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1.吉報の一方で脱走劇。


 女性であるなら、月に一度来るはずのもの。
 生理が、来ない。
 ――おかしいな……。
 身体の調子も良いとは言えず、蓮見 朱里(はすみ・しゅり)はさすがに不安に思う。
 何か普段と違うことをしてしまっただろうか。記憶を遡って考える。
 考えた結果、一つの可能性に思い至った。
 それは二ヶ月ほど前、ライナスの研究所で見た出来事。
 機晶姫の出産。
 ――機晶姫が出産するなら。機晶姫には生殖能力があって……つまり、
 朱里はちらりとアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)の顔を見た。
「アイン……」
「? どうした、朱里?」
「あの……ね。体調が悪いの。病院、付き合ってくれないかな」
 そして向かうは産婦人科。


 日を同じくして、コトノハ・リナファ(ことのは・りなふぁ)は腹痛に襲われていた。
 腹痛? 違う、これは。
 ――陣痛……?
 ――そんな。予定より早い……。
 ――初産だから、予定より遅れるものだと思って……いたのに。
 ――ああ、でも、マホロバ人は一ヶ月で出産するみたいですし……。
 ――剣の花嫁も、出産時期は早いのかなぁ……。
 気が遠くなるような痛みの中、意識を繋ぎとめるためにも考え続ける。
「コトノハ。コトノハ!?」
 異常事態に気付いたルオシン・アルカナロード(るおしん・あるかなろーど)がコトノハの肩を抱いて名前を呼び掛けてきた。ぎゅ、とルオシンの服を握り、
「ルオシンさん……破水したみたいです……」
 コトノハは現状を伝えた。
「何ッ!?」
「あう、赤ちゃん……産まれ、ちゃうんですか。ね。痛い……」
 うわごとのようにぽつりぽつりと言葉を零し、ぼんやりと天井を見つめる。
 不意に、天井が近くなった。代わりに、地面の感覚が遠くなる。
 ルオシンに抱きかかえられているのだと気付くまで一分近く時間を要した。痛みと早産の混乱で頭が上手く働かなかったせいだ。
 それでも、ルオシンに抱かれていると理解すると、不思議と気持ちが和らいだ。痛みは変わらずあったけれど、それでもなんとかなる気がする。
 大丈夫か、とかけられる声が。体温が。
 無性に愛おしくて、落ち着いて。
 頑張れ、という言葉に、心の中ではい、と返事をする。
 蒼天の巫女 夜魅(そうてんのみこ・よみ)の声も聞こえた。
 大丈夫? 死なないで。切なる願いの声。
 それにも、大丈夫だよ、死なないよ、と答えて。
 コトノハは、分娩室に入った。


 ソフロロジー式分娩というものがある。
 簡単に言えば、おなかの赤ちゃんのことを一番に想い、陣痛の痛みもその子が産まれてくる喜びに変えるというものだ。
 コトノハは日頃からソフロロジー式分娩の練習をしていた。
 出産時にリラックスできるように、イメージトレーニングを欠かさなかったり、エクササイズに勤しんだり。
 最初こそ混乱はしたものの、分娩室に入って医師もつき、愛する家族が傍に居てくれれば安心もできる。安心できればリラックスもできる。
 夜魅が、『命のうねり』や『清浄化』をコトノハにかける気配がする。背中をさすってくれている。
 ルオシンが、コトノハの痛みを共有して一緒に耐えてくれている。
 家族の愛情を感じながら、コトノハはただただゆっくり息を吐いた。
 産まれてくる子が、いくらかでも楽に出てこられるように。
 そうして数時間が経過して――
 分娩室に、赤ちゃんの泣き声が響き渡った。


