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八月の金星(前)

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【八 影、見たり】

 ブリーフィングルームに全員が揃うと、ホレーショが進行役を仰せつかって、プロジェクタースクリーンの前に位置を取った。
「では俺からひとつ、雑談的な情報から開陳しよう。興味半分程度で聞いて貰いたい」
 ホレーショが最初に報告したのは、シャンバラ教導団が何故、中国ではなく、アメリカの技術を用いて潜水艦を建造したのか、という点についてであった。
 もともと教導団は中国系であり、愛国心の強い中国人ならば中国製の潜水艦をベースに建造するのではないかという疑問を、ホレーショは抱いていた。
 これに対する回答は極めて単純であった。
 現在、シャンバラ海軍に兵器を納めている軍産企業が全て北米系であり、またロサンゼルス級やオハイオ級が米海軍の機密とはいっても、バッキンガムやヴェルサイユに導入されているのは概略的な機構だけであり、内部の機密設計部分に関しては全て、納入業者のオリジナル設計となっているのである。
 そして一番の理由は――シャンバラ海軍の上層部を占めているのは、その八割以上が元米海軍出身の将校ばかりであるという点であった。
 彼らにしてみれば、中国製のあらゆる兵器は今ひとつ信頼出来ないというのが、その本音であったろう。
「中国海軍は確かに年々肥大化しているが、しかし実際の海戦で勝利した経験は圧倒的に米海軍に軍配が上がる……そういう意味では矢張り、中国製は導入しづらい、というのがあったのかも知れない」
 続いてシルヴィアが、機晶エンジンの稼働限界時間について報告する。
 当初、イコンと同じ概念が導入されているものと考えていたシルヴィアだったが、その考え方が根本から覆されたことに、驚きの念を禁じ得なかったのだという。
「潜水艦用の機晶エンジンは事実上、原子力エンジンと同等の稼働時間を確保出来るんだって。イコンは瞬発的なエネルギーが必要となるから稼働時間に限界があるけど、潜水艦はエンジンそのものの規格が桁違いだし、エネルギー供給も常に一定だから、イコンのような無理な稼働がかかる訳でもなく、とっても安定してるってお話でした」
 また酸素維持に関しては、硫化ナトリウムの電気分解によって酸素を発生させ、それと同時にアルカリを発生させて二酸化炭素を吸着させるシステムを導入している。
 艦内酸素に関しては、余程の無茶をしない限り当面問題は無さそうであった。
「はい、しつもーん」
 シルヴィアの咆哮がひと段落ついたところで、いつの間にそこに居合わせたのか、マリエッタ・シュヴァール(まりえった・しゅばーる)が手を挙げて全員の注目を浴びた。
「バッキンガムの兵装については、どうなってるのかな?」
「基本的に、実弾は魚雷のみで、垂直発射管には模擬弾頭のみが装填されている、との話です」
 応じたのは、エシクであった。
 この話が事実であるならば、バッキンガムは接近戦以外の武装はほとんど皆無に近しいということになるのだが、果たして本当にそうなのであろうか。
「だけど、それならどうして私達コントラクターが掻き集められたんだろうね。何かもっと、別の意味合いがあるのかな?」
 美羽が眉間に皺を寄せて、小首を傾げる。
 この疑問に対して明確な答えを持っているものは、ノイシュヴァンシュタイン上ではブロワーズ提督とローザマリア、ゆかりの三人だけであり、パートナー達は詳しい話を何も聞かされていない。
 それはヴェルサイユ側のダリルやカルキノス、淵、或いは羅儀といった面々も同様であった。
「SLCMが無害だというのなら、コントラクターを集めた理由は他に何かある筈だ。ルカや叶少佐は何か聞かされている雰囲気だったが、余程の機密らしく、俺達にさえ、その情報は渡ってきていない」
 ダリルは至って平静な態度で美羽の疑問に応じていたが、言葉の端々に、情報が意図的に隠蔽されている現状に対し、幾らかの苛立ちを覚えているのが、何となく察することが出来た。
 こんなダリルも珍しい、とカルキノスと淵が苦笑を浮かべて顔を見合すシーンもあったが、ともあれ、今は得られている情報だけを頼りに、バッキンガムの捜索を進めるしかない。
「単なる技術的事故であるなら、こちらとしては救助だけを念頭に置いて行動することが出来ます。問題は、そうではなかった場合……即ち、害意を持つ何者かが今回の一件を仕組んでいた場合です」
 エシクの言葉に、その場の全員が緊張の色を浮かべた。
 誰もが潜在的に考えていた可能性ではあったが、こうしてはっきり言葉にされると、矢張り表情が硬くなってしまうのは、無理からぬところであろう。
「害意を持つ何者か、か……何だか、嫌な予感がするね」
 美羽の呟きを、コハクは神妙な面持ちで聞いていた。


