リアクション
第8章 罠
「……フェルナンさん、これは……?」
その日の朝、フェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)の別邸に婚約者レジーナ・ジェラルディが訪れて間もなくのことだ。
レジーナは控え目な声に驚きをこめて尋ねたが、それはフェルナンも同様だった。
「お、お邪魔しまーす!」
扉を開けると、元気良く、ただ遠慮がちに訪れた七瀬 歩(ななせ・あゆむ)を筆頭に、控え目なお嬢様が二人、そしてその二人の保護者然としている女性が二人。総勢五人の百合園女学院の生徒が揃っていたのだった。
「……えーと、琴理ちゃんのかわりに様子見に来ました」
さすがにフェルナンも戸惑ったようだったが──ただでさえ、パートナーが夜に戻ってきて泊まり込む、と宣言していったのだ──彼女たちが心配してくれていることは伝わったのだろう、
「……どうぞ。レジーナさんも構いませんか?」
振り向けば、いつの間にか傍にいたレジーナが、目深に被った帽子の下で頷いた。
「ええ、勿論です。フェルナンさんのお友達……ですから」
といいつつ、レジーナのフェルナンに向ける視線に少しだけ、厳しいものが混じったような気がする。
(……お、お邪魔? し、仕方ないんですー!)
「失礼しますー」
歩は視線から逃れるように家に入ると、応接室でお茶を出され、やっと一息ついた。そうして、本来の目的に戻る。
別に、「お邪魔」するのが目的ではなく……とある一つの推測を確かめに来たからだ。ソファにゆっくりと腰掛けるレジーナを眺める。
(レジーナさん、この前と印象違うなぁ。やっぱり姉妹だなぁ、似てる)
本当に似てるだけなのかな? と思ってレジーナを見れば、帽子の下の視線が合ってちょっとびっくりする。
この前の様子がいかにも病人で死にそう、といった印象なら、今日の様子は病弱だが普通の人、だ。以前は視線が合うことすら考えられなかった。そりゃあ、体調が悪ければそう言うこともあるだろうけど……。
「この間ご挨拶しましたけど、改めて。七瀬歩です。今日はお姉さんはご一緒じゃないんですね」
「ええ、調子が良いものですから。姉も私がいてはお邪魔でしょうから、と……」
声の調子こそ控え目だけど、何だか攻撃的な気がする、と歩は思いながら、
「この前聞きそびれちゃったんですけど、フェルナンさんのどこが好きになったんですか?」
「……それは……お優しいところでしょうか」
はにかむように、彼女は言ったが……本心なのかは分からなかった。
お茶を一杯いただくと、歩は早速、テキパキと働き始めた。
「フェルナンさん、お仕事の進み具合いかがですか? お手伝いしますねー」
「……ええ、……はい、お願いします。済みません」
そう言う彼の視線はいまいち定まっていない。
(フェルナンさんすごいぼんやりしてるなぁ。やっぱりショックだと思うけど、それだけじゃない気もするなぁ)
「大丈夫ですよ、ちゃんと傍で見てますから。あ、歌いましょうか? “幸せの歌”でも──」
「いえ、歌は結構です。……では、そこの書類をお願いします」
「はい!」
と、元気良く頷いた歩だったが……あれ?
(ここにさっきまで置いてあったの、どこにいったんだっけ?)
きょろきょろ見回すと、全く別のテーブルに書類が置いてあった。歩はおかしいなぁ、と思いつつ書類を渡した。
──だが、この違和感はこの日ずっと続くことになった。ものの場所。閉まっている筈の窓が開き、開いている筈の扉が閉まっている。
違和感、というより自分の感覚が信じられなくなりそうになった時……お茶を運んできた歩は、開いた扉の隙間から見たのだ。
……レジーナが、時計の針を動かしているのを。……何のために?
「おかしいですね、先程まで10時だと思っていたのですが」
「……お疲れではないのですか?」
……フェルナンは別の場所を見ていて、気づいていない。……混乱させるために? 何故?
