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魂の研究者・序章~それぞれの岐路~

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魂の研究者・序章~それぞれの岐路~

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 第13章 諦めないということ

 空京にある中でも最も新しいデパート、その地下2階。
「ありがとうございましたー。またお越し下さいませ!」
 専門店の1つとして入っているドラッグストアで、橘 美咲(たちばな・みさき)は笑顔で来店客を見送った。次に会計を待っている客は居ない。あの事件から1週間が経ち、無事フロアの営業が再開されたが上の階に比べて客の数は少なかった。
 ――ここは、1200という数の兎が変異し、その牙と爪で人々を襲った事件の舞台だった場所だ。
 流れた血液は掃除され、赤色が落ちなかった場所には上からペンキが塗られた。地下2階全体にシンナーと消毒薬の匂いが漂っていて、真新しさだけなら事件当日よりも上だろう。だが惨劇の記憶新しい場所で抵抗無く買い物が出来る人は多くはなく、フロアを歩くのはやむを得ない用がある客か事件を知らない客、物見遊山に事件現場を見に来た若者達、という感じだ。事件が忘れ去られ、あの日のように賑わうにはまだもう少し日が掛かりそうだった。
「橘さん」
 そんな事を考えていたら、薬剤師であり、現在この店の調剤関係を一手に引き受けている店長が声を掛けてきた。彼の後ろに立っていた、戸惑った表情をした青い髪の少女があっ、と小さく声を上げる。美咲の事を思い出したのだろう。美咲もまた、彼女の事を思い出した。あの日、告白を続ける犯人の話を聞いていた――
「今日から働くアルバイトの子だよ。やっと1人、入ったんだ」
「……美咲さん、よね? ファーシー・ラドレクトです。よろしくね」

 各市販用医薬品の取り扱いを始め、簡単な仕事を教えると休憩時間になった。店長にお店を任せ、美咲とファーシーは『POLONTO』というカフェに入った。ケーキ等のスイーツだけでなく、本格生パスタが食べられる店だ。
 上のフロアに移動したからだろう。仕事を覚える姿勢自体は真面目だったが、どこか沈んだ顔をしていたファーシーはほっとしたような笑顔を浮かべていた。カフェオレと共に注文したジェノベーゼパスタを食べている。
(食べられるんだ……)
 意外に心臓に毛が生えているのかもしれない。機晶姫だから心臓は無いだろうけど。
 バイトの募集広告はドラッグストア本社が出したもので、空京にあるオープン仕立ての店、としか書いていなかったのだそうだ。週1からOKという文字を見たファーシーは電話を掛け、採用するから早速店に行ってくれと言われた。そして、何も知らないままに訪れた。動揺はあるようだが、今のところ「辞めます」の一言は聞いていない。
「兎事件の時は……お互いに、苦労しましたね」
「美咲さんは、あの時からここで働いていたのよね。……辞めな、かったの?」
「……アルバイトとはいえ、仕事を途中で放り投げるような無責任なことはしたくないんです」
 ファーシーの問いに、美咲は事件直後の事を思い出しながらそう答えた。
 椎名 真(しいな・まこと)と一緒に、残った警察官にペットショップで調べた事を報告した彼女は――タイムカードから、犯人がオープン前の準備期間だけアルバイトに入っていた事が判った。恐らく、その時に兎1200羽の発注をしたのだろう――自身の職場であるドラッグストアに戻った。そこは無人で、レジカウンターにはお金と、怪我人の治療の為に医療物資を買った、という書置きだけが残っていた。
 その時から予感していた事だったが、頑張っていこうと言い合ったバイト仲間はものの見事にそのまま戻って来なかった。全員が辞めたのだ。
「店長1人でお店が回らないのも判っていたので。あ、今は大丈夫ですけど、数日したら、何も怖くないんだっていうのが口コミで広がって、またあの日みたいにお客さんが来ると思いますし」
「怖くない……。……うん、そうね」
 綺麗過ぎる程に綺麗になったフロアを思い出したのだろう。ファーシーは少し、目を伏せた。
「あの事件に関わった人は自然とこの場所から足を遠ざけてしまいますけど、私はそういうのが出来ないタチなんです」
 困ったものだ、というように、しかし確かな信念を持って美咲は笑う。
「……やっぱり、あの場所に居るのは辛いですか?」
 答えが返ってくるまでに、少し時間が掛かった。ファーシーはじっと、カフェオレの水面を見詰めている。
「よく、分からないな。綺麗になったお店を見てると、事件なんか無かったんじゃないかって気もしてくるし、でも、たまにあの時の様子が重なって見えたりして……」
 足の踏み場も無いくらいの床の惨状を思い出すと、何も出来ず、何もしなかった自分への感情も思い出すから。
 どうしようもない、心の痛みを感じるから。
 いい気分はしない、と、彼女は答えた。
「頑張って手当てはしたし、誰も亡くならなかったのは本当に良かったと思うけど……」
「……キツイようなら、帰ってもらっても大丈夫ですよ」
「え……?」
「店長には、私が巧く言っておきますから」
 微笑みを向けると、驚いた顔で「いいの……?」と、ファーシーは言った。辞める、という選択肢を初めて知った、というようでもある。先程の自分の言葉を思い出して、彼女を安心させるように美咲は言う。
「責任を果たそうとして、第三者……例えば私とかが止めた上で帰るのは、無責任だとは思いませんよ」
「…………」
 沈んだ表情で何事かを考えていたファーシーは、やがてこう、美咲に訊いた。
「美咲さんは……辛くないの?」
「私ですか? 私は……そうですね。辛くないわけではないですけど……」
 問われて、改めて自分を振り返ってみる。脳裏に浮かんだのは、かつてタシガン空峡に現れた赤黒い渦だった。渦の外で発見された死体について、そして自身が渦の中に入って経験したことを思い出す。
「ちょっと前の話なんですが、ダークレッドホール事件っていうのがあったんです。私も頑張ったんですけど、救えなかった命が沢山ありました。……小さな女の子も、犠牲になりました」
「ダークレッドホール事件……。聞いた事が、あるわ」
 大きな事件だったから、詳細までは知らなくともどんな異常事態があったかは報道で目にしたのだろう。人が、死んだということも。
「百合園の生徒に死者は出ませんでした。だからそれで良い、と、私は思えません。……出来ないことはある。それを『仕方ない』と言って自分を納得させるのは簡単です。……でも、悔しいじゃないですか。諦めたくないじゃないですか」
 話しているうちに、徐々に感情が高まってくる。残っていたコーヒーを飲んで一度気持ちを落ち着かせてから、美咲は続けた。
「……私は、救えなかった命があったことを決して忘れません。次は、次こそは助けるって、誓っています。いつか、この考えのせいで命を失うことになるかもしれませんが、それこそ『仕方ない』って思っています」
 努めて笑顔を見せるが、それをファーシーがどう捉えたのかは分からない。潔い覚悟が見えただろうか。それとも――

