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うるるんシャンバラ旅行記

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うるるんシャンバラ旅行記

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 翌朝、マリウスに見送られ、レモはカールハインツの運転する車でザンスカールへと出発した。
 サルヴィン川を越え、しばらくすると、赤茶けた大地にはゆっくりと緑が戻ってくる。やがて前方に、巨大なイルミンスールの森が見え始めた。
 荒野からは一転して、奥深い緑の世界だ。空気も幾分かひんやりとし、心地よい風が吹く。世界樹イルミンスールを見ることも、レモにとっては旅の目的の一つだった。
 けれども。
「同じ森でも、タシガンとはまた違うな」
「……」
「レモ?」
「あ、うん! そうだね。葉っぱの色が違う気がする」
 レモはどこか取り繕うような笑みを見せ、窓の外へ視線を転じた。
 あれからというもの、万事につけこんな調子だ。声をかければ、明るく振る舞ってみせるけれども、その実まだ衝撃から立ち直れてはいないようだ。
「…………」
 とはいえ、まだまだ旅は始まったばかりだ。
 この先、レモにとって、また良い方向の刺激もあるだろう。
 カールハインツは半ば願うようにそう思いながら、ハンドルをきった。
(そういえば、あの三姉妹のカフェに誘われていたっけな……)
 レモの不調の、そもそもの原因ではあるが、いっそそこに向き合ったほうが良いのかもしれない。
「レモ」
「なに?」
「着いたら、喫茶店で休むか。オレも少し疲れた」
「そうだね。そうしよ? ずっと運転しっぱなしだもんね」
 喫茶店、という言葉に、レモは表情を明るくする。
 かつて薔薇の学舎で喫茶室を改造したときの、あの楽しい思い出が蘇ったのかもしれない。

 森の木々の合間をぬって、そこに溶け込むようにして存在するイルミンスールの街が見え始めていた。同時に、ぽつぽつと雨が降り始め、あたりは少しずつ薄暗くなっていく。



「……ここ?」
「ああ」
 カフェ・ディオニュソスの前で、レモはやや逡巡した。三姉妹とは、直接に話した記憶はほとんどないが、それでもその関わりについては承知している。
 あの笛は……まだここに、あるのだろうか。
「カールハインツさん、あの……」
 だが、カールハインツはレモの言葉を聞かず、「雨宿りもかねて、休ませてもらおうぜ」と喫茶店のドアを開けてしまった。
「いらっしゃいませ!」
 元気な声で出迎えたのは、カッチン 和子(かっちん・かずこ)だった。どうやら、三姉妹は留守にしているらしい。
「あれ……トレーネたちは?」
「ごめんね。今日は留守にしてて……」
 和子はそう詫びつつも、二人が着ている薔薇の学舎の制服に、ぴんときたようだ。
「あ、招待状の!」
「なんだ、くれたのはあんただったのか」
「えーと、レモくんだよね? 薔薇の学舎の喫茶室の責任者さん!」
「え?」
 どうやら、レモの情報が伝言ゲーム状態で、若干間違って伝わっているらしい。「あ、あの」とレモは戸惑うが、和子ははりきった様子で、さっそくレモとカールハインツを席に案内してくれた。
「シャンバラでも有名なコーヒーのメッカの喫茶室の偉い人にも、カフェ・ディオニウスのコーヒーを御賞味してもらいたいなって思ってたんだよね。あ、でも、今日はあたしが淹れるから、いつもの味とはちょっと違うかもしれないけど……頑張るね!」
「あ……ありがとう、ございます」
 押され気味のレモの様子に、カールハインツは忍び笑いを漏らす。ここまで言われて、やっぱり帰る、とはもう言えないだろう。
「今日、寮に泊めてもいいって申し出てくれたのも、彼女だぜ」
「え! ありがとうございます!」
 慌ててレモは立ち上がると、カウンターの中でコーヒーの準備を始めた和子にもう一度ぺこりと頭をさげる。すると、ぴょんと。
「まぁまぁ、気にすんなって!」
 テーブルの上に現れたのは、ほんの小さなゆる族だ。和子の契約者、ボビン・セイ(ぼびん・せい)である。
「俺の分のベッドが空いてるし、イルミンスールは男女共学だしな」
 ボビンはそう言うと、にこっと笑ってその場でぴょんととんぼ返りをしてみせた。レモは目が点だ。
「よろしくな、レモ!」
「お世話になります」
 いくらか緊張がほどけ、レモはようやく口元を綻ばせた。
 店内に漂うコーヒーの香り。タシガンとは少し違うけども、やはりほっとする。そして、流れてくる音楽。
「…………」
 レモは、耳を澄ませる。美しい、正しい音色だ。あのとき、必死に演奏をしてくれた友人達のことをふと思い出し、ぽっと胸が温かくなるようだった。
 そうだ。自分はあんなにも、助けてもらっている。なのに……。
 ふと、レモの瞳が陰る。それを察したのか、ぴょんぴょんと跳ねていたボビンは、着地に失敗をしたフリをして、レコードの停止ボタンの上に乗っかると、音を止めた。
「あ……」
「やー、うっかりしたな。足がもつれたよ」
 ボビンは舌を出し、おどけたフリで立ち上がる。そこへ、ちょうど和子がコーヒーを淹れて戻ってきた。
「お待たせ! 特製ブレンドだよ」
「美味そうだな」
 カールハインツがさっそくカップを取り上げ、香りを楽しんでいる。レモも同じように、カップを手にした。
「どう……かな」
 レモが口にするまで、ドキドキしながら和子は見守っていた。
「うん。すごく、美味しいです」
「そう? よかった! でも、今度はトレーネさんたちのコーヒーも飲んでね」
「はい」
 レモはそう、静かに頷いた。

