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■第15章

 そのころ怪人は。
 美羽のフランケンシュタイナーで気絶したまま、ぷかーぷかーと地下水路を流れていた。

 つんつん、つんつん。
 木の棒で背中をつっつき、マントに引っ掛けて引き寄せることに成功した芦原 郁乃(あはら・いくの)は、蒼天の書 マビノギオン(そうてんのしょ・まびのぎおん)とともに怪人を水の中から引っ張り上げた。
「もう死んじゃってるかなぁ?」
 男のどざえもんってたしか、背中を上に浮かぶんだよね? あれ? 腹を上にだったっけ?
「もう。縁起でもないこと言わないでください」
 マビノギオンがぺちぺち頬を叩いて起こそうとする。
「これが怪人?」
 おかしいなぁ? 郁乃は首をかしげる。
「たしか……オペラ座の怪人って、才能はあるブサキモ系のヒッキー男子が、密かに意中の女子に近づいて親しくなるやつだよね? だけど他の男と付き合ってたことが分かって嫉妬に狂って大暴れ、挙句に振られるは相手の男に負けるはで凹むんだったような…」

 ――どこの中学生日記ですか、それは。

「こんな仮面男だったかなぁ? これだとジェイソンじゃん」
「――あれほど原典知ってるほうが楽しめることもあるんです、と言ったのに、今回もおぼろげなまま協力しに来ちゃったんですね…」
 マビノギオンは頭を抱えてしまった。
 この人、このままでいいんだろうか? あたしはこれを天の啓示と受け止め、まだ修正のきく今のうちに、何かしなければいけないのではないか? そんな思いが浮かんでくる。
「スウィップさんにそれ言っちゃいけませんよ?」
「え? なんで?」
「……まさかもう言っちゃったとか?」
「えー? そんなことー…」
 言ったんですね、言っちゃったんですね、主。
「で、でもさー、スウィップ、なんか喜んでたっぽかったよ? 目をキラキラさせてて「そうかもしんないねっ! その調子でくれぐれもよろしくねっ!」って言ってさぁ」
(――スウィップさんも、よけいなことを…)
 あははっとお気楽に笑う郁乃に、マビノギオンのお説教が今にも落ちようとした、そのとき。
「…………う…」
 仮面の奥で、うめき声がした。
「あ、気がついたようだよ」
 すかさず郁乃が指差してマビノギオンの気をそらす。
「大丈夫ですか? あなた」
 マビノギオンは、ゆっくりと開かれた仮面の奥の目を見返した。

「だからさー、女の子にずーっと粘着してストーカーするくらいのパワーがあるならさ、絶対外へ出た方が得だって」
 郁乃はまだふらふらしている怪人に向かい、そう力説した。
「せっかくの才能がもったいないし、人間、顔だけが命じゃないよ。暗くてじめじめした地下に引きこもるのも精神的にいい影響を与えないし。ちゃんとお天道さまの下で、まっとうに生きるほうが楽しいよ。いつまでもうじうじ、応えてもらえないつまらない想いにとらわれてないで、もっと広い視点で世界を見なきゃ! いろんな楽しい、美しい世界が広がってるんだから。女の人だって、何千、何万といるよ! きっとあなたが好きだって言ってくれる、あなただけの人とも巡り会えるよ! ね?」
「主の意見にはあたし賛成ですね。狭い世界では思考も狭く、つまらない人間になってしまいがちです。健康な心に人は惹かれるものです」
「そうだよ!」
 郁乃はぐいっと怪人を引っ張り立たせた。
「人を感動させる曲や話を書くためにも、あなたはまず世界が広いことを知らなきゃ!」
 前方、水路の先を指差す。
 外界の光あふれるトンネルの先を。
 怪人の前に開けた、新しい世界。