     * * *


 バッキンガム艦内では、試験航行に参加していたほとんどのコントラクター達が、現状調査や事態の打開の為に各々行動を開始しているのだが、中でも葛城 吹雪(かつらぎ・ふぶき)が取ろうとしている行動は、かなり異色であった。
 彼女の目的はまず、謎の影の正体を突き止め、そして可能ならばこれを撃退することにある。
 艦内戦闘では接近戦が最も友好的だとの判断から、拳銃とマチェットのみを装備していた。
 そして吹雪が取った行動というのが、他のコントラクター達と比較しても最も性質が異なっていたのであるが――彼女は、謎の影が襲いかかりそうな者の目星をつけ、その人物を尾行することで、謎の影の出現を待とうと考えていたのである。
 要するに、吹雪の尾行を受けているものは体の良い囮、という訳だ。
 これまでの情報から、神隠しに遭うのは全て、単独で行動している場合に限定されているのだという。
 その為、艦内の全乗組員に対しては常に複数で行動することが義務付けられているが、しかし必ずしも複数で行動出来るかといえば、そうとは限らない。
 例えば就寝時、或いはトイレで用を足すとき――ひとりになる機会は、幾らでもあるのである。
 現在までに、コントラクターが神隠しに遭ったという事例は報告されていない。消えたのは全て、一般人である正規クルーばかりであった。
 それならばという訳で、吹雪はコルセア・レキシントン(こるせあ・れきしんとん)と共に、次に最も狙われる可能性の高い乗組員を尾行することにした。
 ふたりが今、静かに息を殺しながら追跡しているのは、若いソナーマンであった。
 ちなみに、このバッキンガムにはイングラハム・カニンガム(いんぐらはむ・かにんがむ)も乗艦している。しかしイングラハムは、
「こ、こんな恐ろしいところに居られるか!」
 などと叫び、ひとりで勝手にどこかへ逃走していった。
 密閉空間内だから逃げる場所などどこにもないのだが、とりあえず逃げようという意識が彼を強烈に衝き動かしているらしい。
「……それにしても、蛸がやっぱり帰ってこないであります。謎の影に襲われたか、それとも不審なミュータントと見做されて他の乗組員に始末されたか……どちらでありますかね?」
「ま、いつものことよね」
 毎度の話ではあるが、相変わらずイングラハムの扱いは悲惨そのものである。本当に契約を交わしたパートナーなのかと、誰もが疑うところであろう。
 ふたりの間でイングラハムに対する関心が湧いたのもその瞬間だけであり、その後はもう、完全に意識の外へと追いやられてしまっていたのだから、気の毒としかいいようがない。
 さて、件のソナーマンである。
 平素は中年の水雷士とのペアで行動するよう義務付けられているのであるが、トイレで用を足すからと、水雷士から離れ、ひとり狭い廊下をとぼとぼと歩いてゆく。
 これは、もしかするとチャンス到来かも知れない――吹雪とコルセアは尚一層の緊張感を持って、若いソナーマンの後に続いた。
 吹雪とコルセアが、じっと息を呑んで若いソナーマンの行動に全神経を集中させているその目の前で、事態は起きた。
 トイレのドアノブに手を伸ばしかけた彼の後ろに、まるで空間の中から湧き出るようにして、漆黒の影が出現したのである。
(で、出たでありますッ!)
 吹雪は内心で叫びつつも、まだ行動は起こさない。
 敵の全てを知らなければ返り討ちに遭う――そんな警戒心が、彼女の脚をその場に押し留めさせたのだ。
 黒い影は、天井に頭が届こうかという程の巨体であった。
 鋼糸製と思しき三度笠を被り、同じく鋼糸製の蓑のようなものを纏っているという、実に奇怪な姿を見せていた。
 その蓑の間から見え隠れする太い腕や脚は、表面が黒く爛れているようにも見えた。
 そして、その黒い影が若いソナーマンの肩に触れた瞬間、吹雪とコルセアの目の前で、彼は一瞬にして分子粒と思しき微粒子へと霧散し、謎の黒い影が差し出した掌の中に、吸い込まれてしまったのである。
 何だあれは、と吹雪とコルセアがその場で硬直してしまったのも、無理は無かった。
 しかし黒い謎の巨躯は、ふたりに見られていることなどまるで気付いた風も無く、現れた時と同じように、空間の中へと溶け込むようにして忽然と姿を消してしまった。
 それからややあって、吹雪とコルセアは若いソナーマンが消し去られたトイレ前へと駆け込んでいった。
「今のは、一体どうやったのでありますか?」
「さぁ、全然分からないわね……でも正直いって、あれじゃあ幾ら警戒しても、防ぎようがないわね。突然出てきて、一瞬で微粒子に分解されて吸い込まれて、でもってまた突然、姿を消してしまうんだもの」
 とんでもない化け物が、艦内に潜んでいたものだ――吹雪とコルセアは、揃って喉を鳴らした。