
 蒼の月はじっと、クジラの跳ねる様を見つめていて──やがて。

 話せば、少し長くなるかもしれんな。
 そう、ぽつりと切り出した。そして、続けた。
「この海と、この島は。もともと、クジラたちの楽園だったのだよ」

  *   *   *

「楽園、か」
 遥かな昔から、ずっと。この島は少数の人々と無数のクジラたちの生きる、そんな場所だった。
 レキが、呟く。
 特に天敵もなく──それゆえ、その「天敵のいない」こと自体が、少しずつ状況を崩していったのだけれど。
 人々も、クジラたちを明確に「減らす」ほどの数はいなかった。狩猟自体、ごく稀。基本的には漁業だけで賄える程度しか、島民は存在してなかったのだから。
 それゆえ、クジラたちは増えすぎた。
 いたずらっぽくも人懐っこいクジラたちは、自らの数によってこの海と土地とを、細らせていったのだ。
 居心地の良すぎる、楽園そのものを。盛者必衰とは、言ったもの。
「だから、ここの主である『蒼の月』と呼ばれる地祇はクジラたちを外の世界へと送り出した。広い海原へ」
 レキや、翠たちとともに。『蒼の月』に教わった洞窟へと歩き、向かいながらシズルは語る。
 迷子になるとしたら、あそこしかあるまい。
 海流と、島の構造からそう、地祇の予測した場所へ。
「残ったのは、一部の子どものクジラたちだけ。彼らの子孫や、外の海に旅立ったクジラたちの子孫の一部が戻ってきて、今のこの海にいるクジラたちが形成されていった……そんなところね」

 彼女たちの向かう先。それは『蒼の月』がそう呼ばれるに至った、その由来となった場所。
 その洞窟の名を、『月鏡の洞窟』。

「あ、あそこっぽいですぅ」
 先頭を行くスノゥが、前方を指差す。
 日が、陰り始めている。真っ赤な夕日が、皆を暖色に染めている。
 そこに、先客がいた。
「おや」
 ダイビングの装備を外して、身体を拭っている二人組。
 すぐそこの岩場からまさしく上がってきたばかりという様子の彼らは、柳川 英輝(やながわ・ひでき)に、マナ・アルテラ(まな・あるてら)
「ありゃ。けっこうな穴場と思ったんだが、そうでもなかったか?」
「っと」
 翠が、向けられたファインダーからのフラッシュに、手を翳す。
 とりあえず一枚とばかりに、マナが手にしたカメラのシャッターを切ったのだ。
「まあ、伝承ですからねぇ。知ってる人や、耳にした人はきちゃうんじゃないですか?」
「それもそうか」

 よっしゃ、行こう。
 英輝が、口を開ける洞窟を見上げる。中は暗い──けれどまだ、いくぶん最初の数メートルくらいは入っても見えそうだ。
 この、陸の側。そして海の側と両方に入り口となる穴が空いているおかげだろうか。

 いや──それ以上に。

「水面の満月、か。今日はちょうど満月だしな」
 ここからではわからないけれど、洞窟の頂点にはやはり、大きな穴が空いている。
 それは、静謐で冷涼な洞窟の中に満ち引きする海面の真上にあって。
 昼間は太陽の光が弱まりながらも真っ青な、暗い水面に届いて──夜は、ちょうど満月の時だけ月の淡い輝きを、そこに映す。

 昼も、夜も。夜はときどきだけれども、水面に蒼き月の幻影を、映し出すのだ。

 *   *   *

「あ! あそこ! クジラが!」
「え!? どこどこっ!?」
 水着を着替えて、再び海水浴に興じて。
 そこそこの時間が既に経っていたと思う。その最中に、パートナーの上げた歓声に、レティシアもまた彼女の見る方角にその原因となった野生動物たちを探す。

「ほら、あそこ! 二頭、いや、三頭!」

 ミスティの指差す方向。それを追う。
 どこだ。水平線──おお、いた。

「おおー!」
 クジラたちの潮吹きが、水面高く、きらきらと夕陽を浴びて輝いているのがここからでもわかる。
「すごいですねー、あれは」
「れ? 泪先生」
「ここからでもこれだけ見えるってことは、ツアーはすごいんでしょうね」
 ツアー? とな?
「ええ。ホエールウォッチング。ホテルや桟橋のところで、一日に何度か募集してるそうですよ」
「そうなんですかっ!?」
 ミスティが、目を輝かせる。レティシアも、同様。
 もっと間近で、あの大きな生き物たちを見られる。
「誰でも参加できるんですか?」
「みたいですよ……あっ?」
 興奮して、レティシアは思わず両手をぶんぶん振り乱した。
 きっとそのせいで、しっかり結べていなかった水着の紐が、緩んだのだろう。

「れ、レティ!! また!!」
「おおーう?」
 上半身が、全開になったわけである。
「大丈夫ですぅ」
「いいから、はやくつけなおして!!」
 はらりと落ちた自身の水着に、パートナーの怒鳴り声を聞きながらレティシアは、今度は見失う前に手を伸ばしたのだった。

  *   *   *

「と、まあ。どうじゃ。水面に映る月。なかなか、ロマンチックであろう?」
「そっか。だから──『蒼の月』」
「蒼ちゃんの名前の由来は、そこからきているんですね」

 ほのかに上気して赤くなった顔で、蒼の月はそう締めくくった。
 美羽が、加夜が。口々に、似合っている……とか。素敵だ、とか、感想を漏らす。
 蒼の月は恥ずかしそうにしながらも、少し誇らしげでもあった。
「島の者たちが、な。つけてくれた大切な名だよ」

 この、『蒼の月』という名前。彼らとの、絆だ。
 だからこそ私はこの地を豊かにし、また同時に守っていかなくてはならん。蒼の月は、舵を握り、意を言葉にする。

「あ、見えてきましたよ。あれですね?」
 プラチナムが、前方の岩場と──その中心に座す、大きな洞穴を見つけ、皆に告げる。
「よっしゃあ、一番乗りはもらった!」
「あ、康之!?」
 勢い込んで、康之がクルーザーから海に飛び込んでいく。そして猛然とクロールに泳ぎ始める。
「あ! 私もー!」
 続いて、郁乃も彼のあとを追う。競争になった形だ。
「あっ!? ……いいんですか?」
 ここ、深いですよね? 多少。彩夜が、競争しはじめたふたりを、「信じられない……」という面持ちで見つめながら、蒼の月に訊いてみる。
「まあ、大丈夫だろ。たしかにこのあたりは深いが、潮の流れは洞窟に向かっておる。泳ぎも達者な連中だし、問題あるまいて」
「ですか」
 多分、カナヅチの彼女からしてみればあり得ないことをしている、という風に映っているに違いない。

「彩夜、顔ひきつってるよ」
「……否定はしません」

 美羽の言葉に対し返ってきた彩夜の溜め息が、クルーザーに乗る一同へと苦笑を誘った。