 それに向かって暗いトンネルから一歩踏み出したところで。
 怪人は、わらわらわらっと記者に囲まれてしまった。



「すみません、エポックの記者でジョゼフ・ジョゼファンといいます」
 さっと突き出される名刺。
「あ、ああ…」
「はじめまして、ティエン・シアです」
 記者に扮した高柳 陣(たかやなぎ・じん)の隣で、やはり記者の助手の格好をしたティエン・シア(てぃえん・しあ)がぺこりとおじぎをする。
「オペラ座での音楽、とっても素敵でした! 僕も歌を勉強してるから、機会があったら、ぜひ音楽を教えていただきたいな……なんて、困っちゃいますよね」
 顔を赤くしながら照れ照れで言う。
 その後ろで、ユピリア・クォーレ(ゆぴりあ・くぉーれ)がカシャッカシャッと、ひっきりなしにいろんな角度から写真を撮っている。
「あ、おい……写真はやめてくれ!」
「すみません。でもあなたのお顔、全然怖くありませんよ?」
 仮面つけてるんだから、それはそうだろう。
「いいじゃん、エリック。どうせもう地下には戻らないんだし」
 郁乃がパンッと怪人の二の腕を叩く。
「新しく生まれ変わったんだもんね!」
「え? 生まれ変わったとはどういうことですか? あと、あなたエリックっていうんですか? それは本名ですか? 下の名前は?」
 パシャパシャ。
 そう言う間も、カメラのシャッター音は続く。
「ちょっとぉ。質問は1度に1つにしてよね!」
 早くもマネージャー気取りで言う郁乃。
「それにエリックはすっっごく疲れてるの! 取材は後日にして、今日はあと1つだけにして!」
「1つですね…」
 メガネの奥で、陣の目がチカッと光った。
「ではずばり! お訊きします!
 オペラ座に張り巡らせた隠し通路。てことは、あんた……見たんだろ? クリスティーヌをはじめ、歌手やバレリーナたちの着替えを!」

 ――はぁ!?

「な、何を一体……きみは…」
「偶然でも必然でも、なんでもいい!! 1度も見なかったか? ほんとーに見なかったのか!? それとも見えなかっただけで、実際は見ようと努力してたのかっ? それは成功したのか? したんだったらどこの板だ? どの部屋のどこからどういうふうに見えた!?
 さあさあさあ! 白状しろ! 今すぐ!!」
 胸倉を掴み上げ、叩き殺さんばかりの勢いで猛攻をかける陣。
「えっーと、じゃあ僕も。
 ご飯どうしてたんです? やっぱり自炊? それとマスカレードの衣装は手縫いなんですか? 仮面ってどこで手に入れたんです? それ1個ですか? 何個予備があるんです? 食べるときははずされるんですか? 寝るときは? お風呂入ってるときは? ――って、あーこれが限界ッ」
 ひと息で言えるだけ、じゃなくて、1個だけって意味なんだよ、ティエン。
「……あの……あのっ…」
「いいから吐けっつってんだよ! ヘタに考えんな! んなことしたら自分に都合よく創作してるって思っちまうだろ? あとでこっちが勝手にまとめるから、とにかく吐けったら吐け!!」
「買うとしたらどうやってですか? 材料買ってチクチク作るって意味ですか? それとも通販?」
 パシャパシャ、パシャパシャパシャッ。

 3人の記者による質問攻めは、その後もえんえんと続いたのだった。


 ――結果。
 お外コワイとファントム、再び地下でニート化。


「ファントムさーん」
 コンコン、コンコン。
 地底湖にある館のドアをノックする音が響く。
 コンコン、コンコン。
 コンコン、コンコン。
 コンコン、コンコン。
 コンコン、コンコン。
「ファントムさ――」
「うるさい!!」
 ドアの向こうで怒鳴り声はするが、鍵が回る音はしない。
「……駄目ね、ルーマ。入れてくれそうにないよ」
 ミリィ・アメアラ(みりぃ・あめあら)はため息をつき、ノックに上げていた手を下ろした。
「こうなったら力づくで……とも思うんだけど、きっと駄目ね」
「うん。そんなことをしたら、ますます彼は内にこもってしまうよ」
 後ろについていたセルマ・アリス(せるま・ありす)も、ふうと息をついた。
「せっかくクリスティーヌさんからメッセージを受け取ってきたのに」
 なんとこの2人、あのあと駆け落ち結婚したクリスティーヌとラウルを捜して旅先まで押しかけていたのだ。