 アインに付き添われて産婦人科を訪れた朱里は、偶然にも命の誕生を目にしていた。
 知らず知らず、涙が零れた。
 なぜかはよくわからない。
「蓮見さん。診察室へお入りください」
 看護師に呼ばれるまで、静かに泣いていた。
「朱里」
 アインに呼ばれて肩を叩かれ、こくりと小さく頷いて。
「行ってきます」
 涙を拭いて、診察室に入っていく。
 診察の結果。
「おめでたです」
 告げられた言葉に、予想していたとはいえ頭の中が真っ白になる。次いで、ぐるぐるといろいろな感情や記憶が絡み合って混ざり、乱れる。
 しばらく呆然とし、その後じわりじわりとこみあげてくる喜びに、再度目が潤んだ。医師にぺこりと頭を下げて、診察室を出る。
 診察室の前の長椅子に、アインが腰掛けていた。朱里の姿を認めるや否や椅子から立ち上がる。
「朱里、結果は……」
 戸惑ったような、喜んでいるような、怖がっているような、期待しているような、もしかしたら朱里以上に色々な感情がごちゃまぜになっているかもしれない表情でアインが問い掛けてきた。
 朱里は、アインの傍に寄って、手を取って。
「アイン。あなたと私の愛の結晶が、あなたの命を受け継いだものが、今、私の中にある」
 満面の笑みで、告げた。
 人間ではないからと、アインが諦めていた夢。
 それが。
「ようやく叶ったんだよ」
 途端に、ぎゅっと強く抱き締められた。
 言葉は要らない。相手が何を想っているか、よくわかっているから。
 朱里もアインを抱き返す。
 ――アインとの子だよ。
 ――二人の夢が叶うよ。
 何も言わないまま抱き合う時間がゆっくりと経過して。
 どちらからともなく離れて、椅子に腰掛ける。
「家族はもっと賑やかになるね」
「ああ。一家の主として、身の引き締まる思いだ」
 アインからすれば、妻と二人の養子に加え、またひとつ守るべきものが増えたことになる。
「大変になるね、お父さん?」
 妊娠から出産。そして出産を終えれば育児。色々と大変なことはあるのだろうけれど。
「家族なんだから乗り越えて行ける」
 アインがそう、優しく微笑んでくれたから。
「君の中にある、新しい祝福された命を、これからも共に守り抜くと誓おう」
 手の甲に、キスをしてくれたから。
 朱里も幸せに顔を綻ばせ、こくりと頷くのだ。
 二人なら、どんな困難にだって立ち向かっていける。


 時は進んで、出産を終えたコトノハは新生児室で眠る我が子を見ていた。
 新しい命。
 大切な我が子。
「あの子が……我とコトノハの子供なのだな」
 感動した様子で、隣のルオシンが呟く。
「髪の毛の色。見えますか? ルオシンさんと同じ色です」
「目はきっと、コトノハと同じ色であろうな」
「まだわかりませんよ?」
「わかるさ。父親の勘だ」
 嬉しそうに言うルオシンに、ふふ、と笑う。
「名前、考えていたんですけど」
「ああ」
「白夜、って名前にしようと思うんです」
 太陽が沈まない日のこと。
 闇が照らされること。
 それに、この名前なら。
「夜魅と……夜魅のお姉さんの、白花さんから一文字ずつ取れますし」
「ああ。良い名前だと思う」
 頷いてくれたところで、クロエを探しに病院内を回っていた夜魅が戻ってきた。
「おかあさん、ただいま! ねえクロエ、あの子があたしの弟だよ!」
「おとこのこなのね! ……ぱっとみただけじゃよくわからないわ」
「そういうものなんだよ。ほら、部屋のみんなそんな感じじゃない?」
「そうね! ねえねえ、よみおねぇちゃんは、おねぇちゃんになるのね?」
「なるよ! 弟を守るために頑張るんだから!」
 夜魅の決意を聞いて。
 コトノハも密かに決意する。
 パラ実という過酷な環境下で、この子を無事に育てていくという決意を。
 自分はともかく、赤子が耐えられるのだろうか。
 不安な点は、挙げたらきりが無いけれど。
 ――大丈夫。家族なんだから……。
 すやすやと眠る白夜を見て、コトノハは掌を握り締めた。


