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●姫宮和希、ユージーン・リュシュトマ

 ――あれは、『言葉』だった。
 二年前の夏の日、リュシュトマ少佐とかわした握手を、姫宮 和希(ひめみや・かずき)は忘れていない。
 大した事件ではなかった。あのとき、波羅蜜多実業の生徒が屋内プールで迷惑行為に及んだ。これを生徒会長として和希は裁き、その場に警備職として少佐が居合わせた。
 ほんの短い会話があり、和希は……

「礼より行動だ。また協力できる時はよろしく頼むぜ」
 と気さくに言って右手を差しだした。
「済まんが私は握手の習慣を持たない」
「……人に利き腕を預けるほど自信家じゃない、ってやつか?」
「いや」
 リュシュトマは、右手の白い手袋を外した。
 顔同様に焼けただれた手がそこに現れた。
「握ったら、痛むのか?」
「いや、もう痛みはない。ただ、君が気味が悪いだろうと思ってな」
「んなはずないさ」
 和希はしっかりと彼の手を握った。


 これが、和希がリュシュトマと交わした短いやりとりの結末部だ。
 以来、和希は彼と顔を合わせていない。正確に言えば何度か見かけたことはあるものの、会話するには至っていない。
 ところがそれから二年経っても、いや、二年経ったからこそ、だろうか、あのときの交流が、どうにも和希の頭から離れなくなっていた。
 あるとき、教導団の知人と話していて言われたことがある。
 リュシュトマが握手しているところを見たことがない、と。
 そればかりかどうやら、少佐が握手を許した相手は、後にも先にも和希ひとりだけらしい。
 ――特別、だったんだろうか。
 あのとき、リュシュトマはひとつしかない眼で和希を正面から見た。
 それは歴戦の和希ですら、たじろぐほどの眼力だった。
 なにか、戦慄するほどの力があった。リュシュトマは単に握手をしただけではない。なにかを伝えようとしていた。
 あの握手はリュシュトマの言葉だった。意志であり、約束だった。今、和希はそう考えている。
 もう一度会う、という約束だ。次に会ったときに真実を伝える、という言葉も聞こえた気がする。
 だから和希は、決意を込めて彼の元を訪れようとしていた。
 入院したと聞いている。かなり悪い、とも。
 癌らしい。長くないという噂も聞いた。クランジΔ(デルタ)という敵との戦いにより、すでにヒビだらけになっていた堤防が一気に決壊するようにして、容態が悪化したということである。
 会わなければならない。会って、返答しなければならない。もっと早くそうしていれば――と悔やむ気持ちはあったものの、ただ座って悔やんでいるつもりはなかった。悔やんでいる時間があれば行動を起こすというのが和希の信条だ。
 病室までたどり着いたとき、さすがの和希も足を止めて直立した。
 病室からある人物が出てきたのだ。
 金 鋭峰(じん・るいふぉん)
 鋭峰は暗い表情をしていた。
「……」
 鋭峰は和希を見ても格段感慨はない様子で、警備の兵に二三言囁くようにしてなにか申しつけると、
「今なら入っても大丈夫だ。……彼は目覚めている」
 と力なく言って場所を空けた。
 その声に生気はない。日頃の鋭峰とはまるで別人だ。
 ――無理もない。
 和希は思った。
 リュシュトマは鋭峰の古くからの配下で、鋭峰にとっては精神的な師であると聞いたことがある。さしもの鋭峰もこたえているのだろう。
 それほどに、リュシュトマの病状は悪いということだ。
 大抵の場合和希なら、元気出せよ、と歯を見せて鋭峰を励ましただろうが、あまりに彼が憔悴した様子なので無言で脱帽し、会釈するだけにとどめた。
 すれ違いざま、ぽつりと鋭峰は呟いた。
「彼……少佐は、貴君と会いたがっているようだ」
「え?」
「二度ほど、会話で名が出た。珍しいことだ」
 和希にとっても、リュシュトマとの出逢いは鮮烈な体験だった。
 それはリュシュトマにとっても同じだったということだろうか。
 それとも……?
 だが和希に問いかける時間を与えず、鋭峰は付き人と共に立ち去ってしまった。
「まあいいさ」
 自分に言い聞かせるようにして和希は病室に入った。
 殺風景な一室だ。白いベッドに白い部屋、窓から秋の陽差しが入り込んでいる。
「来たか」
 待っていた、とは言わない。温かく迎えるつもりがそもそもなさそうだ。
 それでも、ユージーン・リュシュトマ少佐の声には親しみが感じられた。
「来たぜ」
 和希の頬は自然に緩んだ。自分とリュシュトマはどこか似たところがある――と思う。うわべを取り繕ったり、社交辞令で会話をはじめたり、と、そういうのが苦手なところだ。
 ベッド脇の丸椅子に腰掛ける。
 半身を起こしたリュシュトマは、ひどく衰えて見えた。
 軍服でなく病院着というのがまずいけない。スケールが小さくなったような印象を与える。
