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年の初めの『……』(カギカッコ)

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年の初めの『……』(カギカッコ)
年の初めの『……』(カギカッコ) 年の初めの『……』(カギカッコ)

リアクション


●早朝、教導団で

 空が白み始めた。
 それに背を向けて息を吐く。白いものが冷気に溶けていく。
 しばし何かに耳を澄ませるかのように止まっていた男は、再び動き始めた。
 壮年の男の名はユージン・リュシュトマ、この冬空に負けず峻厳な顔つきで、細身だが鋼のように締まった体で屈伸運動をする。
 今日が2022年最初の日であることなど彼には興味がないようだ。黒のスウェット上下で、リュシュトマ少佐は黙々と日課の鍛錬をこなしていた。走り込みを終えると腕立て。最初は両手をついて。次は両の小指をグランドから外して。しかも十回プッシュするたびに指の数を減らしていく。
 親指だけの状態で二十回、念入りに腕立てを終えると、今度は右椀だけで同じことを開始した。
 暑くなってきたのだろう。リュシュトマは腕をまくった。気の弱い者であれば思わず目を背けたくなるようなものが右腕に見える。赤黒い火傷の跡だった。肘のあたりから上をびっしりと覆っている。この痕跡はそこからずっと伸びて、彼の顔半分を覆っていた。右目は眼帯だ。
「少佐。おめでとうございます」
 白い息を吐きながら、クローラ・テレスコピウム(くろーら・てれすこぴうむ)が彼の前に姿を見せていた。
 ようやく明け始めた教導団のグランドは、風を防ぐものもなく信じられないほど寒い。立っているだけで爪先から、氷の塑像になってしまいそうだった。
「何か」
 リュシュトマは立ち上がった。黙って袖を戻す。冷たい風が彼の髪を揺らした。半ば近く白くなった髪である。
「お姿を求めたところこちらだと聞いて……元旦も鍛錬されてらしたんですね」
「年始の挨拶ならば閲兵式でするといい」
 言い捨てて少佐は走り出した。最前の短距離ダッシュとはフォームが異なる。長距離走の構えだ。
「お邪魔でなければご一緒させて下さい」
 グランドコートを脱ぎ捨ててクローラは彼を追った。リュシュトマは何も言わない。「断る」と言わないことが彼の承諾のしるしであることを、クローラは知っている。
 これを眺めつつセリオス・ヒューレー(せりおす・ひゅーれー)はぶるっと身を震わせた。寝ていればいい、とクローラは言ってくれたのだが、これがパートナーの義務と首を振って、少々風邪気味なのに付いてきたのだ。といってもランニングにつきあえるほどの元気はない。
(「クローラもよくやってるけど……さすが少佐……」)
 手袋の両手を擦りあわせながらセリオスは思った。一周五百メートルのグランドを、リュシュトマ少佐は見事なフォームで走っていた。黙々と、定まったリズムで脚を交互に出している。急ぐ様子も、無理をしている様子もないのだが信じられないほど速い。しかしその一方で『これで普段通り』ということを彼はその安定した走りで見せていた。
 一方クローラは、付いていくのが精一杯といった様子だ。彼とて、一般人など及びも付かぬほど鍛え込んだ肉体だというのに、走るほどに姿勢が崩れ始めている。あれから何周したか、心臓はもう早鐘を打ち始めていることだろう。それでも、決して『辛い』『苦しい』といった表情は浮かべず、少佐との距離が開くこともない。これこそがクローラの矜持であった。
 クローラは思った。
(「一年前と比べると鍛えた自負はあるが……」)
 少佐にはまだ敵わない、その現実を突きつけられた気がする。
 唐突にリュシュトマが止まった。泡を食ってクローラも従う。
 鉄の塊が飛んで来た。
 錯覚だがそんな風に思えた。
 リュシュトマ少佐の拳が、クローラの眼前数センチのところでぴたりと止まっていた。
「間に合った……」
 思わず言葉が洩れてしまう。未熟の証拠、とは分かっているが、こればかりは抑えられなかった。
 少佐の拳を、クローラは反射的に受け止めていたのだ。受けた掌は無論、受けた風圧と衝突音とで鼓膜がじんじんと痺れる。
 少佐が足を止めた瞬間、手で触れられそうな殺気が迸るのをクローラは感じていた。『危ない』と思考が言語化されるより早くクローラはガードに入った。これが間一髪、顔面目指し打ち込まれた正拳を防いだのである。
「昇進は伊達ではないな、『少尉』」
 驚くべき事だが、このときリュシュトマの唇の端が歪んだ。笑み――?
