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【カナン再生記】すべてが砂に埋もれぬうちに

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【カナン再生記】すべてが砂に埋もれぬうちに

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 蘇るユトの心
 
 
 
 備蓄食糧はあまり持ち込まれなかったが、炊きだしによってユトの人々の飢えはひとまず収まった。
 栄養状態が改善されたことやコントラクターによる癒しの力により、病人は快復の方向に向かっている。
 畑の作物が育つまでにはもうしばらくあるが、それまでは町に残っている備蓄と室内で育てられているもやし等で食いつないでいくことになるだろう。
 畑には砂の被害を抑え、かつ日の光は通すビニルハウスが設置され、この気候でも育ちそうな作物が植えられた。
 砂が取り除かれた井戸に設置された手押しポンプはこれまでの水汲みの労力を大きく軽減し、その周囲はすっぽりと砂除けの為のゲルに覆われている。
 劇的な変化がほんの短期間で成し遂げられたことに、ユトの住民は驚きもし、また感銘を受けもしたようだ。
 そしてその心の動きが、ユトの人々の活力へと繋がる。
 悪い方へ悪い方へと回っていたユトは、正しく未来と結ばれたのだ。
 
 
 
 弥十郎から届けられたサンドワームの干し肉で、ユトでの最後の炊きだしが行われた。
 残った食材はユトの備蓄となるが、コントラクターたちが手を貸しての料理はこれが最後だ。
「色々なとこを旅してきたおかげで、料理はそこそこ出来るようになったんだよね」
 自分の精一杯の心をこめて、セシリア・ライト(せしりあ・らいと)は料理を作った。
「僕にできることはほんの少ししかないけど……」
 セシリアはそう言いながら、今も歌っているメイベルを見た。セシリアに出来ることは、メイベルと共にあり、メイベルの支えとなって生きること。それくらいしか出来ないけれど、それこそがセシリアが自慢できることでもある。
 メイベル同様に、この町において人々の心の支えになれるように、と思いをこめてセシリアは料理の鍋をかき回した。
 そんな傍らで、ステラ・クリフトン(すてら・くりふとん)は料理を取りに来た子供たちにノートとクレヨンを貸す。
「これをどうするの?」
「好きなものを描いていいんですよ」
 そう言いながらステラは、料理をよそうセシリア、その横でいかにも楽しそうに歌っているメイベルを描いてみせた。
 クレヨンで絵など描いたことのない子供は困った顔になる。
「描いたことないし……何を描けばいいかわかんない……」
「好きな家族、ユトの風景、好きなお花、楽しかったこと……ちょっとした身の回りのことを描いてみて下さいね。上手に描けなくても大丈夫。好きなように描けばいいんです」
 ためらっていた子供たちも、ステラに促されてクレヨンを手に取った。
 すっと軽くすべらせてみれば、ノートにカラフルな色の線が引かれる。
「きれい……」
「でしょう? いろんな色がありますからね」
 そうしていつしか絵に夢中になっている子供たちを、フィリッパ・アヴェーヌ(ふぃりっぱ・あべーぬ)はカメラに収めていった。
 今は携帯カメラやデジタルカメラが主流だが、フィリッパが使っているのは古い銀塩カメラだ。その形も重さも、しっくりと手に馴染む。
 町のあちこち、そこで暮らす人々、コントラクターと住民との触れあい。そんなシーンを撮影し、簡易的に作った暗室で現像して希望者に渡してゆく。
 写真を気味悪がる人もいれば、面白がる人もいて。
「それをのぞくと絵が撮れるの?」
 かなり興味を示したエルシャにフィリッパはカメラを差し出した。
「宜しければ使ってみませんか?」
「私にも使える?」
「ええ。思うような写真を撮るのは難しいですけれど、撮るだけでしたらすぐに覚えられますわ」
 フィリッパがカメラの扱いを教えると、落とさないようにと緊張しながらエルシャはシャッターを切った。
「後で現像してお渡ししますわ。どう写っているか楽しみですわね」
 うん、とエルシャは頷いた。
 いつか今日撮った写真が懐かしく見直される日は来るのだろうか。
 あんなことがあった、こんなことがあった。
 写真を眺めるその時の顔が、笑顔であれば良いとフィリッパは思う。
 苦しい過去も乗り越えてしまえば、懐かしい思い出となるのだろうから。
 そんな様子を微笑ましく眺めながらも、メイベルはカナンの地で育まれた歌、この町に根ざした歌を歌い続けた。
 この歌は自分以上に、ユトの町の皆が好きな歌。
 エルシャは誰も耳を傾けてくれないと嘆いていたけれど、歌う気持ちは町の人の中に隠れているだけ。日々の暮らしに追われているため、少しだけ忘れてしまっているだけ。
 ちょっとした切欠があれば、きっと歌う気持ちは思い出せる。そのちょっとした手伝いになればと、メイベルはユトの町に歌声を響かせる。
 聞いて欲しいとは言わない。一緒に歌おうとも言わない。
 ただこうして歌が近くにあること。きっとそれが大切なのだろうから。
 歌うメイベルに合わせ、漸麗も筑を奏でた。
 歌では何も癒されないかも知れない。けれど大事なのはそこではないと漸麗は思う。
 口には出さず、漸麗は筑の音色で語りかける。
(あなたたちと繋がって、あなたたちを想ってくれる人がいるなら、まだ生きていけるよ。絶望の底にある時、必要なのは『独りじゃない』ってことなんだから)
 この歌は町の人々が培ってきたもの。皆で声をあわせて歌うもの。
 どうか気づいて欲しい、人と人を繋げてきた歌の存在に。
 漸麗は心から、ユトの人々に歌を捧げる。
 そんな漸麗の様子を眺めながら、黒龍は彼から聞いた話を思い出していた。
(……そういえば以前一度だけ奴から聞いたことがあった)
 生前、筑の歌い手でもあった親友が死んだとき、漸麗は生きる意味を見失うほどの絶望を味わった、と。それでも生きようと決めたのは『友』が愛した己の筑の音を通して、彼と繋がっている気がしたから。取り残されたのではなく、想いはずっと共にあるのだと気づいたから、だと。
「……理解に苦しむが、な」
 小さく呟くと、黒龍は町の人に声をかけてみた。
「歌が聞こえるか?」
 え、と町の人は顔を上げた。想わぬことを言われたような顔をしている人に、黒龍は言う。
「音がその耳に届いているならそれでいい。もし聞こえていないなら……ただ、目を閉じればいい」
 目を閉じれば少なくとも現実を目にすることからは解放される。
 その時何が聞こえるか。
 それはその人次第、だが。
「生きたいのだろう?」
 絶望の中にあっても、どこかに生きたいという気持ちは息づいている。生きたいと思うからこそ、出来ないかも知れないことに絶望するのだから。
「なら、音を聞くところから始めてみてはどうだ? お前たちの為の音をな」
 ざわざわと不安に揺れる現実から、今ひとときは解放されて。
 その時……何が聞こえる?
 黒龍と町の人とのやり取りを横で聞いていたエルシャが、ふと目を閉じた。
 歌を聴いてくれない。そんな風に言っていた自分は、誰かの音を聞こうとしていたのかと問うように。
 目を閉じたエルシャは小さく歌を口ずさむ。メイベルの歌、漸麗の音にあわせて。
 エルシャにつられて目を閉じた町の人からも、囁くような歌声が流れ出す。
 聞いてもらう為ではなく、己の心からただ湧き上がる音を口唇にのせて――。