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年の初めの『……』(カギカッコ)

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年の初めの『……』(カギカッコ)
年の初めの『……』(カギカッコ) 年の初めの『……』(カギカッコ)

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●冬でも暖かく

 たとえ記憶がなくても、意識のどこかが覚えている物事がある。
 とりわけクロス・クロノス(くろす・くろのす)のように、自分に関する記憶のみ消失した全生活史健忘の場合、社会的な物事や習慣は、それにまつわる自己の思い出を別にすれば残存していることが多い。
 クロスにとって、初詣はそうした『習慣』であった。特定の宗教を信仰しているわけでもなく、それほど熱心に寺社仏閣を訪ねるような趣味も持たないが、この時期、なんとなく神社に行っておきたくなる。それが一年のケジメのように思えるからだ。
 だから今年も新年早々、クロスは自宅の鏡に向かってメイクを整え、コートを羽織っていた。
 これを見て、隣室からちょこちょこと月下 香(つきのした・こう)が走り出てきた。
「くろすまま、おでかけ?」
 きょとんとしている香の目の高さにしゃがみ、クロスは頷く。
「ええ。香、ままこれから空京神社へ初詣に行くけど一緒に行く?」
「はつもうで?」
 よく通る声で香は問い返した。
「日本の習慣でね。神社へ行って、去年一年間の感謝を捧げたり、新年の無事や願い事を神社の神様にお祈りするんだって」
 これを聞くや香は、耳が痛くなるくらい元気な声で答えたのだ。
「いっしょにいくー!」
「それじゃあ、風邪ひかないように暖かくしてこうね」
 包み込むような笑顔とともに、外出の用意をクロスは香に着せた。
 もこもこした毛糸の手袋、同じく毛糸のあったかマフラー、そして赤いダッフルコートだ。コートについた赤頭巾のようなフードも可愛い。
「準備、できたか?」
 同様に冬装備のカイン・セフィト(かいん・せふぃと)が香の手を取る。
「できたー!」
 また叫ぶように返事すると、香は、さっと空いたほうの手を上に上げた。
「かいんぱぱと、て、つないだよ。くろすままともつなぎたいの」
 初詣……初めて耳にするその風習に、気持ちの昂ぶりを抑えられないようだ。香の丸い目は、きらきらと輝いていた。
 やがて空京神社に到着した。
 玉砂利をブーツが踏む音が、じゃり、じゃりと心地良い。
 しかしクロスが軽快に歩くことができたのは、ごく短い時間に限られた。
 最初の鳥居をくぐるや否や、あふれんばかりの参拝客の姿が飛び込んできたのだ。騒然としている。本殿の前の行列も、のたうつ大蛇のようにずらっと続いていた。
「さすが元旦、すごい人出ね」
「ひといっぱーい」
「一度はぐれると、再会するのはひどく骨が折れそうだな」
 切れ長の目を細め、カインはクロスに視線を流した。
 俺がなんとかしようか? という意味である。
 最終的な決定は、クロスに任せてくれるところがカインらしい。
「じゃあカイン、はぐれないように香を抱っこしてもらえる? きつくなったら言ってね? かわりに抱っこするから」
「ああ。大丈夫だ、並んでる間ぐらいは抱っこできる」
 ほら、とカインは両腕を拡げた。
「香、抱っこするからおいで」
「はーい、ぱぱ」
 とてて、と小走りで香は、迷わずカインの腕に飛び込んだ。その愛らしさは子リスのようだ。
 よし、と立ち上がってカインはクロスを振り返った。
「クロス、お前も迷子になりやすいんだから、俺のコートのどこかを掴んでおけ」
「えー、大丈夫だよ?」
 ところがこれに関しては、彼は彼女の意思を尊重するつもりはないようだ。
「そう言って、何度も迷子になっただろ?」
 端的に事実を投げかける。
 そしてこの端的な事実は、とても説得力があった。
「うっ……、はーい」
 いくらか気恥ずかしいものの、クロスはぎゅっと、彼のコートの裾を握った。
 カインにはかなわないな、と、彼に頼もしさを感じる反面、気恥ずかしさも少々、なぜか嬉しさも少々、クロスは感じてしまうのだった。きっとカインはクロスのことを、ある意味クロス以上に知っていると思ったから。
