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八月の金星(前)

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八月の金星(前)

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【四 決して悪あがきなどではない】

 皮肉なことに、バッキンガムが着底して謎の航行停止に陥って以後の方が、沙 鈴(しゃ・りん)にとってはすこぶる調子の良い日々が続いていた。
 元々鈴は、船に強い方ではなかった。
 代々が海軍の家系であり、その方面にはそれなりの知識もあるから、ということで、バッキンガムの試験航行には上官から無理矢理指名されて、参加させられたという経緯があった。
 だが、とにかく船酔い体質は一朝一夕で改善する筈もなく、試験航行が始まったその日から、毎日毎時毎分のように汚物処理用のバケツに向かって、げぇげぇと吐瀉物を垂れ流す日々が続いたのである。
 ところが、五日目にしていきなりバッキンガムが謎の航行停止に陥り、そこから長期間の着底状態が続くようになると、艦内の揺れというものがほとんど収まった為、鈴の船酔いも相当に回復していたのである。
 本来の在り方としては真逆の話になるのだが、鈴にとっては今のこの状況の方が普通に動ける分、有り難いといえば、非常に有り難かったというのが本音であった。
 しかしながら、艦内の異常な状態が喜ばしくないことも、重々に承知している。
 再び艦が航行を再開すればまた、船酔いの悪夢が襲いかかってくることになるのだろうが、それでも鈴としては、現状打破の為の行動を取らざるを得なかった。
「何だか随分、調子が良さそうですなぁ。やっぱりアレですか、船酔いである時とそうでない時ってのは、全然違いますか」
「それはもう……決して比喩でも何でもなく、天と地ほどの違いがありますわ」
 ルース・マキャフリー(るーす・まきゃふりー)の、やや緊張に欠けたのんびりした声に、鈴は僅かに苦笑を浮かべて静かに応じた。
 現在、ふたりはペアを組んで艦内調査の任に当たっている。
 と同時に、鈴は手にしたバールで時折、艦内の内殻を軽く叩き、外部に向けてモールス信号を送っている。
 海中をバールで叩いた音が伝わっていくかどうかという初歩的な問題もあるが、何もしないよりはまだましだということで、とにかく鈴は自分に出来ることをやろうと心がけていた。
 その点はルースも全く同じであったが、ルースの場合はどちらかというと、艦内を徘徊している謎の影への対処に全力を注いでいる節があり、鈴とは若干、行動そのものの方向性が違っている。
「水雷長殿曰く、この艦のSLCMに搭載されているのは全て模擬弾頭だって話ですから、いざとなりゃ、その模擬弾頭に乗り込んで海上射出にて脱出、って手も考えられますな」
「ですが、模擬弾頭とはいえ射出時の衝撃は相当なものだともおっしゃっていました。コントラクターであっても、その肉体が耐えられるかどうか、分からないそうですよ」
 更に鈴は続ける。
 コントラクターで耐えられないものが、一般兵に耐えられる筈もない、と。
 このバッキンガムの乗員はプロの潜水艦乗りではあるが、その大半は鈴がいうところの、一般兵であった。
 であれば、矢張り脱出の為にはこの艦そのものを操作するか、或いはサルベージ船で引き上げるか、更にはDSRVのような救助艇で助け出されるのを待つかという選択肢しかない。
 だが現時点では、一番目の選択肢は不可能である。
 というのも、現在行方不明となっている者の多くは、航海士と操舵士、そして機関士といった面々が圧倒的に多く、要するにバッキンガムを動かす為に必要となる人員のほとんどが不在となっているのだ。
 そうなると、残る選択肢はサルベージ船での引き上げか、DSRVでの救出といった辺りが現実的なのだが、しかし果たして、国軍が自分達の居場所を探し当ててくれるかどうか、というところに若干の不安があった。
「まぁ……信じて待つしかないのでしょうけど……こう、何ていいますか……完全に受け身の状況で待つしかないというのも、嫌なものですね」
「おっしゃる通りですな。同じ待つなら、もっと攻めの待ち方ってのを模索したいところですなぁ」
 ルースのいう、攻めの待ち方をしている者も、居ないことはない。
 但しルース自身は上述したように、謎の影に対処する為に行動しているのであり、脱出に対する比重というのは今ひとつ低かった。
「それにしても、消えた面々に関する手がかりってのは、全くといって良い程に何も出てきませんな」
「そうですね……神隠しに遭ったひと達は全員、単独の時に消えたようですし、謎の影が直接襲いかかってきたという訳でもなく、ただ目撃されているというだけの話ですから」
 敵が居るのかどうかすらも、まだ分からないという状況であった。
 消えた面々がどのような状況で、何をしていたのかさえもはっきりせず、消えた状況そのものもてんでばらばらで、全く統一性というものがない。
 さすがにこれでは、ルースの調査が難航するのも、無理は無かった。