*...***...*


 日比谷 皐月(ひびや・さつき)に、現在治療費を払うような余裕はない。
 入院費なんてもってのほかだし、それに黙ってベッドで寝ていることがどうにも耐えられなかった。
 怪我はだいぶ癒えた。
 動くこともできる。
 だったら、誰かの為に動きたい。
 誰かが助けを求めているかもしれない。皐月にもできることがあるかもしれない。
 そう考えると、治療のためとはいえこれ以上休んでいたくなかった。
 もしかしたら、できることなんてないかもしれない。自分で何とかできるような規模のものでもないかもしれない。でも、歩みを止めていられない。
 左手を失くした。
 片腕で、ギターは弾けない。
 ギターを弾けなくなった自分に何が残ったのか。
 入院中考えていた。
 結果、誰かのためにできることを精一杯やる、それしかないことに気付いた。
 ――悪ぃな、お医者さん。
 皐月はそっと病室から頭を出した。周囲を確認する。
 この病室に誰かが入ってくることはなさそうだと判断して、頭を引っ込めて。
 そっと窓に近付いた。
 ――治療してくれたことには感謝してるけどさ。
 ――金もねーし、これ以上寝てるわけにもいかねーし。
 ――逃げさせてもらうわ。
 窓を開け、身を翻す。
 幸いにもここは三階だ。着地を上手くすれば死ぬことはない。
 外に身を投げ打った瞬間、チャージブレイク発動。
 力を溜めて、溜めて、溜めて――地面を思い切り武器で叩いた。地面とは水平方向へ方向転換。すかさず受け身を取って勢いを殺す。それでもごろごろと数度転がる羽目になったが、ダメージはほとんどない。
 顔を上げて病室を見た。カーテンがばたばたと風に舞っていた。誰かが気付いた様子はない。
 あとは走って逃げるだけ。
 走り出そうとした瞬間、
「こら!」
 聞き覚えのある雨宮 七日(あめみや・なのか)の声に、ぴたり、足を止めた。
「お見舞いに来てみれば……何をしようとしているんですか」
「……脱走」
「脱走って……」
 皐月の答えに、七日が呆れたような顔をする。
「生憎と、落ち着きの無い性分でさ。じっとしてられねーんだよ」
「それは重々承知しておりますが。でも皐月、無茶ばかりするのは得策ではないと思いますよ? 担当医にもいろいろ言われましたし」
「いろいろ?」
「はい。身体にガタがきているので、これ以上戦わせないでください、と」
 そんなこと言われても、困る。
 そもそも、ガタがきているからといって止まれるような人間だったらここまでの怪我を負ったりはしない。
「三十六計逃げるに如かず。それに病院に払う金もねーんだ、だったら面倒事になる前に逃げんのが賢明だろ?」
 頭上。窓の内側から、「日比谷さん?」と看護師の声が聞こえた。脱走がバレるのも時間の問題だ。とにかく窓の傍から離れたい。
 が、転がった際に足首を痛めたらしい。不意の痛みでよろける。と、七日がさっと素早く駆け寄って皐月の身体を支えた。
「七日?」
「皐月に何を言っても無駄だということはわかっていましたので」
「どういう意味だよ」
「そのままです。私や医師の言葉で曲がるような人間なら、ここまで苦労せずに済んでいるはずですし」
 だから諦めました。七日がそう言って歩きだす。病院の敷地外へと向けて。
「しばらくは自宅で療養してもらいますよ」
「どうしても?」
「どうしてもです」
「しばらくってどんくらい?」
「さあ、多少無茶な動きをしても傷口が開かないくらいですかね」
 そうなるにはどれほどの時間がかかるのか。まあ、病院ほどは拘束もされないだろうし、と楽観視して、皐月は七日の言葉に頷いた。