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リアクション
第16章 “今”に迷う
「はぁ……」
空京のデパートで起きた、大量の変異兎による襲撃事件から数日。
シャンバラ教導団にて、上層部に報告書を提出した水原 ゆかり(みずはら・ゆかり)は思わず溜め息を漏らしていた。隣では、相方のマリエッタ・シュヴァール(まりえった・しゅばーる)も同じく溜め息を吐いている。背中も丸まり気味で、浮かない顔だ。
事件に巻き込まれた2人は、同じく現場にいた教導団員のセレンフィリティ達やルーク・カーマイン(るーく・かーまいん)、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)達にも話を聞いたりして、報告書を作成した。同じ現場に居たと言っても、動いていた場所はそれぞれ違う。全員の話を総合して実際の状況を把握し、犯人の告白部分もうろ覚えだった部分を皆で補完し――何せ、突然のことでメモも取っていなかった――警察に間違いが無いか確認し、そして今日。
取得していた連休は全て潰れてしまった。自分達が報告書を提出する事になったのは情報科勤務だったからだが、それを除いたとしても、事後処理も含めて忙しい数日間だった。このままなしくずしに再び多忙な日々に突入するのが目に見えていて、休みが欲しい――と思ってしまう。マリエッタなど、買った服を兎に蹂躙され台無しにされただけにその思いは切実だろう。
「ほんと、酷い目に遭ったよねー。明日からは何だっけ?」
「ええと、明日からは……グランツ教団と癒着している政治家の電話回線を盗聴して証拠を掴む、という任務ね」
手帳を広げて読み上げながら、ゆかりは思う。これまた、気が滅入りそうな任務内容だ。情報科所属だから直接的に敵とまみえるわけではないが、それでも任務次第では常に死と隣り合わせだ。軍人になった時点で既に覚悟はしていても、来る任務を思えば少しは休みを入れたかった。
――電話回線の盗聴など、もちろん1日では終わらない。長期間の缶詰生活を経て報告書を作成し、任務解除を受けてもゆかりの心は晴れなかった。解放された、という実感もあまりない。
「こんなの、花も恥じらう乙女がするような仕事じゃないよー」
盗聴で漏れ聞いたあれやこれやの酷い話にゲンナリしたマリエッタも、気分を滅入らせ思うままに愚痴を零している。ストレスが随分溜まったようだが、彼女は任務中も適宜こんな風に愚痴っていたし、家に帰ればそう後に残らないような気がした。
だが、ゆかりはすぐに気分が切り替えられない。盗聴した通話内容がどう使われるかは分からないが、ある日、その政治家がつまらないスキャンダルで失脚するなりしたら一応『功績』にはなるのだろうがそれは決して表沙汰にはならないことだ。
「じゃあ、帰ろっか」
そんな事を考えていたら、マリエッタが先に立って歩き出した。既に、いつもの明るい調子に戻っている。
「…………」
ゆかりも続いて歩き出すが、どうにも帰る気になれなかった。「マリー」と彼女を呼んで、一言断る。
「少しお酒飲んでから帰るね」
「お酒? OK」
その口調で、マリエッタは何となくこの後の流れを予想して肩を竦めた。
(……これは朝帰りね)
⇔
グラスの中で音を立てる氷を眺めながら、ゆかりはアルコールで麻痺しかけた頭で考えていた。今回の仕事は『これは任務』と割り切るにしても些か心に思い澱を淀ませるものだった。もしかしたら、『些か』ではないのかもしれないが、それは彼女も自覚していない。
目の前に、注文した覚えのないグラスが静かに置かれる。
「あちらのお客様から」
マスターに視線で物問うと、そう答えが返ってきた。見ると、見知らぬ男性がこちらに笑顔を向けている。お礼を兼ねて話をしているうちに、ゆかりは彼に恋をした。酒が見せる、幻影の恋だ。
過去の失恋の傷を未だに引き摺る彼女だが、あるいは、だから……なのかもしれない。
一夜限りの恋――そうどこかで自覚しながら、彼女は男性と朝を迎えた。
(……誰だっけ)
一糸まとわぬ姿のまま、向かいで眠る男性を見詰める。恋する気持ちは当然のように消えていたし、恋していた事も殆ど思い出せない。
「…………」
男性を起こさぬようにそっとベッドを抜け出し、軽くシャワーを浴びて部屋を出る。家に帰ると、マリエッタが笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、カーリー!」
(やっぱり、朝帰りだったなー)
水だけ差し出して、マリエッタは昨晩のお相手については聞かなかった。玄関先で水を飲むゆかりを、黙って見守る。どうせ一夜限りの相手のことなんて、ゆかりも大して覚えていないだろう。
「シャワー浴びるね」
「あ、あたしも一緒に入るよ!」
向こうでは、本当に“浴びた”だけなのだろう。立ち上がったゆかりを追いかけて、二人でバスルームに入る。
「疲れてるのかな、私は……」
自問するようにゆかりが言ったのは、彼女の髪を洗ってあげている時だった。
(思い詰めちゃうタイプなんだよね、カーリーは)
まだどこか浮かない顔で、心に迷いを抱いているようでもあった。彼女に気付かれないように、そっと息を吐く。
「今日は非番だし、ゆっくりすれば元気になるよ。面倒な事は考えない考えない! そうだ、この前買った服ダメになったし、また新しい服買いに行く?」
それから、明るい声でマリエッタは言った。