薔薇の学舎へ

波羅蜜多実業高等学校

校長室

葦原明倫館へ

雨音炉辺談話。

リアクション公開中!

雨音炉辺談話。
雨音炉辺談話。 雨音炉辺談話。

リアクション



5


 皆川 陽(みなかわ・よう)は、雨の日が好きだ。
 雨音は、生活音を、人の気配を消してくれる。
 静かに目を瞑れば、聞こえてくるのは雨の音だけ。
 さぁさぁと、水辺にいるときのような澄んだ音が、陽を包んでくれる。
「…………」
 ぽたぽた。ぱしゃぱしゃ。ぴちゃん。
 雨の音しか、聞こえない。
 世界がここで、この部屋だけで、全て完結しているような感覚。
 外界から、弾かれて。閉ざされてしまったかのような。
「…………」
 抱えたクッションを、抱きしめる。
 悪くない。悪くないのだ。
 むしろ、外出の予定もない休みの日に雨なんて、最高じゃないか。
 思う存分、雨のカーテンに遮られて。
 誰とも会わずに済んで。
 それはとても、とてもとてもほっとすることで。
 だけど。
「…………」
 一人だと、色々な考えが浮かんでは消える。
 雨音のリズムに揺られ、うとうとしはじめた頭を過ぎるのは。
 もし世界がこの雨で滅んでいて、この部屋しか残っていなかったら、なんていう荒唐無稽な妄想。
 ――ボクは、誰にも会わなくて済むことを喜んでいたけれど。
 そうなったら、もう一生誰にも会えないわけで。
 誰にも。
「…………」
 一瞬、誰かの顔が浮かんだ気がした。気のせいだ。だってすぐに消えてしまった。
 それよりも、もしも、今後ずっと誰にも会えなかったら。
 どうしようか?
 それは、寂しいのだろうか?
「うーん」
 思わず、唸る。
 おかしいな、と首を捻る。
 ――だってボクは、外に出るのが嫌いなひきこもり人間なんだぞ。
 どうしてこの世界には自分以外の人間がいるのだろうかという発想の飛躍までしてしまうタチなのに。
 誰にも会わなくて済むことを喜びはしても、寂しがることはないじゃないか。
 一度寝返りを打って、枕代わりの座布団に顔を埋めた。
 ――寝よう。寝てしまえ。寝よう寝よう寝よう。
 寝て、起きたら。
 ――おせんべ持って、パートナーと一緒におやつにしよう。
 そう、寝て、起きたら。
 きっとおなかが空いているから、おやつにするだけ。
 だから決して、あの荒唐無稽な妄想に、寂しくなったり悲しくなったり、ましてや怖くなったりなんてしたわけじゃ、ない。


*...***...*


 連れて行かれる。
 大切な人が。
「     」
 彼が、弟が、口を開いた。何かを言った。けれども声は、雨にかき消されて山南 桂(やまなみ・けい)のところまでは届かない。
 手を伸ばす。
 離れていく彼を繋ぎとめようと。
 手を伸ばす。
 指先は虚しく空を切った。


「…………」
 目を覚ますと、自室のベッドの上だった。
 窓の外では、雨がざぁざぁと降り続いている。
 あめ、と口の中で小さく呟いた。
 雨は、嫌いだ。
 昔から嫌な思い出ばかり。
 ――思い出したくないことまで思い出しそうだ……。
 横たわったまま、両手で目を覆った。ほぼ同時に、足音が聞こえる。足音は、まっすぐに桂の部屋へと近づいてきた。
 ノックの音。次いで、
「こんにちは」
 神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)の、柔らかい声が聞こえてきた。
 翡翠は飲み物の乗った盆を手に、桂の傍へとやってくる。盆ごとサイドテーブルに置いて、ベッド脇の椅子に腰掛けた。
「珍しいこともありますね」
「この風邪ですか?」
「はい」
「油断しまして」
「気をつけて。幸い今日は、雨のようですから。のんびりするのも良いですね」
 翡翠が差し出した飲み物には、温かい紅茶が入っていた。上半身を起こし、一口含む。鼻が詰まっているのか、香りはよくわからなかった。
「…………」
「…………」
 会話らしい会話もなく、ただ、雨の音を聞いていると。
「確か、あの時も雨でしたね」
 翡翠が、静寂を打ち破った。
「ええ、雨でしたよ」
 それは、出会いの時。
 雨が降る森の中、桂は曲を奏でていた。
 音に魅かれたように、翡翠が現れ。
 その際、どこからともなく現れた『モノ』と戦闘が発生し。
 翡翠は桂を庇い、守り、追い払った。
 突然のことに呆然とする桂に、翡翠は手を差し伸べて、そのまま。
「……途中から、記憶がないのですが」
「それはそうです。主殿、いきなり倒れましたから。
 無理をしていたのでしょう? 三日間意識不明でした」
「すみません。あの時は、連続で家の仕事が続いて」
「怪我もしていました」
「よく覚えていますねえ」
「あのあと俺は、説明を求められたり責められたり、大変でしたから。いったい何をしていたんですか?」
「秘密です。……ところで桂、額熱いですよ。熱、出てきましたね? 少し寝た方が良いです」
 額に乗せられた彼の手は、ひどく冷たかった。どうして、こんなに冷たいのだろう。冷え性? それにしても。
「起きたら、お腹すいているでしょうから。食事を作りますね」
 ゆっくり休んでください。
 微笑まれ、髪を梳かれ。
 なんだかとても落ち着いた気分になった。素直に従う気になれる。
「すみません。そうさせてもらいます」
 目を閉じた。翡翠の気配が遠くなる。
 ――あの時、俺は。
 ――貴方が、弟に似ていると思いました。
 ――……今度こそは、護りきります。
 連れて行かせない。
 身代わりになんて、絶対に、させない。
 強く想っているうちに、意識は闇に引きずられていった。


「……ふう」
 眠った桂を見て、翡翠は小さく息を吐く。
「本当、鋭いですねえ」
 そして、呟いた。
「話しても良いのですが……ショックを受けますし。隠し通さないと駄目かな……」
 ぽそり、ぽそり、眠りを妨げないように。
「……自分の厄介ごとに巻き込むのも気が引けるんですが。……」
 じっと、桂を見て。
 どうしようか。どうするべきか。考えて。
「…………」
 結局、結論を出し切れなくて、部屋を出た。