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Case:2 (リュース・ティアーレ(りゅーす・てぃあーれ)





 同じ頃、空京。
 パチン、パチン、と鋏の音に紛れて、ラジオから流れてきた優しい曲調の歌に、冬に向けての剪定を行っていたリュースは顔を上げた。
「懐かしい曲ですね」
 その反応に、手伝っていたアレス・フォート(あれす・ふぉーと)が僅かに綻んだのに、リュースは頷きながらも不思議な心地で、懐かしむように目を細めた。
(変わったな、アレス)
 出会ったばかりの頃は、こんな穏やかな顔を見ることができるようになるとは、思ってもいなかったのだ。
 当時の自分も、相当妙な顔をしていただろう、とリュースは回想する。
 怒りに任せ、パートナーを傷つけた元凶を殺そうとし、それを止めに入った大切な人すら、邪魔する者として斬った。シャンバラへと戻りながらも、その自責の念が色濃くまとわりついていた。そう、丁度、この曲が発表されて、時折耳にするようになった、そんな頃の話だ――……



 
 その出会いは、ジャタ族の村でのことだった。
 シャンバラへ戻ってすぐ、依頼を受けて訪れたのだったが、深い木々の中に落ちる影のように、リュースの心は晴れなかった。
(オレは……ここにいて、いいのでしょうか)
 消すことも、制御することもできない身の内の狂気。またいつ、誰を傷つけるとも知れないそれを抱えた自分がこのシャンバラへ戻ってきたのは間違いではないのか、と。そう思う半面で、戻って来るように説得してくれた人のことを思えば、ここに居たい、とも思う。
 そんな相反する思いが行ったり来たりを繰り返す中、行く当てもなく村の中を歩き回っていたリュースはふと、その視線の先に、座り込んだままぼうっとどこかを見やってる様子の獣人の姿を見つけた。
(空を見ている? ……いや、違う)
 微かに沸いた好奇心のままに、ゆっくり近付くと、その目が見ているのは空でもなく、木々でもなく、何でもない……虚空を見ていることに気がついた。そして、その片方だけの腕。一種独特の空気を纏ったその獣人に、気付けばリュースは声をかけていた。
「あの……」
 瞬間。ぱっと振り向いたその獣人は、驚いたように目を開いてリュースを見やった。が、驚いたのはリュースも同じだ。こちらを向いた目の内、片方に光が無い。視力が無いのだと悟るのに十分だった。
 一瞬飲み込んだ声を再び出そうとして、リュースは口を開いたが、それより早く、ふいとその獣人は顔を逸らした。
「あの、すいません……オレは」
「俺に……構わないでください」
 言いかけたリュースの言葉を遮ったのは、冷たい声だ。こちらを見もせず、寄せ付けない空気を纏って、他を拒絶する姿は、憤慨でもなく苛立ちでもなく、虚しさだ、と、リュースは直感的に悟った。
 この獣人の中に、何も無い。すっぽりと何かが抜け落ちた中で、自分に意味が見出せない。けれど、それを変えるだけの動機が無いのだ。
(ああ……この人は、同じなんだ)
 自分の中から消え去らない、根深い狂気。この青年の虚しさや、自身への拒絶はいずれ、深いところまで落ちてやがて自分と同じように狂気と化してしまう。そう思ったときには、リュースは口を開いていた。
「名前を教えてくれませんか」
「……アレス」
 不審げに名を名乗る獣人、アレスに、リュースは迷いなく手を伸ばした。
「オレと、契約してくれませんか」
 その言葉は、相当予想外だったのだろう。何を言われたのか判らない、という顔で、アレスは目を瞬かせた。そうして、伸ばされた手とその顔とを見比べ、今の言葉が聞き違いではないと悟ると、眉を寄せてふるりと首を振った。
「お断りします。他を当ってください」
 そう言って、まだ何か言いたげなリュースを遮るようにして、アレスは重たげに腰を上げた。その体を支えているのは、杖だ。
「この通り、俺は足も弱いんです」
 言って、酷く苦い、自嘲気味の笑みを浮かべると、アレスは続ける。
「事故で、殆どを失った身です。これでも契約したいと言うんですか?」
 馬鹿馬鹿しい、と。リュースが呼び止める前に、アレスはくるりと踵を返すと「さよなら」と短く言って、遠ざかって行ってしまったのだった。


 だが、そこで「さよなら」とはならなかった。
 次の日も、その次の日も、リュースはアレスの元を訪れたのだ。
「……何度来ても同じです。契約はしません」
「何度断っても同じですよ。諦めませんから」
 思いのほか頑固な様子に、アレスは溜息をついたが、その言葉どおり、更に次の日も、また次の日も訪れてくるリュースに、とうとう呆れたような息を吐き出して、アレスは「何故です」と尋ねた。
「獣人なんて、この村には、他にいくらでも居るでしょう」
「獣人が必要なんじゃないんです。オレは、あなたと契約したいのだと言っているんです」
 その言葉に、きり、とアレスは歯を噛み締め、眉を寄せると、手にした杖を握り締めた。
「こんな体の俺に、何が出来ると言うんです」
 色濃い自嘲を湛えた笑みが、リュースにぶつけられる。自分への失望や、虚しさを、八つ当たりだと判っていても止められなかった。
「俺は……あの事故で、死んでいるべきだったんです」
 ままなら無い体を抱えたまま、生きている意味が無い。けれど、自分で幕を引くことも出来ない。そんな自分への苛立ちがそのまま、言葉に現れている。そんなアレスに、リュースは躊躇うでもなく、まっすぐにその手を伸ばした。
「なら、何が出来るか……オレと契約して、一緒に探せばいいじゃないですか」
 その言葉に、アレスは何とも言えない顔で眉を寄せた。沈黙は数秒。あれこれと言葉を探しながら、説得できる言葉は思いつかずに、ついに溜息を吐き出した。
「どうやっても、諦めてくれませんか」
「ええ、あなたが折れてくれるまで」
 その言葉は間違いなく本気だろう。だからもう、アレスにはこの言葉しか残っていなかった。

「…………仕方、ありませんね」




 そのときのことを思い出したのか、リュースは「良かったですよ」と言って、懐かしむようにくすりと笑った。
「あの時折れてくれて」
 その言葉に、アレスは「折れるまで諦めない、といったのは君でしょう」と肩を竦めた。
「……ですが、感謝しています。あの時、俺に手を伸ばしてくれて」
 あの時、何もなく、虚しいだけだった、どうでもいいだけだった世界は、アレスの中で眩しいものに溢れている。そんな世界に連れ出してくれたあの手を、忘れることはないだろう。
「ありがとう、リュース」
「それはこっちの台詞ですけどね」
 即答するリュースに、アレスが笑い、釣られるようにして二人でひとしきり笑うと、ぱんぱん、と手についた埃を払ってリュースは体を伸ばした。太陽はいつの間にか昇りきって、明るく世界を照らしている。
「さて、そろそろ昼食としますか」
「そうですね」

 そうして、穏やかに過ごせる今の時間を噛み締めるようにしながら、大学構内へと戻っていく二人の背中を見送るように、優しい曲がラジオから流れていったのだった。