 長い長い順番だったが、いつしか三人は本殿の前に到達していた。
「さあ、お祈りをしような。ほら、このお金をあの賽銭箱に投げ入れるんだ。できるな?」
 香を下ろし、カインはその手に五円玉を握らせた。
「おいのり? どんな?」
 クロスが教える。
「香が、『こうなったらいいな。こうなってほしいな』ってことを神様にお願いするの」
「わかった。このおかねは、そのやくそくだいきんだよね?」
「……そういう契約関係があるわけではなさそうだが、まあそんなところだろう」
 カインは苦笑しつつ、「それじゃ、やるとするか」と賽銭を入れ、綱を引いて鈴を鳴らした。
 香がすぐに真似た。クロスも同様にする。
 三人は合掌した。
(「昨年やっとカインと恋人同士になれましたが、そこからほとんど進展していないので、もう少しカインとの関係を進展させたいです」)
(「昨年やっとクロスと恋人同士になれたが、そこからほとんど進展していないので、もう少し関係を進展させたい」)
(「ままとぱぱがけっこんして、ほんとうのままとぱぱになってくれるといいな」)
 どれが誰の祈りであるかは、書くまでもないだろう。
 短い時間だがしっかりと祈念して、三人は連れだって本殿の前から去る。
 晴れ晴れとした気持ちだ。叶う叶わないは別として、今年一年の目標ができたともいえる。
「まま、ぱぱ、なにをおいのりしたの?」
 やはりカインに抱っこされ、香がクロスに問うた。
「人から聞いた話なんだけど、神様へのお祈りや頼み事って人に話すと叶わなくなるんだって。だから、ないしょ」
 カインは言葉を挟まず首肯した。クロスと同意見らしい。
「いっちゃうとかなわないの?」
「香も何か神様にお祈りしたんでしょ? お祈りが叶うように香も内緒にしておこうね」
「うん、かなってほしいからないしょなの!」
「それがいい」
 ぽん、と香の頭に手をやってカインは微笑したのだった。
(「さすがに、あの祈りの内容を言うのは気恥ずかしいしな……」)
 ふとカインがクロスを見ると、彼女もちょうど、自分を見ており目が合った。
 まさかな、とカインは思う。
(「まさか、クロスも同じことを祈っては……いや、それはいくらなんでも都合が良すぎるか」)
 思わず自嘲してしまう。
 往路では気づかなかったが、本殿から離れるとほうぼうに営業中の屋台があり、カステラやソース焼きそば、フランクフルト等々、抗いがたい魅力で目も鼻も誘惑していた。ちょうどお腹がすくころでもある。
 それら誘惑の殿堂を指してクロスは言った。
「それじゃあ、出店で出不精さん達へのおみやげ買いながらゆっくり帰ろうか」
「ぱぱ、でぶしょうって?」
「ああ、まあ、簡単に言うと外へ出かけるのを面倒がる人のことだ。この場合クロスの言う出不精ってのは、俺たちが出かける時こたつで寝ていたあの二人のことだろうな」
「なるほどー」
 あの二人の高いびきを思い出し、香は思わず笑ってしまった。

 さて、クロスたちがどれにしようか逡巡している屋台のうち一つは、レン・オズワルド(れん・おずわるど)が経営するものであった。
 屋台といえば店だけのものを想像しがちだが、その形態はこれにとどまるものではない。屋根があり、テーブルや椅子も常備してあって、購入したものを中に入って食べられるようにしている飲食店風の大型店もあるのだ。レンが冒険者ギルドとして、営んでいるのはそのタイプの店舗である。
「休憩がてらどうだい? できたての焼きそばを用意するぞ」
 こんな調子で呼びかけて、ソースの香りと鉄板のじゅうじゅう言う音で、レンは数多くの参拝客を罠(?)にかけていた。お陰様で大繁盛である。
(「ま、儲けても粗利は少ないがな。しかし共存共栄というやつだ」)
 実はこの店、出している焼きそばの材料はすべて、空京市内の商業組合、それも神社近辺の商店街にある店から購入したものだった。キャベツは八百屋、豚肉は肉屋、麺だって小さな食料品店のものを使っているといった次第だ。かけあってこれらの店に正月も営業してもらい、直接仕入れ業者から仕入れるのではなく、いちいち店から買って使っているのだ。大型店舗でもない個人商店ばかりゆえ、当然、割高になる。だから利益はあまりない。しかしそれでいいとレンは思っている。冒険者ギルドとて商業組合の一員、このところ個人商店は経営が苦しいと聞く、せめて初売りくらいは景気よくさせてやりたい。
