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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

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●春の花、咲く花

 色をつけるなら、黄緑色だろうか。
 そんな、気持ちのいい風が吹いている。
 小高い丘、その斜面の芝に背中を預け、組んだ両腕に頭を乗せているのは葉月 可憐(はづき・かれん)だ。眺める空は青く、包み込んでくれるように柔らかな光を投げかけてくれている。
 今日、この場所を可憐が、パートナーたるアリス・テスタイン(ありす・てすたいん)と訪れたことにとりたてて理由はない。強いて言うならば『理由がない』ことが理由とでもいうべきだろうか。過去やしがらみ、心の傷、日常の雑事からも義務からもすべて自由なひとときを過ごしたかった。
「可憐ー、どこにいるの? さっきの水仙の群生地からもう結構歩いてるけど……」
 アリスが自分を探していることに気づき、可憐は身を起こして手を振った。
「そこにいたの。気持ちよさそうじゃない」
 アリスは可憐の処に駆け寄り、すとんと隣に腰を下ろす。
 ここがなんという土地か二人は知らない。ただ、周囲にまるで人の姿がなく、草木が茂ってくつろぐにはもってこいの場所だということだけは理解していた。二人で水辺を散策して、ここにたどりついたのだった。
「昨年度は一年間……特に後半、でしょうか。色々な事がありましたね」
 アリスに言うでもなく自分に言いきかせるでもない口調で、可憐は独り言のように言った。
 するとアリスはごくあっさりと応じたのである。
「あー、確かに色んな事があったねぇ……放校とか」
「まぁ、私も真っ先に思い浮かべるのはその事ですが……相変わらずアリスはずっばりきますね」
 蒼い溜息とともに可憐は、アリスの緑色の瞳をのぞき込む。アリスが平然としているのは彼女の強さだろう。
「もう過ぎちゃったことだし、あんまり気にしすぎない方がいいとは思うけど」
 とはいっても……と、可憐は割り切れない気持ちがある。
「その……放校になったからこそ、名誉挽回といいますか……その事だけに躍起になってしまった年になってしまったなという反省があります」
「で、ここに散歩に来たということだね」
 アリスは鋭い、可憐の言いたいことがわかっているようだ。可憐は頷いて、
「そういうわけです。見失っていたそれ以前の私を振り返ってみようかなぁ……と所謂一つの初心回帰、でしょうか。幸いにも季節は春。私の大好きな花の咲く季節ですし、それを見にいこうかと」
「できそう? 初心回帰?」
「わかりません」
 可憐は寂しげに微笑んだ。この笑みを見れば世の男性の少なくとも半分は、たちまち可憐に恋してしまうに違いない。アリスは話題を変えるように言う。
「あ、そういえば春は水仙、秋は彼岸花って言ってたね」
 さっきまで鑑賞していた水仙のことに触れているのだ。可憐も話題を花に持っていく。眼に明るさが灯った。
「えぇ、水辺に咲く水仙……ヒガンバナ科の群生は独特の魅力があって素敵ですよね……♪」
 立ち上がって可憐は、数歩あゆんで足を止めた。
「とはいえ、それはあくまでも前座です。今日の主目的は……こっちです」
 それは紅い、雛罌粟(ひなげし)の花であった。
 燃えるような赤ではないが、つい目を奪われてしまう淡い美のかたちがある。
「まぁ、あくまでもパラミタ産……雛罌粟モドキかもしれませんが、でも私の知っている物と大差ありませんし、これも雛罌粟ということで」
 ふぅん、としゃがんでアリスは言う。
「なんだか、さっきの水仙の後じゃ見劣りしちゃわない?」
「そうですか? 草原に咲く可憐な野草……私は嫌いじゃないですよ」
 その花弁に優しく触れて彼女は続けた。
「知ってます? 雛罌粟って、実はかなり長い期間咲き続けるんですよ。春の、他の艶やかな花に紛れてひっそりと……それでも懸命に咲く花。主役にはなれないけれど、季節の彩りを飾る花――私がかつてそう在りたいと願っていた、想い」
 言葉が、目的と繋がった。
「ゆえに、初心回帰ですよ」
 感極まったように可憐は目を閉じた。胸の中のつかえが消えた気がする。
「確かにすっきりとした素直、というか素朴な花だよね」
 言われてみれば、とアリスも合点した。アリスは思う。
(「確かに……最近は焦っていた気がするし、心が荒んでいた気もするね。私は特に、剣の花嫁……可憐の映し鏡みたいなものだから、可憐の気持ちは何となくわかってた気がする」)
 そこまでは言うまい。可憐が楽になったように見えたのは嬉しかった。
 可憐はじっと目を閉じている。そのまま空に顔を向けた。まるで自身が、一輪の雛罌粟になったかのように。
 アリスも倣った。可憐の妹のように。あるいは、その娘のように。
 今、二人の間に時間の流れは存在しない。
 ゆっくりと休もう。ゆっくりと、春になろう。

