リアクション
●現代アメリカ 8
「ああ、雪ですね」
パーティー会場を出た直後、ほおをかすめて落ちた何かをてのひらで受けて、クリスはつぶやいた。
見上げるとビルの谷間の暗い空から白い雪がひらひらと舞い落ちている。
ホワイトクリスマスというのはなかなかロマンチックな響きがあって聞こえがいいが、ニューヨークで雪が降るのは日常茶飯事。道路脇には昨日やおとといに降った雪が山となって踏み固められている。歩道は凍るし、交通は麻痺しかねないし。いいことがない。
人が並んだタクシー乗り場にため息をつき、シュランツと2人並んで歩き出した。ブロック2つ程度歩けば捕まえられるだろう。シュランツは自分が捕まえてくるから待っていろと提案したが、凍えて待つぐらいなら歩いて体を動かした方がいいと断った。
「あのままイタリアにいた方が良かったか?」
シュランツの問いに首を振った。
「そういうわけにはいかないでしょう。2カ月近くも会社を放り出しておくわけにはいきません。いくら放漫経営でもね」
「放漫はしていない」
シュランツは渋い表情をする。
「真面目にもしてませんよ。俺は現場にいるのが一番なんです。会社のためにもね。父が引退するなんて言い出さなければ、こんな面倒なことにはならないですんだのに」
社長ともなればパーティーは全て営業も同然。今日だけで4つの会場を梯子した。あいさつ、握手、軽快なトーク。そもそもこういった社交活動は自分に向いていないとクリスは思った。
「もう次からはあなただけが行ってください。皆さんだって分かっていますよ、俺より父の片腕だったあなたの方がずっと会社のことを理解しているし、実質ナンバー1――」
「どうした? クリス」
突然話すのをやめて反対方向に駆け出したクリスを追ってシュランツも走った。クリスはついさっきすれ違った青年の肩を掴み、前へと回り込む。
「――すみません。人違いでした」
「クリス?」
青年を見たとき、一瞬の希望と失望がクリスの面を走り抜けたのをシュランツは見た。
「いえ、何でもありません。ちょっと人間違いをしただけです。それより、タクシーがきましたよ」
シュランツの向けてくる疑いの視線を、それと気付かないフリをしてタクシーを止める。
乗り込みながら、クリスもまた、どうかしていると思った。
(彼がこんな所にいるはずがないでしょう)
常識的に考えてそれはあり得ない。出会ったのはイタリアで、彼はイタリア人ではなかったけれど、どこのだれとも聞かなかった。
白い肌を赤く上気させてこちらへ駆けてきたその姿があまりにもかわいらしくて、つい関係を持ってしまった行きずりの相手だった。
『あの……ありがとうございます』
彼は乱れて前にきた髪を梳き上げて、照れながら礼を言った。そのさらさらの金の髪も好みだった。
『ちょっと周囲の建物に見とれてた隙にすられちゃったみたいです。捕まえられなかったらもうどうしようかと思いました。ちょっとなさけないですよね、観光に来た早々スリにサイフをすられるなんて』
恥ずかしいのか少し早口で弁明をすると、手を差し出した。クリスが取り返した彼のサイフを返してほしいということだろう。
クリスもすぐに返すつもりだった。澄んだエメラルドグリーンの瞳で見つめ返されるまでは。
『お礼はなしですか?』
『えっ?』
礼は言ったはずだと、彼はきょとんとなった。そして意味を数瞬考えたあと、何か閃いた顔をする。
『あ、じゃあお昼でもおごります。この先においしいイタリア料理のお店があるそうなんです。特にパスタが絶品だそうですよ』
『それはいいですね』
クリスが興味を示したことにうれしそうな顔をして、彼は先に立って歩き出した。
その表情が困惑気なものに変わるのに、そう時間はかからなかった。
『あ、あの…?』
ホテルのベッドの上、彼はいまだどうしてこんなことになったのか分からないとうろたえていた。上着はイスの上、シャツは半ばまでボタンをはずされている。はだけた胸元に、クリスはつと指をすべらせた。
『思ったとおり、なめらかな肌ですね。とてもきれいだ』
唇ではさむように胸の頂に触れると、びくりと体がはねる。
『あっ…。ちょ、っと……待っ…』
だがクリスは待たなかった。ベッドを下りようと身をねじった彼を背後から押さえ込み、うなじに舌をはわせる。
胸をすべった指がズボンのなかへ侵入し、彼のものに触れると、彼は「ああ」とため息のような声をもらして肘をついた。その手が彼をなぶるクリスの手を掴む。それ以上進むのを止めようというのか。だがその手に制止するほどの力はなく、ただ彼のわななきを伝えるにとどまった。
『あっ……んんっ…』
クリスの巧みな手技に唇を噛んで耐える。震えるうなじを見つめながら、クリスはさらに彼を脱がせていった。シャツをはぎとり、あらわとなった美しい背中に小さなキスをつなげる。背面が終われば仰向けにし、熱と涙でうるんだ目元や唇、形のよい鎖骨と順にたどっていく。胸の中心を舌でたどり、その下へ。あますところなく念入りにキスをした。やがてキスが敏感な足のつけ根部分に到達すると、彼の手がクリスの頭へと伸びた。髪に指をくぐらせる。クリスの動きに応えるように、腰は浮いていた。