 共存共栄の精神はそれにとどまらない。レンは、やはり商業組合加盟の本業テキ屋の面々とも打ち解けており、一方的に儲けすぎて他の店を圧迫しないよう、うまく調整しながら営業を行っていた。
 レンの店の看板娘は、メティス・ボルト(めてぃす・ぼると)ノア・セイブレム(のあ・せいぶれむ)の二人だ。いずれ劣らぬ二つの花、彼女らに惹かれ入店した若者も少なくない。
「しばらく満員だ。二人とも、手早く昼食をとってきてくれ」
 レンは看板娘たちに告げた。やろうと思えばまだ店には客が詰め込めようが、ここらあたりで『調整』を入れるつもりなのだった。
「ふぅ、一段落ですね。レンさんはああ言っていますが、他の屋台さんのお手伝いでも行きましょうか。そうすれば全体の利益も上がるでしょうし、お駄賃がわりに他の店の商品ももらえると思いますよ! チョコバナナとか!」
 ノアが切り出すと、
「チョコバナナですか……いいですね。私も好きです。幸い、まだ疲れていませんし」
 ふっ、と柔らかい口調でメティスは応じた。
 かつてのメティスと比べると、ずっと温かい口調であり物腰であった。メティスに訪れた変化は、着実に良い方向に作用しているようだ。「好き」というポジティブな言葉が出たのもそのあらわれだろう。
「さあ、そういうことなら豪勢に行きましょう!」
 がっつりやる気を見せて、ノアが繰り出そうとしたとき、
「……あっ」
 メティスは誰かの後ろ姿に目を止めた。
 伸ばした桃色の髪、斜めに被った黒いとんがり帽子、ゴシック風の黒い衣装……。
「大黒美空さん……?」
 メティスは追わんとした。といっても、人混みがありなかなか近づけない。
「どうしたんですかメティスさん!」
「ごめんなさい。いまは、あの人を……」
 やがて接近に気づいたのか、後ろ姿は駆け出した。人を突き飛ばし、鳥居をくぐって神社の敷地より抜ける。
「……」
 道路とビル街、繁華街ではなくオフィス街の方角だったので、元旦の本日は大半が閉まっており、まるで無人の寂しい光景となっていた。
 メティスは足を止めた。
 見失った。
 しかし、
「……いますね。近くに」
 メティスは口を開いた。
「いるんでしょう? 聞いているんでしょう?」
「いる、って、彼女がですか!?」
 追いついたノアが問うと、メティスは頷いた。
「そう思います。彼女が、あの大黒美空さんだとしたら」
 そのままで聞いて下さい、と、メティスは虚空に向かって告げた。
「昔、ある人が私に言ってくれました……君は幸せになって良いんだよって。
 それからです。
 エネルギーを摂る為の手段であった食事が美味しく感じ始めたのは」
 声が谺している。聴き手の存在を確信しながらメティスは続ける。
「美空さんはどうです?
 御飯を美味しく食べていますか?
 ……意識したことはない、そんな感じと思います。それでしたら、これだけは覚えておいて下さい」
 一拍おいてメティスは断じた。
兵器に味覚は必要ない、ということを。
 あなたを造った人達がどのような人だったかは判りません。
 でもその人達はあなたに「可能性」を残してくれた。その可能性を自分で潰すような真似はしないで下さい」
 そうか――レンは悟った。
 メティスは、この一見、どうしようもない状況で、それでも自分ができることを見つけ、実行しているのだ。
(「道に迷った時にどうすべきか。まずは自分に出来ることを再確認する。それは根本的な部分から。自分には手があって、足があって、それがまだ使えることを確認する……刑事の頃、捜査に行き詰った際、レンさんが自分自身に向けていた言葉でしたね」)
 メティスは似た立場の者として、クランジに伝えようとしているのだろう。
(「『答え』は元々自分の中にあるってことを」)
 あれが大黒美空だとすれば、きっと答えを探している最中なのだと思う。
 聞いた話では、「クランジと名の付く者すべてを破壊する。矛盾に決着を付ける」といったことを美空は言っていたらしい。けれどその決意に疑問があるから、こうしてまた出てきたのではないだろうか。やはり美空も答を探し続けているのだ。そのはずだ。
 メティスは背を向け、神社に戻った。
「行きましょう。私が美空さんなら、もうここから離れているはずです。ただ、迷いを振り切れず、また神社に戻っているかもしれません」
 メティスには最後にもう一言、伝えたいことがあった。
 しかしそれはまた、次に出逢ったときに告げようと思う。