妙な不安に襲われながら、歩は部屋に入った──大丈夫、見ていたことは気付かれていない。そうして、テーブルにお茶を置く。
トレイからありがとう、とカップを取って一口飲み、口を開いたのは、だがレジーナではなくブリジット・パウエル(ぶりじっと・ぱうえる)だった。
「……そうそう、言い忘れてたわ。フェルナン、そこの絵画だけど、明日取りに行かせるわね」
ブリジットは視線で、応接室に飾ってある海の絵を示した。以前レジーナの姉・レベッカが気にしていたものだ。
「……どうかされたんですか?」
レジーナの質問に、ブリジットは名にも気付いていないように、澄まして頷く。
「気に入ったので、譲ってもらうことにしたの。パートナーの舞の実家のある日本にね」
橘 舞(たちばな・まい)も頷いた。こちらは、何も悟られることのないよう気を遣いながら。
「……そうなんですか……」
レジーナは何か考え込むように、絵画に視線を向けている。彼女の反応を、じっとブリジットは見ていた。
彼女が絵画に気を取られている間、フェルナンにそっと近づいた人物がいる。
「フェルナンさん、手が止まっているようだけど……これかな?」
シェリル・アルメスト(しぇりる・あるめすと)から書類を受け取ったフェルナンは、その紙の束と束の合間に、手触りの違う紙が忍ばせられているのに気付いた。人目に付かないように開くと、きれいな字で質問が並んでいた。
それがレジーナの目に付かないようにとしたことだとは、彼にも判る。
そして質問は確かに、レジーナを疑っていた。
フェルナンはしばらく逡巡したようだったが、簡潔にその紙に返答を書いて、寄越す。
最初の殺人が起きた日も今朝も、レジーナさんは今みたいに調子が良い状態だった?……最初には、いいえ。今朝は調子が良い。
今朝出掛ける前か、出掛けている最中に何か飲んだり口にしたりしなかった?……朝食を。前後に不審な点は無し。
この別邸に、レジーナさんと仲の良い、或いはよく世話などをするのに当たっている使用人はいる?……いいえ、特には。
その紙にさっと目を通して懐に仕舞い込むと、彼女は藤崎 凛(ふじさき・りん)を探しに行った。
凛──シェリルのパートナーだ。変装までしてジェラルディ家に行こうか、とも言いだした。
その彼女は今、別の部屋にいる。客人に応じるべく掃除の手を止めた使用人は、彼女の言葉に耳を傾けていたが、
「フェルナンさん、最近お元気がないみたいで……パートナーの琴理お姉様もとても心配しておいででした。皆さんには、心当たりや最近何か変わった事はありませんでしたか?」
首を振っているのが見えた。
「……凛、まだ頑張っているの? 疲れたなら少し休んでおいで」
そう言ったが、凛は薄い微笑を浮かべて首を振った。
「シェリルも元気がない時があったから他人事には思えないの。私は頼りないパートナーかも知れないけど……いつか、シェリルに何でも話して貰えるように頑張りますわね」
その様子にシェリルは胸を打たれる。
(あんなにリンが懸命になっているっていうのに、私は何を考えていたんだ)
「リンにはいつか話すよ。君だけは守るから、離れないでいてくれないか」
「……ええ、大丈夫よシェリル」
一言、そう言って貰えるだけでどれだけ安心できたか──むしろ守られているのは自分かも知れない、などと、シェリルはふと思ってしまう。
しかし、今はそれを考えている時間ではなかった。
「あのねシェリル。使用人の皆さんに伺っていたのだけど、……このお家で薬を盛られたりはないんじゃないかと思うの」
「どうして?」
「もしこの別邸に物を動かしたり、薬を盛れる人がいても、買い物に行った筈の場所の人が彼を覚えていないという説明がつかないわ。それに、一番調子が悪かった……見るからに悪かったのは、あの最初の事件の後だけで、後は体調というよりぼんやりとしているような感じだというお話だったの。だから、原因が違うのではないかなって……」