 次の瞬間、とん、と右脇に何かが触れたのをクローラは知った。
 リュシュトマの左膝である。軽く、触れただけだ。だが、
「これが本気の蹴りだったら?」
 壮年の少佐はそれだけ告げて膝を下ろした。
「面目、ありません」
 クローラは俯いた。おそらく少佐の本当の狙いはこの膝。最初の拳は、むしろ動作モーションを大きくしてわざと受けさせたのだろう。
(「少佐にはまだ敵わない」)
 油断大敵だ。一瞬でも浮かれてしまった悔しさと恥ずかしさで顔が上げられない。
(「少佐の鍛錬の相手になれる程にならなければ……早く」)
 短い逡巡を終えてクローラは顔を上げた。晴れ晴れとした目で敬礼する。
「ありがとうございましたッ!」
 おや、とセリオスはクローラの顔に起こった変化に気づき、頬を緩めた。
(「あれは、やる気になったときの顔だね」)
 想い、誇り、あるいは自覚……そういったものが宿った目だ。
 なにかを決意してもクローラは、あまり言葉でそれを表現しない。できない、といったほうがいいだろうか。不器用な男なのだ。そのかわりただ、晴れやかな目をするだけである。迷わず努力するだけなのである。他の人にはクローラの内面はわからないだろう。けれどセリオスには、わかる。
(「ユマのことだって同じだろうし」)
 イルミンスール図書館での事件の後、ユマ・ユウヅキからの手紙を読み終えたときもクローラはあんな顔をしたものだった。
 あのとき以来、クローラがユマの名を口にすることはなかった。それまでは、ことある事にユマのことを気にしていたものだった。セリオスの見立てではそれは恋だった。恋はうつろいやすく不安定だから、常に口に出していたのではないか。言葉にすることを終えたとき、ただの恋は揺るがぬ愛に変わったのだとセリオスは思う。
 それはそうとして、だ。
(「……ということは明日から毎日か………僕にできるかな、早起き」)
 セリオスは苦笑いした。

 琳 鳳明(りん・ほうめい)は尖塔脇に立ち、教導団の建物を眺めた。
 ちょうど目にしている辺りは、ユマ・ユウヅキが収監されていた場所だ。
 今、ユマがどうしているのかを鳳明は知らない。
 大きな作戦に関与しているとは聞いたことがある。彼女が自主的にその作戦に志願した、とも。
(「ルカルカさんは団長にまで掛け合ってまでユマさんが外に出る機会を作ってくれてる」)
 両脚を揃えて鳳明は跳んだ。地面までは数メートルあるが迷いはなかった。タン、と地を蹴り、軽業師のように一回転して次の瞬間には着地している。着地音はほとんどしなかった。
(「クローラさんは少佐の補佐としてユマさんのお世話をしてくれてる」)
 着地したと同時に躍しグランドに面した建物に飛びつく。直感的にわずかな窪みを見出しそこに右の爪先をかけ、ぐんと伸びて左の爪先でも同様の窪みに体重を乗せた。そして右手左手、交互に出して壁を守宮のように鳳明は登り切っていたのである。
(「柊さんはユマさんの事を想って、そして心の支えになってくれてる……」)
 幅十センチもない壁の縁を真っ直ぐに走り、きっちり二十歩目でその終点から跳躍した。
 高い。
 大空から鷹が急降下したかのよう。
 ヒューッ、と空気が切れる音が耳を打つ。最初に飛び降りた高さの倍はあった。
(「ユマさんの周りには色んな人がいて、彼女を支えていて、そして守ってる」)
 目をつぶっていてもわかる。この先に砂地があると。