『……どうして……こんな…』
あえぎにくぐもった声。クッションに強く顔を押しつけ、クリスを見下ろしている。
彼は当惑していた。次々と送り込まれる快楽と刺激に反応するばかりの体。なぜそうなるのか本当に分かっていないようだった。
『初めてですか?』
体の震えをなだめるようにさすりながら上へと戻る。彼はクリスを見つめ、恥ずかしそうにうなずいた。
『それならもう少しペースを落として、優しく愛してあげましょう』
『愛…?』
『俺は奪うだけなんてことはしません。きみから受け取る分だけ、きみにも与えてあげます』
約束するように震える唇に深いキスをして。クリスは彼の足をもう少し広げさせた。彼は逆らわなかった。
『つかまって』
そう言われたときも、誘導に従って持ち上げた腕をクリスの肩に渡らせた。クリスは優しくと言ったが、その優しさが甘美な拷問であることは言わなかった。時間をかけて彼を導き、崖から飛び立つ一歩手前で引き戻す。彼はせがみ、懇願した。「お願い」と、呪文のように繰り返す。おそらく、自身が何を口にしているかも分かっていなかっただろう。ついにひとつになったとき、彼はクリスの耳元で悲鳴のようなかわいらしい声を上げた。その悦びの声にクリスは心から満足感を覚え、すすり泣く彼に褒美のキスをした。
それからほぼ丸1日かけて、何度となくクリスは彼を愛した。キスの仕方、求め方を彼に身を持って教え込んだ。彼はとても素直で、いい生徒だった。すぐにコツをつかみ、クリスを満足させる方法を覚えた。
翌日、クリスは満足して彼の眠る部屋をあとにしたのだった。
「一夜のアバンチュール、旅先の恋だと思ったんですけどね…」
車窓を流れる景色に目をやりながら、クリスはつぶやいた。
先に人間違いで彼を思い出してしまったせいか、今日はやけに生々しくあのときのことを思い出す。こんなにも忘れがたい相手になるとは思わなかった。もし分かっていれば名前や連絡先を聞いておいたのに。すべてはあとのまつりだ。
(いや、でもやりようはありますか。あの日、あの場所を通ったツアーの名簿をとり寄せれば…)
アジア系は除外。年齢、性別、外見的特徴でかなり絞り込めるはずだ。
イタリアは観光客が多い。多少絞り込めたとしても、名前のリストはかなりの数になるだろう。だがクリスはついに覚悟を決めた。
このまま彼の面影を求めるだけなんてうんざりだ。
「クリス、大丈夫か?」
「もちろんです。ではおやすみなさい」
マンションの前で1人タクシーを降りる。部屋に戻り次第、パソコンで作業を開始するつもりだった。
マンションを見上げてたたずむ青年の姿が入るまでは。
ボアのついたジャケットから覗く横顔は、彼にとてもよく似ていた。
クリスは思わず呼びかけそうになった。だが先の失敗もある。似ているだけで、別人かも……ためらっているうちに、青年の方がクリスに気付いた。
表情を輝かせ、白い息をはずませながら駆け寄ってくる。反射的、クリスは両腕を広げて抱き止めたが、それでもまだ半信半疑だった。
「きみは…」
「ああ、やはりあなたでした。やっと見つけました!」
どうしてここを、と訊きそうになって、やめた。さっきそのやり方を自分でも考えていたばかりではないか。ライト・インダストリーズの社長であるクリスの方が彼よりもよほど見つけやすい。つい最近、父から代わって社長になったのをメディアで取り上げられたりもしている。
「あ、ごめんなさい、いきなり」
彼は突然自分の行動が恥ずかしくなったのか、ぱっと離れた。そしてしどろもどろにクリスを捜していたことを告白し、自分を雇ってほしいと言った。
「雇う?」
「はい。自分は、要人専門のボディガードをしているんです。……出会いが出会いですから、信じてもらえないかもしれませんけど…。
ローマでの契約が先日切れたので、ようやくアメリカへ戻ることができました。それで、よかったら…。
あっ、あの、もちろん推薦状は持っています!」
彼はあたふたとポケットから封筒を取り出して差し出した。そこには前客の推薦状と一緒に彼の経歴書が入っていた。が、クリスが目を落としたのはただ一点。フォルスという、彼の名前欄だけだった。
それさえ分かれば、あとはどうでもいい。
「ではこれから面接をしましょう。いらっしゃい」
2人は手をつなぎ、互いのぬくもりを伝え合いながらオートロックドアをくぐってエレベーターへと向かう。最上階の部屋は遠い。待ちきれず、クリスはキスをした。手がジャケットの内側へ入り、彼を引き寄せる。フォルスは拒まず、クリスのうなじに両腕を回した。満足そうにほほ笑みながら…。
* * *
「もう! 和深のばか! スケベ! きらい! だいっきらい!!」
屋敷へ戻るなり、月琥は自室へ駆け込んだ。叩きつけるように閉めたドアにぐったりもたれかかる。
ルーシッドのばか! あんなことするなんて!