*
──夜が訪れた。
約束通り別邸に戻って来た
村上 琴理(むらかみ・ことり)の顔は浮かなかった。
「俺はもう休みますが……大丈夫ですか?」
レジーナを寝室に送った後、フェルナンがそう尋ねたが、彼女はうん、と頷いて時分に割り当てられた客室に入ると、待っていた面々にこう告げた。
「私、調べたんです。もし買い物に言ったのが確かなら。場所が違うか、人が違うか、それでなければ……相手が嘘をついているか、です」
「……どうだったの?」
歩に訊ねられ、彼女は小さく頷いた。
「……確信はないの。でも、嘘をついていると思う。何故そんなことをしているのかは分からないけど……多分、混乱させるためじゃないかと……」
「うーん、確かに。私も何でレジーナさんが書類の位置を変えたりしてるのか、不思議だったなぁ」
そう話していると、
「──二人とも寝室に入りました」
舞が扉から顔を引っ込めて告げ、
「私、わかりましたよ。フェルナンさんは、ジェラルディ家で夕食の時に睡眠薬を飲まされたんです。犯人は倒れたフェルナンさんの側にいて……ところが運悪くそこにソフィーさんがやって来た。
きっと犯人はソフィーさんと顔見知りで、顔を見られて慌てた犯人は、部屋にあった剣でソフィーさんを殺害、その場から逃亡した」
「ま、そんなところでしょうね。私はフェルナンが操られたんじゃないかと思ってるんだけど」
「ふふ、私の推理力も捨てたものじゃないですね。あ、でもまだ疑問が残りますよね」
それから百合園女学院の面々は、そっと扉を開けると応接間に移動した。ブリジットの考えが正しければ、彼女はここに今日、来るはずである。
「疑問があるなら本人に聞いてみましょう。今日、レジーナの正体を暴いてやるわ」
家具の間に息を潜めて待つと、そっと扉が開いて、黒い影が現れた。周囲を確認すると、そのまま絵画の方に真っすぐに行き、額に手をかけて外そうとする。
「──そこまでよ」
パチン。
電気のスイッチが入って、急に部屋の中が明るくなった。眩しさに思わず顔を庇うその姿は、まぎれもなく……。
「レジーナ・ジェラルディ。いえ、姉のレベッカと呼んだ方がいいかしら?」
ブリジットが手に腰を当てて進み出ると、舞が首を傾げた。
「ブリジット……確か、聞いてこいって言いましたよね。フェルナンさん、元気なレジーナさんとレベッカさんの二人同時に会ったことがない、って言ってました。あれってどういう意味だったんですか?」
言うとすぐ顔に出るから、と教えてもらえなかったことを、今こそ聞いてみれば、
「レジーナを動かしているのがレベッカなら、姉妹同時には動けないはず。これでレジーナから感じる違和感の正体も説明がつくわ。たとえば……精神と肉体の交換とかね」
びしっと指をレベッカに付き付ければ、彼女は帽子を取って髪をこれ見よがしにかき上げた。
「──それは残念ながらハズレだわ」
今までとは打って変わった、自然なきびきびとした動きと顔立ちで──それはそう、レベッカ・ジェラルディと呼ばれる人物そのものだった。
「化粧と演技。……でも、だからどうだというの? 私は可哀想な妹に代わって婚約を進める手伝いをしているだけ……」
「……嘘だわ」
琴理はそう口を挟んだ。
「でも、証拠なんてないでしょう」
「証拠はないけれど、今、こうやって盗みを働こうとした人物を、フェルナンの婚約者だなんて認められない……」
「認めるかどうかは貴方が決める事じゃないわ」
挑発的にレベッカは言って──だが多勢に無勢と悟ったらしい。肩を竦めると、部屋を出て行った。
「……今夜は大人しく眠ることにするわ」