(「じゃあ、私は……?」)
 鳳明は空中で身を捻った。銃弾の雨が降っている事態を想定し、二度三度、短い滞空時間ながら飛翔軌道を変化させる回避行動をとった。そして、
(「ユマさんの事は好きだし、守ってあげたいって思う」)
 八極拳流のしなやかな受身を取り、ずさっと砂を巻き上げて着地した。
 同時に、長い脚で砂地に円を描いている。
 もうもうと砂煙が舞う。実戦であればこれが目くらましになるだろう。砂が晴れるまでには、少なくとも二人の敵くらいは無力化できる時間があるはずだ。
「けど何かしてあげる事ができていてるかな……?」
 いつの間にか鳳明の唇から言葉が出ていた。
 そのときにはもう、彼女の指は腕時計のボタンを押していた。ストップウオッチとして使っていたのだ。
 アナログ計の針は、ベストタイムより2秒近い遅れを示していた。
 あまりいい成績とは言えない。やはり迷いがあったからだろうか。
 腕時計の硝子面に朝日が映り込んでいる。白いスクリーンのように、鳳明の思い出もそこに映写されていた。
 ユマ・ユウヅキのことを考える。七夕で出会った、まだ夜会巻きの髪をしていた頃の彼女、続いて、その後ばっさりと髪を切り、教導団の制服に身を包んだ彼女の姿が硝子面をよぎった。
(「肝心な時にいつも私はいなかった」)
 緑の地獄『ハートオブグリーン』の件では、鳳明は現場に行くことができなかった。
 昨年の七夕の時は近くにいたはずなのに、ユマが取り押さえられたという話を後で聞く有様だった。特にこれは痛恨の記憶だ。もしその場にいれば、クランジについて変な噂が流されることもなかったかもしれない。
(「……今頃ユマさんも、一般生徒として教導団で一緒に過ごせていたかもしれない」)
 朝日が反射した。腕時計は無機質な盤面に復している。
 強くならなきゃ――改めて鳳明は思った。
 ユマに何かあった時、すぐ駆けつけられるように。
 大切な人を失わないように。
 守れるように……。
 鳳明の頭が戦闘モードに切り替わった。もう言葉では考えない。肌で、接近者の気配を探る。
 だが、すぐに、
「リュシュトマ少佐」
 構えを解き、鳳明は初老の上官に敬礼した。
 相変わらず凄まじい威圧感だ。抜き身の日本刀を眼前に突きつけられているかのよう。少佐を前にしているだけで四肢に力が入る。このプレッシャーは金団長のそれに似ているが、団長のものよりもっと孤高で冷たい種類のものでもあった。
「こちらでしたか。自主トレーニングをされていると聞いて……」
「いいだろう」
 みなまで言わせず、少佐はいわゆるマーシャルアーツの構えを取った。
 手合わせに応じる、ということだ。
 鳳明は八極拳の使い手であり、その流れで格闘術全般についてもある程度以上の知識を備えている。『マーシャルアーツ』というのは軍隊式格闘術(主に米軍)の誤った呼称であり、ひどくあやふやな概念である。だがひとつ、はっきりと言えるのは『戦場における格闘戦』を念頭に置いているということだろう。すなわち徹底的に合理的であり、技としての美しさや礼儀より殺傷力を重視する種類のものである。
(「少佐は強い」)
 リュシュトマがまだ拳のひとつも見せぬうちから、彼女は相手の力量を知った。隙がまったく見えない。実年齢は知らないものの、戦闘者としてはとうに峠を越えているはずの人間のそれとは思えなかった。これが経験の差か。