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 白い花、桃色の花、黄色い花に赤い花……幸せの歌を口ずさみながら、リュース・ティアーレ(りゅーす・てぃあーれ)は色とりどりの花でブーケを編んでいた。花の組み合わせがセンスの見せ所、同じ材料であっても、配色と集め方でブーケの表情は幾通りにも変化する。リボンの巻き方も工夫すればするほどに楽しい。手慣れた手つきでリュースは、きれいにまとめては次のものへととりかかる。
「春は好きな季節なので、今日みたいな日はいいですね」
 リュースは店主、花屋『T・F・S』の経営者なのだ。歌を唇に宿らせつつの仕事、悠々自適という感じで大変によろしい。なお、今日は空京大学で懇親会があるので講義はすべて休講という話だ。仕事に専念できるというもの。
 いつの間にか彼の歌に、シーナ・アマング(しーな・あまんぐ)の透き通るような声の歌唱が加わっている。二人の声はハーモニーを奏で、店内を幸せな気分で満たした。
 ちょうどお客が途切れ、現在、『T・F・S』に客の姿はない。それを見て、
「リュー兄」
 と龍 大地(りゅう・だいち)がリュースに話しかけた。
「何でしょう?」
 上機嫌に返事する彼に、大地は植木鉢を重ねる手を止めて言ったのである。
「好きな食べ物と嫌いな食べ物は?」
「唐突な質問ですねぇ?」
「いいからいいから。お客さんもいないし答えてくれよ!」
 そういえば最近、とリュースは思う。
(「時間が空いた時になると、最近質問攻めを受けるんですが、一体何なんでしょうね? 大学で何かレポートでも提出するんでしょうかねぇ」)
 まあ別に訊かれて困ることでもないので、彼は簡単に返答した。
「好きな食べ物? 羊のグラーシュですかね。嫌いな食べ物は特にありませんよ」
 すると大地は、
「ふむふむ、羊のグラーシュねぇ。食べたことないや……嫌いな食べ物は……何というかリュー兄らしいというか、だなぁ」
 などと言いながら、しきりとブルックス・アマング(ぶるっくす・あまんぐ)のほうに視線を送っている。
 この質問は大地というよりは、ブルックスが知りたいと思っていることなのだろう。察しのいいシーナはすぐにそれと勘づいて、音もなくブルックスに近づくと小声で彼女に問うた。
「ブルックス……リュース兄様のことが好き、とか?」
 いきなりのストレートな問いに、ブルックスは一瞬にして顔を桜色に染めてしまった。
「え、えと……それは……その……」
 決して「うん」とも「はい」とも言っていないが、限りなくそれに近いものと見て良さそうだ。
 好きな人のことは知っておきたいもの。それならばシーナも一肌脱ぐにやぶさかではない。はい、と手を挙げて彼女は言った。
「リュース兄様に私からも質問させてください」
 そして振り向いたリュースに告げたのだ。
「好きなお花は何ですか?」
 フラワーショップを経営している以上根本的だが、それだけに大切な質問である。
「好きな花は桜とラナンキュラス、それとヤグルマギクですが」
 このあたりは反射的に返答できるリュースだ。なお、ヤマルギクは彼の故郷ドイツの国花なのだ。
「どれも素敵なお花ですよね。私も好きです」
 と眼を細めるシーナと入れ替わるようにして、
「じゃあ、好きな色と嫌いな色も教えてほしいな!」
 なぜか拳をぐっと握って大地がふたたび問うた。
「今日はいちだんと質問ラッシュですね……。好きな色は蒼系でしょうか」
 嫌いな、というよりは苦手な色は、と前置きしてリュースは述べた。
「パステル系の可愛らしい色。オレには似合わないですからね」
 ひょいと肩をすくめる。ところがシーナは、
(「似合わない? そうでしょうか。一度、お召し物に選んでさしあげたい色です」)
 などと考えて微笑した。
「ブルックスからの質問はないんですか?」
 というリュースの言葉に、
「え、私? 私がリュー兄に聞きたいこと?」
 弾かれたように棒立ちしてブルックスは口ごもった。そのうえ、
「んーと、えーと、その……好きなタイプは?」
 思わず口が滑ってしまって、穴があったら入りたい心境で小さくなってしまった。「リュー兄、今のナシ、ナシ!!」と大至急キャンセル宣言をしたかったが、しかしリュースはそんなブルックスの乙女心を知るよしもなくさらりと答えたのである。
「好きなタイプ? ああ、気の強い子ですかね。こちらを振り回してくれる位がちょうどいい」
「胸派? 脚派?」
 間髪入れず大地がまた問うた。
「それ、鶏肉の話じゃないですよね……ムネ肉かモモ肉かとかそんな…………ええ、話の流れから想像はつきましたが、一応確認しておきました」
 大地、二人の前でセクハラですよ? と、たしなめておいてリュースは特に照れもせず返答したのである。
「でも、言うなら、脚でしょうか。あと、姿勢がいい子の方がいいですね……ところで、こんなの聞いてどうするんですか?」
 しげしげと三人を見回してリュースが言ったので、大地は慌てて両手を交差させ×印を作って、
「それは秘密! だぜ!」
「です」
 すぐさまシーナも×印した。
「私も……」
 心なしか肩を落としうなだれた様子で、ブルックスも×印したのだった。
「秘密? 秘密ねぇ……ま、いっか」
 さして気にすることもなくリュースは、「今日は一日楽しく過ごしましょう」と仕事に戻った。
「ええ、そうしましょう」
 と言いながらもシーナは、気遣うようにブルックスの背に触れた。
「そんなに気にすることはないと思います」
「え……? うん」
 けれどブルックスはやはりしょんぼりとしていた。
(「気の強いタイプが好み、って……私リュー兄を振り回せないかも」)
 それに、と自分の脚に恨めしげな視線を落とす。
(「美脚が好きなんだ、リュー兄……もうちょっと背丈欲しいかも」)
 外はすっかり春なのに、いくらか雪の残っているようなブルックスの心なのだった。
「そうだよ気にすんな」
 と自分もブルックスに呼びかけようとして、あっ、と大地は振り向いた。
「いらっしゃいませっ!」
 そこに立っていたのは教導団の制服を着た青年士官……どこか、愁いに満ちた目をしたクローラ・テレスコピウム(くろーら・てれすこぴうむ)であった。
 クローラは鉢植えに差す植物用栄養剤を求めに来たのだ。大切な、鉢植えに差すための。