 バッキンガムの水雷長葛西 敦教(かさい あつのり)少佐は、三船 敬一(みふね・けいいち)中尉と白河 淋(しらかわ・りん)からの魚雷発射管操作を教えて欲しいという依頼に応じて、垂直発射式の弾頭発射管の操作方法について詳しいレクチャーを実施していた。
「中々、筋が良いな。もしかしてお前、工兵か?」
「最近は、専らそればっかりやってます」
 感心する葛西少佐に、敬一は何ともいえない表情で頭を掻いた。
 元々は歩兵科が本職だった筈なのだが、今ではすっかり、工兵科の顔ともいうべき存在として、その名が知られるようになってきている。
 喜んで良いのか嘆くべきなのか、敬一自身にもよく分からなかった。
「それで、この弾頭発射管から何を撃つつもりなんだ?」
「えぇっと……こちらの現在地や、艦内状況を知らせる文書を海上に射出するつもりです」
 淋の説明に、葛西少佐は成る程と相槌を打った。
 ただ無為に救出を待つのではなく、積極的に救助を誘い込む方法を取ろうという訳だ。
 敬一と淋のこの発想こそが、ルースがいうところの、攻めの待ち方に他ならない。ただ何もせず、助け出されるのをじっと待ち続けるよりは、少しでも情報を海上に展開出来る手段を講じた方が、助かる確率は上昇するのである。
 ならば、出来ることから全て、片っ端から手を打っておく――最も合理的な発想であるといえた。
「その垂直発射式の弾頭発射管なんだけどさ……それって例えば、ぽいぽいカプセルみたいなのも一緒に撃ち出すことって出来るのか?」
 たまたま、自室での休憩を終えて水測室へと向かう途中だったシリウス・バイナリスタ(しりうす・ばいなりすた)が、興味を引かれて顔を覗かせてきた。
 水平発射式の魚雷発射管は艦の前方に位置しているが、この垂直発射式の弾頭発射管は丁度、居室と発令所の間に位置していたのである。
 シリウスの後ろから、サビク・オルタナティヴ(さびく・おるたなてぃぶ)も何事かと、顔を覗かせてきた。
 葛西少佐はシリウスとサビクにはその気が無いのに、ひとりで勝手に生徒が増えたと喜んでいる。
「おぅ、丁度良いから、お前達もここで覚えていけ。何かの時に、役立つかも知れんぞ」
「えー……オレ達、それどころじゃないんだけどなぁ」
 シリウスは、これからピンを打つ為にソナールームへと向かおうとしていたのである。
 元々彼女はこの試験航海では、ソナー手見習いとして参加していたということもあり、魚雷よりもソナーの方に知識の吸収欲を向けていた。
 ところが、葛西少佐は決して引き下がらない。
「コントラクターなんだったら、何でも出来るようになっておかなきゃならねぇんだろ? だったらつべこべいわずに、ここで勉強してけって」
「それって、全然説得力無いっていうか、何の脈絡も無いんだけど」
 サビクが呆れ気味に小さくこぼすが、しかし葛西少佐はまるで聞いちゃいない。
 無理矢理シリウスとサビクのふたりを発射管操作室内に引きずり込むと、敬一と淋の左右に座らせて、そのまま当たり前のように講義を再開してしまった。
「まぁ、諦めてください……五人も居れば、流石に例の謎の影とやらも、襲ってこないでしょうし」
「そりゃそうなんだろうけどさ」
 苦笑を浮かべる淋に対し、シリウスは何ともいえない面持ちで肩を竦めた。
 その間にも、葛西少佐は真剣にメモを取る敬一に、次から次へと操作盤や発射管に関する説明を矢継ぎ早に並べ立ててゆく。
「そういえばさ……士官級で神隠しに遭ってないのって、葛西少佐だけなんだよな?」
「らしいね。でも葛西少佐個人がっていうより、水雷士全員が無事ってことだから、もっと他の理由があるんじゃないかな?」
 シリウスに答えるサビクの台詞には、相応の根拠があった。
 消えた士官クラスは艦長、航海長、機関長といった顔ぶれだが、士官クラス以外では航海士と機関士が圧倒的に多い。
 つまり、バッキンガムを動かす為の人員が集中的に姿を消しているのである。
 何らかの意図が働いているのは、間違い無さそうであった。