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【猫の日】『キトゥン・ベル』の奇妙な開店日

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【猫の日】『キトゥン・ベル』の奇妙な開店日
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第8章 猫たちは事態を動かす

 オーナールームで、一人の女性が、机の上に大きな紙を広げて唸っている。

「う〜〜……全く誰じゃ! 術液の壺を倒して零したのは……!
 おかげで余計な紋を書き足したことになって、結界がますます不安定になってしまったではないか!
 急いで気付いて拭き取れたのが救いじゃが……
 これでますます、我が術の有効時間が短縮されるのは免れんな……」

 この店のオーナー、と名乗っているシルク。刳りの大きな目をしかめ、苦々しげな表情をしている。
(せめて……奴らに反省させるまではこの術、失効するわけにはいかぬのに)
 大きな紙には、この店の見取り図。だが、その上から魔方陣を思わせる奇妙な紋様が書かれ、しかも至る所に、謎の数式が書き込まれている。
「? ……そこにおるのは誰ぞ?」
 突然振り返り、ルームランプの影に向かって声をかけた。


「にゃー(よぉ)」
 出てきたのは灰色っぽい猫――実は柊 恭也(ひいらぎ・きょうや)である。
「ぬし……いつの間に」
『さっき扉が開いてた時に』
 シルクは先刻、とある異変に感づき、少しの間部屋を出た。その間に入ったものだという。
 ちなみに猫ルームにいた恭也が部屋を出たのは、ンガイ・ウッドの騒動に乗じて東條 葵がに抜け出したのと同じ時である。

(もう慣れたよ、こんな突然のアクシデントなんざ。
 パラミタにいればこんな騒ぎの10や20、当たり前じゃん)
 むしろ、すぐさま命を奪われるような緊急の大事でなかっただけめっけもん、というものだ。
 そう考えて、猫ルームですでに、恭也は開き直っていた。
(大体、相棒は葦原にいるしなー)
 他の契約者たちはいざ知らず、自分はパートナーの看破によって解呪してもらう、という方法は望めそうにない。
 ので、仕方がないと、猫になってる時間を一つの体験として味わうことにしたのだった。

「なるほど……契約者とはなかなか図太い精神でないと務まらぬようだな」
 恭也の話を聞いて、シルクは変に感心して腕組みした。
『やっぱりお前さん、普通の人間じゃねえな』
 普通の人間には自分たちの言葉は猫の鳴き声にしか聞こえないらしいが、彼女は普通に会話している。
「最初から予想しておったのだろうよ、ぬし」
『まぁそりゃあな』
 猫ルームにいる間、他の猫たちが聞き込みをしているのを聞いて、呪術の施行者の存在を知った。
『お前さんはシルクってんだろ? 』
 腹をくくっている恭也は、呑気とも思えるほどの落ち着きぶりで、シルクを見やる。
『猫ルームにいるリネンってやつとは、なんか関係あるのか?』
「あれは我の遠縁じゃ。おおかたぼんやり眠っておったじゃろう」
『いや、結構契約者と喋ってたし、親切げのある奴だったぜ。つまりあんたも猫だってわけだな』
「ふん、どうせそれも見通し済みじゃろ」
『そりゃあな』
 ぶっきらぼうに言いながらも、シルクの口元は面白そうに笑っている。変に慌ててもいない、怒りも恐れもしていない恭也の態度が却って気に入ったようだ。
『テーブルに上がっていいか? それともその紙の上はまずいか』
「いや、これはただの覚書じゃ。見てもぬしには分からぬじゃろ。上がってよいぞ」
 恭也はひょいっと身軽にテーブルに跳び乗る。
『本当に分かんねえな。何だこれ』
「ずいぶん古い秘伝の術式じゃからの。……己の器量に余ることはするものではないのう」
 そう言うと、シルクは寂しげに、自嘲気味に笑った。
「そういえばぬしの名は」
『柊 恭也だ。まぁよろしくな』
「柊 恭也。ぬし、それでここまで来て、我をどうするつもりかえ?」
 恭也はテーブルに広がった紙の上から、シルクの顔を見上げた。
『別にどうもしないさ。あんたには契約者に対する悪意はないし、解呪の手段もご丁寧に準備されている。
 そうだな、俺は……お前さんがどうするのか、一緒に見させて貰うさ』
 意外そうな表情を浮かべるシルクを見据え、恭也はさらに、しかし事もなげな口調で言う。
『で、シルクさんや。この後はどうすんだよ?
 ――多分、俺と同じことを知りたい連中が、そろそろここに押しかけてくる頃合だと思うぜ』