 巨象に挑む蟻のような心境に陥るが、ここまでは想定のうちだ。今日はカウンター主体の戦法はやめよう――鳳明は腹をくくった。カウンターを狙うつもりが、一撃で仕留められる可能性すらある。
 従って、
「……!」
 鳳明は自ら仕掛けた。左と見せて右、そう見せてやはり真は左、二重のフェイントから距離を詰め正拳を打ち込む。
 弾かれた。少佐は軽く手を払いのけたようにしか見えなかったが、骨に響くほどの重みが鳳明の腕に伝わった。
 ならこれはどうか。
 喉を突きに行く。相手が凡人であれば殺しかねない勢いで。
 だが軌道が逸れた。
 肘を下方から突き上げられたのだ。
 バランスを失いかけるもそこから蹴りに行く。柔軟な鳳明だからこそできるゴムのような反射。
 ……空を切った。
 逆に少佐から脚払いが来る。
 鹿のように翔んで避ける。
 少佐の横顔が視界に入った。行ける! さらに距離を詰め鳳明は肘打ち。
 だが世界が回転した。
 鳳明は腕を取られ、投げられていたのだ。
 背から叩きつけられ肺から空気が逃げる。が、ここは砂地、ダウンするほどのダメージはない。
 体重の軽さが鳳明に幸いした。彼女はバウンドの勢いで立ち上がるや両脚を開き衝捶( しょうすい)の姿勢に入っていた。――否。姿勢に入ると同時に少佐の腹部に一撃した。
 いくら鍛えた少佐であろうと、衝捶がまともに入れば数日は胃が収縮し食事が取れなくなるだろう。
 まともに入れば、の話だ。
 衝捶の姿勢で大きく伸ばした右腕は、関節技の香餌である。
 寸前で飛んだ少佐は鞭のように強く、鳳明の腕を捕らえ腕挫十字固の体勢に入った。あと一秒もあれば鳳明は最低でも一ヶ月、腕を吊って歩くことになるだろう。
(「少佐なら……!」)
 少佐なら絶対にこの動きに入ると鳳明は踏んでいた。
 必殺の衝捶だったのではない。
 むしろ逆。囮としての衝捶だ。腕一本、犠牲にする覚悟で関節技を誘ったのだ。
 言い加えるならば、八極拳に徹したのもそのため。きっちりと武道を身につけた者であれば、捨て身の戦術で来るはずがない……そう思わせるためだ。
 少佐は強い。
 芯を貫く、鋼のような意思を持っている。
 鳳明は知りたかった。その強さは、何を護るための強さか。
 問うには自身、鋼の意思を持つべきだと考えていた。それが、これだ。
 鳳明は無理な姿勢から頭突きを繰り出した。下手をすれば互いの脳天が砕けるかもしれない。
 しかし少佐相手に加減はできない。心の弱みは、すぐに見抜かれると思った。
 だから全力で倒しに行った。倒すのは彼ではなく、むしろ自分だ。
「悪くない」
 この攻防ではじめて、少佐が口を開いた。
 彼の左手が鳳明の頭の上に乗っている。世界に接しているのはそこだけだ。彼は片腕を唯一の支点とし自分の全身を支えていた。逆立ちするような姿勢で。
 なんということか。関節技に入ったところで動作をキャンセルし、少佐はこの動きを完成させたのだ。
 鳳明と十分な距離を取って着地すると、リュシュトマは右目の眼帯の位置を直した。戦いでずれたのであろう。眼帯の下には、眼のあった痕跡すらなかった。
「迷いは晴れたか?」
 リュシュトマは短く告げると、鳳明の返事も待たずに背を向けた。
 鳳明は敬礼した。言葉はほとんど使わず、しかも時間にして一分に満たぬやりとりだったというのに、少佐と一時間、みっちりと話しあったような充実感があった。

 元旦の太陽が、ゆっくりと水平線を越した。