 ノール・デュ・モンド駅から汽車に乗り、ノルウェーへ――。
 だれも2人のことを知らない、あの美しい国の小さな村で、2人はひっそりと新生活を始めていた。
 そして訪ねて行ったセルマとミリィを最初は警戒したものの、クリスティーヌが幸せであることをエリックに伝えたいという意思が本物であると知ってからは、彼らを歓迎してくれた。

「わたしは幸せよ。もう二度と大舞台には立てないでしょうけど、とても幸せなの」

「ぼくも今、ヴァイオリンを練習中なんだ。そうしたら2人でいろんな村のいろんなお祭りに行って、歌えるだろう?」
 彼らは毎週のように村の酒場や広場で歌った。昔のように。その場の人たちに望まれて歌い、わずかなコインを得る。それはクリスティーヌにとって、子どものころから父としてきたことだった。ラウルに異論があるはずもない。2人の出会いはそうして生まれたのだから。
「報酬はなくてもいいんだよ。お金には困ってないからね。だけど彼女にもらった幸せな思いへの返礼として何かを返したいと思う人たちの気持ちも分かるんだ」
 ラウルはにっこり笑って、横に腰掛けた妻を引き寄せた。

「これ、どうしよっか?」
 クリスティーヌの書いた手紙をひらひらさせ、ミリィはふと思いついたようにドアと床の隙間に差し入れようとした。
「こうしといたら読んでくれるかもしれないよね」
「駄目だよ、ミリィ」
 手紙を持つ手に触れて、セルマがそっと制止した。
「これは直接渡さなきゃいけない思いなんだ。床から拾い上げていい思いじゃない。
 開けてもらえるまで、何度も来よう。ファントムを前に、きちんとお話しして、彼女の思いを手渡すんだ」
 ミリィはセルマをじーっと見上げた。
 ゆる族である彼女の着ぐるみはミリィの感情とつながっておらず、いつも笑顔のため、それがなぜなのかは分からない。
 ただ、彼女が中で小さく、ため息をついたのはかすかに聞き取れた。
「――ルーマ、変わったね…」
「そう?」
「うん。でも、悪い方にじゃないよ。ただ、昔のルーマも好きだったから、ちょっぴりさびしくなっただけ」
 彼女が自分を思ってくれていたことを、セルマは知っていた。
 ミリィもまた、彼が自分の思いを知っていたことを知っていた。
 だが、思ったからといって必ずしも報われるとは限らないことも、彼女は知っていた。どんなにそれを願っても、かなわない願いはあるのだ。ひととかかわる限り。
 そしてそれとはかりにかけても、やはり、ひととかかわることはすばらしいことなのだ。

(だってワタシ、ルーマと会わない方がよかったなんて、絶対思わないものね。これからも、だれとも会いたくないなんて、思わないもん)

「行こう、ミリィ。また明日来よう」
「明日はファントムさん、入れてくれるかな?」
「うん。きっとね。きっと…」



 立ち去って行く2人を、ドアのすぐ横の窓からそっと見送る者がいた。
「帰ったよ、エリック」
 マザー・グース扮する<謎のペルシャ人>ダロガである。
 怪人が招き入れたわけではない。しかし館の構造をすべて把握しているこのペルシャ人は、入ることも出ることも自在なのだった。
「エリック?」
 さっきの出来事を手帳にメモりながら、ダロガは彼のいる応接室を振り返った。
 入り口は開いたまま、中のロウソクのあかりがちらちらと揺れて見えている。
「……聞こえているよ、ダロガ…」
 弱々しい声が聞こえた。
 とても聞き取りにくい、小さな声。
 しかし仮面ははずされ、椅子のサイドテーブルに置かれているため、聞き取れないことはなかった。
 手帳に彼の状態を記す作業は止めずに、ダロガは部屋のソファへと戻る。
「どうやらあの2人は、きみにクリスティーヌからの手紙を届けに来ていたようだよ」
「……いらぬ、ことだ……彼女が、幸せなのは、分かっている…」
 ため息のような息つぎを挟みながら、ゆっくり、ゆっくり、怪人はしゃべった。
 力の失せた手足はだらしなく伸び、椅子からずり落ちて崩れた体を元に戻す力もない。
 怪人は、死にかけていた。
「わたしもまた……幸せなのだよ……ダロガ…。こんなに、幸せに、なれるとは、思ってもみなかった…。
 もう……これ以上は、いらない……ほどに…」
 そっと閉じた目から、涙がこぼれた。