 頬はこけ落ち、肌はくすんでいた。もともと痩せ型だったが、今では肋が浮くほどに衰えていることだろう。
 それでも、鷹のような眼光は相変わらずだった。
「私のことは聞いているな」
「ああ」
 死という言葉は口にするまい――和希はそう決めていた。泣き言も口にする気はなかった。
 だから、何でもないように言う。
「今日は報告に来たんだ」
 そもそも見舞いという言葉すら使わず、和希は切り出した。
「ザナ・ビアンカ事件のときの村……俺にとっちゃ命の恩人でもあるあの村のことだが」
 復興した村の近況を伝える。
 それに、パラ実で農業や大工仕事を学んでるみんなのことも伝える。
「頑張っている連中もいるが、まだまだ俺たちの力を必要としている人もいる。俺もそうだが、教導団も困っている人たちの声にもっと答えていくことが必要だ」
 病人だからといって配慮する気はない。いや、リュシュトマはそういう『配慮』を嫌う性格だろう。だから現役の将校に話すのとなにひとつ変わらぬ調子で和希は語った。一通り語って、
「あんたは経験も豊富でいろんなことを知っている。俺みたいな若造じゃまだまだ追いつけねぇ。力を貸してくれ。導いてくれ」
 このときリュシュトマの口の端が、わずかに上がったように見えた。
 元々、彼は右半身に大きな火傷があり、唇の端が吊り上がっているような状態なのだが、それとは違う。おおよそリュシュトマには似合わぬ言葉だが……かすかに笑ったように見えたのだ。
 そうしたいものだ……できるのであれば――口にはしなかったが、リュシュトマのかすかな笑みはそう言っているかのように和希には思えた。
「無理言っちゃ駄目だよな。すまなかった。あんたには今まで充分良くしてもらったな」
 すっくと和希は立ち上がった。
 長居するつもりはない。暇乞いするべきときが来たのだろう。
 湿っぽいのは苦手だ。明日また会うとでもいうかのような別れにしたい。たとえこれが、最後の対面になろうとも。
 ところがこのとき、あまりに意外なことが起こった。
「待て」
 リュシュトマが和希を呼び止めたのだ。
 ここまでほとんど、彼女の言葉に頷くだけだったリュシュトマが。
「短い話だ。老人の繰り言と思って聞き流してくれていい」
 老人を名乗るほど、リュシュトマは老いてはいない。しかし、かつての半分も迫力のない今の彼は、その言葉に似合うように見えてしまう。
「かつて私にも、妻子があったことがある」
 多くは語るまい、と言って、リュシュトマはベッド脇の棚から古びた手帳を取り出した。
 和希の目には一瞬見えただけだったが、手帳には理解不能な数字がびっしりと書き込まれていた。恐らくはなんらかのデータだろう。自分の得てきたもの、伝えるべきものを、暗号にして記しているのだと思われる。
 だが和希が驚いたのは手帳そのものではなかった。
 少佐がそこから取り出した一枚の写真だった。
 古びた写真だ。全体的に黄色く変色しており、四隅もボロボロだ。
 しかしそこに映った三人の人物は、和希の胸を突き刺さずには折れなかった。
「私以外はもう、この世にはいない」
 うちひとりはリュシュトマだ。今と同じように厳しい表情だが、眼帯をしておらず、火傷もない。彼は迷彩柄の軍服を着て、中央に紋のついたベレー帽を被っていた。今よりずっと、ずっと若い。
 その隣に経つ女性はきっと、少佐の妻に違いない。顔つきからして東洋人ではあるまいか。少なくとも東洋の血が入っていることは明白だった。
 そして、二人の間に立っている少女……ティーンエイジャーくらいの娘。
「驚いたよ」
 リュシュトマが独り言のように言った。
 少女は似ていた。瓜二つとまでは言わないが、顔立ち、髪型、それに雰囲気、そのいずれもが……和希によく似ていたのだ。
「そうか……」
 和希は静かに息を吐き出して写真を彼に返した。
 これまで謎だったこと、そのすべてが解けたような気がした。
「私は疲れた」
 弱音にしてはひどくはっきりとしたリュシュトマの言葉だ。
 彼はただ、片方の眼で窓の外を見ている。秋の朝を。
 和希は言葉を探した。
 しばらく逡巡したが、やがて言ったのである。
「ありがとう。そしてお疲れさん。
 いつか俺もあんたのいる場所に会いに行くから、そんときはよろしくな」
 決めたではないか、泣き言は言わないと。
 別れの言葉もいらない。
 いつか会いに行く――そのつもりだ。
 和希はベッドのリュシュトマに深々と一礼した。
 何秒か、そうしていた。
 ――またいつか会えるさ。その時まで俺たちの頑張りを見守っててくれ。
 帽子を被って鍔を手で引きさげる。リュシュトマの視線がこちらを向くのを感じた。真正面から受けるのは、気が引けた。
「……あんたの思いは俺たちが受け継いでいくぜ」
 その一言を残すと、姫宮和希は病室を後にしたのである。