月琥だって知っている。和深は兄だ。疑いようがないくらい、血のつながりははっきりしている。
どんなに好きになっても決して結ばれない相手。……どころか、多分和深の方は月琥の執着を依存心だと思っているのだと思う。幼くして親を失った分、和深に依存しているのだと。月琥が自分に恋をしているとは夢にも思っていないだろう。
和深のなかで、月琥はどこまでも妹だ。
でも、だからこそ、あのやどり木のイベントはとても大切なものだったのだ。
拒まれることなく和深とキスができて、自分の想いを知ってもらうために。
「ルーシッドのばか…」
鼻をぐずぐずいわせていたら、隣室に通じるドアが開く音がした。
「月琥、帰ってきたのか」
現れたのはルーシッドの妹の
セドナだった。
「おまえ、バイト先で同僚とケンカをしたそうだな。メイドから聞いたぞ。それでどっちが勝――月琥!? おまえ泣いているのか!? 何があった!?」
月琥はパーティー会場であったことを話した。
「なんだとおう! ルーシッドが和深にキスをしたとは!! 和深に全く興味がなさそうに見えていたのに……抜け駆けしおって! 許せん!」
「セドナ?」
月琥はセドナに話して少しすっきりしたのだが、セドナの方はそうもいかなかったらしい。
すっくと立ち上がったセドナは、そのまま部屋を出て廊下を走り出した。
行先はルーシッドの部屋と思いきや、和深の部屋である。
「和深!」
バーーーーン! と向かい側の壁にドアが激突するぐらいの勢いで押し開けたセドナは、そのままびっくりしている和深に突撃する。
クローゼットの前で着替えていた和深は意味が分からないまま小型の肉爆弾のようなセドナにタックルをかけられ、そのままベッドに押し倒された。
「いたた……セドナさま? ひとの部屋を訪ねるにはもう遅い時刻ですよ。淑女は――」
「和深! おまえルーシッドにキスされたそうだな! ルーシッドに後れをとるわけにはいかん! 我にもしろ!」
「……はあ?」
「いや! キスなど生ぬるい!」
と、何を思ったか、和深の上に馬乗りしたままセドナはいきなり胸元のリボンを引きほどき、ボタンをはずして服をはだけだす。
「セドナさま、一体何を!?」
「ふふっ。どうだ? そそられるであろう。触れてもいいのだぞ?」
と言われても。手を出したりしたらまず間違いなくルーシッドに警察を呼ばれてしまう。というか、そもそも11歳は完全に守備範囲外だ。俺はロリコンじゃない。しかし相手はこの屋敷のお嬢さまで…。
考えた末、和深はできるだけ真剣に見えるよう努力して、おもむろに告げた。
「よく聞いてください、セドナさま。今まで口にしたことはありませんでしたが、俺は巨乳が好きなんです。それはもう、たゆんたゆん揺れて手からこぼれるくらいのたわわな果実が。ですからせめてあと5年経って、Dカップ以上になってから来てくれませんか?」
できるだけ傷つけないように、未来に含みを持たせるように断ったつもりだったのだが。
次の瞬間、セドナは涙をにじませた。
「あ、あの……セドナ――」
胸倉を掴んで引っ張り上げられ、そのまま激しく前後に揺さぶられる。
「つるぺたで悪かったなあああ!! それならおまえが責任持って、もんで大きくしろ! 乳は男にもまれると大きくなるそうだからな! そうとも、いい案じゃないか! マイ・フェア・レディだ! これからおまえの望むがままに育てられる胸というわけだ! 将来性を買え!」
「えええええーーーっ!?」
がくんがくんしながら和深は驚いた。
まさかそんな切り返しをされるとは。
マイ・フェア・レディにはちょっと惹かれるものがあったが、幼児性愛者とか言われて警察の御用になるのだけはいやだ。
そう思っていると、揺れる視界のなか、戸口からなかの様子を見守っている月琥がいることに気付いた。
月琥、助けて、と手を伸ばすが、彼女に気付いている様子はない。騒ぎを聞きつけてルーシッドも反対のドアから顔を覗かせたが、にやにや笑って見ているだけだった。
「ルーシッド、見てないで助けろ」
「救いはないね。あきらめな ♪ 」
「薄情者ーッ!」
和深が悲鳴のような叫びを発する。
このとき月琥は、胸を大きくする努力をするべきだろうか、それとも胸の大きいやつを皆殺しにする方が早いだろうか、わりと真剣に悩んでいた。