「ダロガ……信じ、られるかい…? わたしに、彼女が、キスをくれたんだよ……初めてのキス……だ。母にすら、わたしはキスして、もらえなかった……わたしも、キスさせて、もらえなかった…。ほかの、だれも……触れさせても、くれなかった…。ああ…………だから、当然だろう? わたしが泣くのは…。けれどまさか……クリスティーヌも、泣いてくれるとは…。分かるかい? あの涙は……わたしを、思って、泣いてくれたんだ……わたしと一緒に、わたしを思って、泣いてくれた…。
 天におわします神よ……あなたはこのあわれなエリックに、地上の幸福を全て与えてくださった…」

 だれも、これほどの幸福を感じることは決してないだろう。
 彼の不幸な生い立ちすら、それと知るためにあったのだとまで、彼には思えた。
 あの苦しくて、みじめで、だれかを呪わずにはいられなかった日々は、全てこの幸せを知るためにあったのだ。

「神の愛……幸せを胸に……わたしは天上界へ行くよ、ダロガ。そしてきみには……これを、あげよう…」
 大切な彼の宝物。
 クリスティーヌがこの館にいた間に書きつづったエリックへの手紙、2枚のハンカチ、手袋、リボンだった。
「もうひとつ、願いをきいてくれるか…? ダロガ。昔の、友よ…」
「なんだ? 言ってみるがいい」
「わたしが死んだら……死亡通知欄に……載せてくれ…。エリック死去と…。それだけでいい……クリスティーヌに、あの2人に、伝わるように…」
「分かった」
 立ち上がり、ダロガはテーブルの上に乗った箱を受け取った。
 箱の上から力なく、怪人の手が落ちる。
「きみは……わたしの、本を出す、つもりだね…? ふふ……それも、いいかも、しれない……ね…。
 だが、必ず、書いてほしい……エリックはこの世の全ての幸せを抱いて、死んでいったのだと…」
「ああ。分かった。安心しろ、エリック」
 ダロガは頷き、そっと、流れた涙をぬぐった。
「だからおまえも、明日は彼らに会え。クリスティーヌの思いに向き合うんだ」


 3週間後、エポック紙に次のような短い1行記事が載った。
《エリック死去》




 さて。
 ではオペラ座の方はどうなったのかというと…。
 
 実は、廃業に追い込まれていた。

 スタッフの謎の死。
 プリマドンナ・カルロッタの醜態、引退。
 シャンデリア落下事件。
 プリマドンナ・クリスティーヌの誘拐事件。
 怪人との地下での闘争。

 これだけあれば十分な醜聞で、ひとが遠巻きにして敬遠するのは当然だったが、それに拍車をかけたのが緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)の画策である。
 彼はその出来事全てをおどろおどろしく改変し、改悪し、一気にパリ中に広めた。

 遙遠いわく。
「しょせんうわさですので、根も葉もないことも含めて、悪い批評をどんどんどんどん増やしていきましょう」

 オペラ座で働いている者にとってはたまったものではない。
 迷惑この上ない。
 いや、はっきり言おう。大・迷・惑!

 オペラ座も、負けるものかとさまざまな手を使い、風評をなくしてしまおうと懸命になったが、しかし遙遠の策略はさらに続いた。
 数々の事件で被害者が出たことをもとにして、さらに創作を膨らませ
「今のところは避けられていたが、この先観客に被害がおよばないはずはない」
とか
「あのオペラ座に近づくと呪われて、悲惨な最期を遂げることになる」
といったうわさを上流階級に流しまくった。

 実際シャニィ伯爵フィリップが謎の事故死を起こしたものだから、そのうわさの信憑性がにわかに高まり、上流階級の者はだれもオペラ座に足を運ばなくなってしまった。

 定期会員を失い、パトロンを失ったオペラ座が、存続していけるはずはない。

「あんな事件の起こる火種(オペラ座)はない方が、この街の人々も安心して暮らせるはずです。事件など起きない平穏が一番ですよ」
 閉鎖されたオペラ座を前に遙遠は淡々とつぶやき、自分の為したことに満足して、その場を立ち去ったのだった。