「美咲さん……」
 ファーシーには、そこに覚悟と共に、寂しさを感じた。ともすれば簡単に消えていきそうな、儚さも。快活そうな印象のその内側からは、確かに揺らがない何かを感じる。
 ――それなのに。
 ふと、あの時ラスに言われた事を思い出した。意志の力で事態が好転する事など、稀なのだと。どうにもならない事も、この世にはある。と。恐らく、事実の側面ではあるのだろう。でもそれは、美咲の言う『諦め』から来た言葉のようにも思えた。悪い結末を仕方ないと受け入れる為の、諦めの言葉。
 どうにかしようと思って。
 絶対的に手段が無くて。
 それでも諦めない人は、きっと『どうにもならない』とは言わないのだ。
 彼女は彼と逆の事を言っている。その考えは、どちらかというとかなりファーシーと近い。そうよね! と力強く賛同したいのに何故か躊躇ってしまうのは、感じる儚さのせいだろうか。
「ファーシーさんにもそういうのありますよね? 確か、娘さんがいるって聞きました。その子がどんな風に育っても、諦めたり見捨てようって思わないんじゃないですか? 違います?」
「……そうね。もちろん、悪い子に育つとは思わないし育てないけど、何があってもわたしはイディアを見捨てないわ。そんなこと――絶対にしない。でも……」
 ――多分、そうだ。救うのなら、彼女自身も――美咲も救わないと意味が無いから。
「同時に、わたしはわたしも諦めないわ。だから、美咲さんも諦めないで」
 結果がどうであれ、『救えなかった命』に自分を入れてはいけない。たとえ、どこかで察してしまっても――それを口にしてはいけないのだ。
 美咲は少し驚いたように数度瞬きした。自分の浮かべた笑顔が彼女にどう映ったのかは分からない。だけど、何かを感じたのだろう。
「ファーシーさんも、ですよ」
 と言って、美咲は笑った。