 その夜は、約束通り、レモは和子とボビンの部屋へと泊めてもらうことになった。
 カールハインツは、ここでは知人の家に泊めてもらうらしい。
 初めての他学校の寮だ。薔薇の学舎と違い、自然な風合いの、どこか懐かしいようなそんな内装だ。
 風呂も借り、さっぱりしてから、レモは借りたベッドに腰掛けた。ボビンは、てっきり机の上のドールハウスのベッドで寝るかと思ったが、動物図鑑や芸能音楽雑誌の詰まった本棚の上で、そのまま横になっている。
「ベッド、使わないんですか?」
「こっちのほうが好みなんだよ」
 そういうものなのか、とレモは不思議そうにボビンを見上げた。
「いーっつもそうなんだよね。せっかく用意してるのに」
 和子が笑い、椅子に座る。
「あ、そうだ。これ、せめてものお礼です。タシガンコーヒーなんだけど、よかったら飲んでみてください」
 大荷物の中からごそごそとコーヒーの袋を一つ取り出すと、レモは和子に差し出した。
「ありがとう! 一度飲んでみたかったんだよね」
 和子は喜んでくれたようだ。そのうち、イルミンスールの森の動物の話や、地球で大型船の船長をやっている父親の話など、和子は楽しそうに話してくれる。そのどれも、レモにとっては新鮮で、興味深いものだった。
「だからね、歌手になるのもいいかなと思ってたんだけど、お父さんと同じ船に乗るのもいいかなって、船医になる勉強もしてみたんだ」
「船医さん? すごいですね!」
「けど、さっぱり頭に入らなくて。お医者さんは諦めようかなーってちょっと考えちゃってる。ね、レモくんは?」
「え?」
「将来、どうなりたいなぁとか、あるの?」
「将来、ですか……」
 レモは口ごもった。正直な話、先のことなど、今はまるで考えられない。ただ、その日を過ごすので精一杯だった。
「あ! 喫茶室をもっと大きくするとか?」
「それなんですけど、あれは僕の力じゃなくて、薔薇の学舎のみんなでやったことなんですよ。責任者とか、そんなんじゃないんです」
「え、そうなの?」
 苦笑して打ち消すレモに、和子は思わずボビンを見やった。レモを招待したら? と強く勧めたのは、ボビンだからだ。が、当のボビンはもう寝たふりをしている。
「……なんだか、まだ、全然わからないんです。僕に、なにができるのか」
 むしろ。
 どうやったら、『あの人』から逃れられるのか。そんなことばかり、考えている。
「そっかぁ。じゃあ、楽しみだね!」
「え?」
「だって、可能性がまだいっぱいあるってことだよね」
 前向きでめげない和子の言葉に、レモは驚いて、それから「そうかも、しれないですね」と笑った。
 そうなのかもしれない。そうだと、いい。
「じゃあ、今日はそろそろ寝ようか。明日も、イルミンスールを楽しんでいってね」
「はい」
 雨足は弱まりつつある。昨夜よりほんのわずかに明るくなった心持ちで、レモはその夜、眠りについた。