 恭也の言葉を裏打ちするように、複数の足音がこちらへ向かってきた。



 猫にされた紫月 唯斗(しづき・ゆいと)は、猫ルームでずっとにゃーにゃー鳴いている。
 ……いや、にゃーにゃーとしか聞こえないのは不可抗力である。
 人の声には鳴き声にしか聞こえなくても、彼は懸命に、大切な人を呼んでいるのだ。
『リーズ! こっちだこっち! こっちを見てくれよ!!』
 ガラス壁越しに、飲食テーブルで残り少ないドリンクをちびちび啜っている、寂しげな顔の獣人の少女を。

(唯斗、まだかな……)
 もうかなり長い時間、飲食ホールの隅っこのテーブルで、リーズ・クオルヴェル(りーず・くおるう゛ぇる)はドリンク一杯で粘っている。
 今日は一緒に『キトゥン・ベル』に行く約束をしていたのに、唯斗はまだ姿を見せない。
(夜帰って来ないのは良くあるけど、約束を何も言わずにすっぽかす奴じゃないのに……)
 店の前で待ち合わせ、という約束だったのでずっと待っていたのだが、いつまでたっても来る気配がないので、
(はぁ……中で待ってれば、来てくれるかな)
 そうして店に入り、飲食ホールでずっと待っているのだが、唯斗は現れず、リーズは沈んだ顔でここにいる。
「?」
 ガラス越しに、やたら鳴いている黒猫がいる。ガラスに脚を打ちつけているのか、何だかたしたしと音もしている。
「だ、大丈夫かな、あの猫……なんであんなに気が昂ってるんだろ」
 飲食ホールの客はだいぶ少なくなっている。リーズは恐る恐る、ガラスの近くの席に移動した。
 ――(リーズ、リーズ! ルームに入ってきてくれ!)
 必死にガラス越しにアピールする唯斗を見て、リーズはしかし、ただ待ち疲れた目を細めて笑うだけだ。
「あはは、唯斗みたいな生意気そーな目付きしてる」
 リーズは知らない。唯斗が猫ルームの中から、彼女がぽつんと店の前で待っていた時から、案じて入店するのを待っていたことを。





 再び、オーナールーム。
「話してくれると仰いましたよね。伺わせてください。力になると言ったのは嘘ではありませんから」
 エース・ラグランツが言う。
「何が起きていたかは見ていて解っていましたわ。ただ、何故この様な事をしたのかは、ご自身でご説明下さいな?」
 中願寺 綾瀬が言う。
「もしも何かしたいことがあるなら、出来るだけ力になりたいし、不満があるなら解決のための手助けをしたいの。
 だから……今猫ルームで困ってる人たちの呪いは、解いてあげられないのかな」
 ルカルカ・ルーが言う。隣りでダリル・ガイザックが、じっとシルクを見つめている。
 シルクは、一同をじっと、大きな猫目で見つめる。テーブルの上では猫の恭也が、そんなシルクがどうするのか、見つめている。
「……。あやつらは、反省しておったかえ?」
 いきなりシルクは、そんな風に尋ねた。
「あやつら?」
「もともとの店長と店員どもじゃ。ぬしら、猫ルームで会わなんだかの」
「あぁ……」
 ルカルカは、聞き込みをした非契約者の猫たちのことを思い浮かべた。
「反省……は分からないけど、怯えていた。猫が自分たちに対して怒ってる、って感じてる人もいたし」
 ルカルカが正直に答えると、シルクはふーむ、と唸りながら腕組みをした。
「……。どのみち、限界は近い……」
 言いながらシルクは、テーブルの上の紙を見る。
「もともと、不注意から契約者を巻き込んでしまった時点で、この結界は破綻しておったのじゃからのう」
「というと」
 エースが説明を促す。シルクは素直に言葉をつづけた。
「我の呪詛はそう強くはない。
 結界を作り、その中だけで通用する約束事を紡ぎ合せて世界律を作ることで『完全な別空間』を構築し、その中でだけ長時間、破綻することなく維持することができる。
 だがその『完全な別空間』をつくるための約束事にも厳密な決まりがあって、それを守らずに無為無法に行使できるほどの力は我にはないのじゃ。
 一時的に人を猫にするためには、対価が必要じゃ。だから猫を人に変えた。
 その際、『人に代わる猫』と『猫に代わる人』の数を予め計算し、その比率を維持することによってバランスを守らねばならぬ。
 だが、呪詛の声がうっかり店外まで漏れ出てしまったばかりに契約者を巻き込み、それによって最初に設定した比率が変わってしまった。
 ゆえに開店した時からすでに結界は不安定だった。
 万が一破綻すれば、呪詛の磁場が乱れて力が不規則に流れ、我にも呪詛を解けなくなる可能性がある。
 ゆえにつきっきりで、この図を睨みながら狂った地場の修正をその都度施していたのだが……」

『もうこれ以上の修正は無理だと思うよ。君の呪力が尽きてしまう』
 声がして、見ると契約者たちの足元に、とことこと歩いてきた影があった。
「リネン……」
 茶色の猫、リネンの言葉は、人の姿の契約者にも人語として聞こえる。
『さっきここに来るまでに見て来たけど、猫の店員たちはもうだいぶ元に戻りかけている。契約者の猫がだいぶ元に戻ってるから、その反動で猫の方の呪詛が剥がれかけているんだ。違うかい?』
「あぁ、そういえば……だいぶお顔が猫になっておりましたわね」
 思い出したように綾瀬が呟く。
「リネン、ぬし……」
『もう充分だよ、シルク。呪詛は終わろう?
 足りないところは、別の方法で伝えようよ。僕も手伝うから』
 そう言ってリネンは、耳の後ろを後足でくしくし掻く。



 茶猫のリネンと一緒に猫ルームを出た契約者のリネンが、途中から別行動になったのは、厨房の近くでパートナーのフェイミィ・オルトリンデ(ふぇいみぃ・おるとりんで)の姿を見かけたからである。
(ここに辿りつけたんだ、フェイミィ!)
 ――『どこいっちまったんだ、リネン……どうした、グランツ?』
 行方の分からなくなったリネンを捜していたフェイミィは、連れていたワイルドペガサスのナハトグランツが何かに引かれたように注意を向けた『キトゥン・ベル』で足を止めた。
(ここにリネンが? ……猫? 猫カフェ?)
(猫……リネンが猫カフェ……リネンが猫……ネコ)
(……ふ、ふふふふ)
 明らかに別の意味の「ネコ」を連想してしばしにやけていたが、すぐにハッと我に返った。
「いやいや、今は真面目にやらねぇと!」
 ナハトグランツの直感を信じ、踏み込んだものの、リネンの姿はない。
 仕方ないので店員を捕まえ、リネンの特徴を説明して目撃情報を求めようとしたが、誰に聞いても成果がない上に、店員たちの挙措動作は何だか妙である。
(なんだこいつら? 怪しい……隠し事してんじゃねーか?)
 本当に知らないのか、と、小柄な少年のような店員に、語気を強くして詰め寄っていた、リネンが通りかかったのはまさにその時である。
 ――「にゃあああ(フェイミィ)!!」
 呼べどフェイミィにはそれがリネンの声と気付くはずもない。
(まずい……早く元に戻らないと、誤解していろいろ厄介なことが起こりそう)
 折角フェイミィが来て、元に戻れるチャンスなのに。
(とにかく、『騎獣格納の護符』を……あれさえあれば、いくらフェイミィでも気付いてくれるはず)
 猫になった時にどこかに持っていかれたと思われる(猫のリネンは「何も奪っていないし、見失ったものがあるならバックヤードにしまってあるはず」と言っていたっけ)騎獣格納の護符、あれを手に入れるのが先決だと、ここは一旦離れよう、とリネンが駆け出そうとしたその時。
「うわあぁっ!?」
 フェイミィの驚いたような、いささか素っ頓狂な叫び声がして、慌てて振り返った。
 店員に詰め寄り、肩を掴んだはずのフェイミィの手の中にいたのは、小柄な白い猫だった。


(綾乃にこんな酷い事するなんて、絶対に許さない!
 犯人見つけ出して、たっぷりお仕置きしてやるわ!)
 と、パートナーを取り戻した舞香は怒りに燃えて、綾乃を連れてスタッフ用休憩ルームに乗り込んでいった。
 室内には店員が二人いるだけだった。一人は若い女性、一人は中年の男性。二人がにゃんにゃんと語尾に付けて喋っているのは……傍で聞いていてもなんだか。
(いい年した男の癖ににゃあにゃあ言ってるあの気持ち悪い男……怪しいわね)
 やがて男が出ていく。人気のないバックヤードの備品棚へと向かったのを見て、好機とばかり追いかけ、棚の並びの一番奥で、壁際まで追い詰めた。
「にゃにゃっ!?」
 怯んだ男の襟首を掴み上げ、凄みをきかせる。
「この店のしてることは知ってんのよ! 誰がこんなことを仕組んだの!?」
 中年男は怯えきって首を横に振るばかりだ。
「言いなさい! さもないと、ヒールで蹴り潰して去勢してメス猫にするわよ!」

 叫んだ次の瞬間、ぽんっ、と軽い音がしたかと思うと、
『ぎにゃあああああ』
 中年男は灰色と白のぶち猫の姿に変わっており、仰天した舞香の手をすり抜け、悲鳴のような鳴き声を残して、積まれた備品の隙間からその奥へと逃げていった。